可不可 §ボーダーライン・シンドローム§ サイコサスペンス

竹比古

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Karte.1 自己愛の可不可-水鏡

自己愛の可不可-水鏡 11

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 その日の春名の帰宅は、八時過ぎになった。というか、いつもこんなものである。――いや、早く帰れた方かもしれない。
「今日は笙子はなし、か」
 食卓に並んでいるのは、二人分の食事である。
 このマンション――春名の自宅たるマンションの向かいの部屋には、クリニックの美人セラピスト、霧谷笙子が住んでいる。その位置関係のせいで、春名だけでなく、彼女も仁に食事を頼る生活を続けているのだが――。いや、春名の場合は家事の一切、仕事の整理の一切を仁に任せているのだが。それ故、ここは春名の部屋でもあり、仁の部屋でもある。
「クリニックの『お客様』のパーティだと聞いてますよ。心配ですか?」
 春名の呟きを耳に止めたのか、仁が皮肉な視線を持ち上げた。
「ん?」
「本当はパーティじゃなくてデートだとか」
 どうやら、春名の心が知りたいらしい。仕事は出来ても、まだそういうところは子供なのだ。
「かもな」
 と、余裕の表情で言葉を返すと、
「大人だから、お互い何をしようと気にしないんですか?」
 少し不満げな言葉が返って来る。
「いや。有閑マダムの相手も大変だ、と思ってな」
「笙子先生は優秀なセラピストですよ。クリニックに来るお客様クライアントのほとんどが各界の名士のご夫人で、疲れる話を何時間も聞いて」
「ああ」
「でも……」
 そう言った限、仁はフォークを降ろして、唇を結んだ。
「ん?」
「今回こっちに回って来た患者は……」
「沢向珠樹か?」
「本当にこのまま入院させておくんですか? 入院が必要な患者じゃないでしょう?」
「まだ拘っていたのか」
「……」
「彼は自分を一人の人間だと考えていない。兄と同一の存在、1=2が彼の考えだ。そして、兄がいなければ自分は存在しない。1=0だ。何より、彼は必ず回復する患者だ」
 春名はゆっくりと説くように、言葉を続けた。
 沢向珠樹は、回復する患者なのだ。そして、本人も治療を受ける意志を持っている。
 彼は賢く聡明な青年で、女が駄目な訳ではなく、恐らく女を知らないだけで――いや、他の人間を知ろうとしなかっただけで、決して他人を受け入れることが出来ない人格障害者ではない。
「……兄がいなければ、先生を頼るだけですよ」
 むっつりとした口調で、仁は言った。
 あの後、長引いてしまった珠樹の診察のことを知っているためでもある。
「何だ? 今日は随分と意地が悪いじゃないか」
「だって、そうでしょ? 彼は、自分を素晴らしいと認めてくれた先生を理想化して、先生をとても有能だと褒めている。『理想化転移』は『自己愛的人格障害者ナルシスティック・パーソネリティ』に見られる特徴じゃないですか。彼は、自分の担当医たる先生を褒めることで、自分自身を褒めているんですよ」
 その言葉の通り、『理想化転移』は、彼ら『自己愛的人格障害者ナルシスティック・パーソネリティ』に見られる特徴で、彼らは自分自身を優秀な医師の一部として、自分の担当医を褒めると同時に自分自身を褒めているのだ。そんな行為については、恐らく生後半年から三~五歳までの中核自己期に、父親が理想的な父親としての役割を果たしていなかった場合や、父親に代わる対象を他の人間に見て、褒め称えるのだと考えられている。
「その未分化を治療するのが俺の仕事だ。そうだろう?」
 病気の人間だからこそ、医者が要る。
「……。弟の方はそれでいいですけど、兄の方はどうするんですか?」
 瞳を伏せたままの問いかけである。
「どうしたんだ、今日は。やけに絡むじゃないか。仁くんらしくもない」
 普段なら、患者の治療に異議を唱えたりしないはずである。春名が精神科医であり、患者に治療が必要なことは、彼もよく解っているのだから。
「何となく嫌な予感がするんです。母親が兄の目を盗んで弟だけ連れて来るなんて、どう考えても異常です」
「……。異常、か」
 確かにそれはそうだろう。それに、仁の言う予感は、ただの予感とは違っている。
「先生に何かあったら……」
「気をつけるよ。仁くんの勘は信頼している」
 軽い口調で春名は言った。が、それでも仁は不安そうで――。食卓は沈黙に近かった。
 食器が触れ合う音だけがする中、
「彼らを精神的な双生児にしたくないんだよ」
 春名は、診察時に覚えた危惧を口にした。
「――。精神的って、まさか……っ。そんなこと――」
「1=0は、兄がいなければ自分もいない、だ。――君もUSAむこうで耳にしたことがあるだろう? 双生児の兄弟が、一室で一緒に死ぬ……」
「……」
「サラダを取ってくれるかい?」
「……。はい」
 美しい食卓は、美しい双子を眺める時間にも、似ていた……。


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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
感想 11

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