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Karte.1 自己愛の可不可-水鏡
自己愛の可不可-水鏡 12
しおりを挟む「Vorrei parlare col.Fuyuki Sawamukai(沢向冬樹をお願いします)」
消灯時間の迫った院内で、珠樹は電話の向こうに低く伝えた。イタリアへの国際電話である。
しばらくして、
「Pronto? con chi parlo(もしもし。どなた)?」
と、聞き慣れた声が、返って来る。
紛れもない自分の声だった。
「ぼくだよ、冬樹」
やはり、声を聞くとホッとする。この病院が嫌な訳ではないが、双子の兄である冬樹の存在は、珠樹にとっては特別なのだ。
「珠樹か。どうした? 熱は下がったのか?」
慈しむような冬樹の声が、全身に渡った。それだけで体が熱くなる。
「うん。もう何ともない」
「今どこだ? 空港に着いたのか?」
「まだ日本。――そっちは今、お昼過ぎだろ?」
「ああ」
「忙しくない?」
「適当にやらせておけばいいさ。ヨーロッパじゃ、日本人はモテる」
「男に、だろ?」
「フッ。早く来いよ」
「駄目なんだ。今、病院にいて――」
「病院っ! どうしたんだ? 怪我をしたのか!」
冬樹の声が、途端に高く、早口になった。それだけで心配の度合いが伝わって来る。恐らく、珠樹のことをこれほどに案じてくれるのは、冬樹だけだっただろう。今はその冬樹が、これ以上心配しないように、この状況を説明しておかなくてはならない。
「怪我じゃなくて、母さんが――」
珠樹が言いかけると、
「あのクソばばあっ! また性懲りもなくっ。――何をされたんだ、珠樹? 俺がいない間に何をされた!」
冬樹の声が、怒りを含んで暴れ回った。
心配と怒りで、話も冷静に聞けないようで。
「違うよ。何もされてない。連れて来たのは母さんだけど、今はぼくの意思でここにいるんだ」
「おまえの?」
「ああ。だから、ミラノへは行けないけど心配しなくていいよ」
「どういうことだ? 閉じ込められているのか?」
悪い方へと想像が巡る。
「そんなことないよ。院内からは出られないけど、先生に言えば許可がもらえるし。――あのね、ドクター.春名がここにいるんだ」
「ドクター.春名?」
「ああ。知ってるだろ? ぼくたちの大学の先輩で、精神分析学者で、精神科医の――」
「待てよ、そこは日本だろ?」
「クス。驚いただろ? 二年くらい前にUSAから戻って来て、この病院にいるんだ。で、ぼくの担当医に――」
珠樹は自慢げに言ったのだが、
「担当医だと? おまえ、精神病院に入れられたのか!」
冬樹の声が、驚愕に変わった。
「大声出さなくても聞こえるって――」
「応えろ、珠樹っ!」
「精神病院じゃないけど、精神科だから同じかも。でも、心配は――」
「クソっ! あの女、そんなことまで――! 待ってろよ。すぐに連れ出してやる」
「違うんだ、冬樹っ。ぼくの意思でいるって言っただろ」
「馬鹿言えっ! あの女に無理やり入れられたんだろ?」
「心配症だなァ」
ただ珠樹のことが心配なだけ――冬樹はいつも、そうなのだ。
「あの女の魂胆が解っているのか? おまえをその病院に一生閉じ込めておこうとしてるんだぞ。医者に金を渡して入院させて!」
「春名先生は金なんか受け取らないよ。最初は無愛想で怖い人だと思ったけど、笑うと優しくて、少し冬樹に――」
「おまえは丸め込まれているんだ。でなければ、病気でもないおまえを入院させるはずがないだろっ」
「誤解だって――」
「何が誤解だ?」
「春名先生は、ぼくに自信が出来るまでここにいればいいって言ってくれたんだ。ぼくは一人の人間で、自分の意思を――」
「おまえは俺の半身だ。ドクター.春名はあの女とグルになって、俺たちを引き離そうとしてるんだ」
「違うよ。ぼくも同じ質問を春名先生にしたんだ。そうしたら、ぼくと冬樹を引き離すんじゃなくて、ぼくたちが一人ずつの人間だという自覚を――」
「そんな言葉に騙されたのか?」
どう説明すればいいのだろうか。実際に会ってみれば、すぐに判ることだと言うのに。
「違うって言っただろ。冬樹も春名先生に会えば解るよ。そりゃ、精神科なんて聞こえはよくないけどさ。でも、ここはそんな暗い雰囲気じゃないんだ。ナースは白衣なんか着てなくて、普通のスタイルでいるし、つんけんしてなくて色々話してくれるし。今日もお茶会に呼ばれて――。そういうのがあるんだよ。ナースたちの間で、ドクターに内緒で」
「……」
「あ、でも春名先生は知ってて、ぼくはきっとナースたちの間でちやほやされるだろうからって――。『冬樹』が有名なモデルだからね。先生も『冬樹』のこと――」
「そこにいろ。すぐに連れ出してやる」
「え、冬樹――」
電話は、ガチャン、とそこで切れた。
不通音だけが聞こえてくる。
その電話を手に、珠樹は困って眉を落とした。
――大丈夫だって言ったのに……。
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