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Karte.13 籠の中の可不可―夜明
籠の中の可不可―夜明 30
しおりを挟む診療所へは、春名と仁が行くことになった。無論、小春を一人残しておくわけにはいかないので、沼尾には寺に残ってもらった。
本当は、足を怪我している仁を残していくべきだったのだろうが、
「歩けます! 絶対、行きますからね!」
と、頑として言い張ったため、松葉杖をつきながら、春名と行くことになったのである。こちらは機嫌を損ねると、衣食住に大きな影響が出てしまうのだから、仕方がない。
散歩ほどの歩調で診療所に向かう途中、ちょうど往診から戻って来た榧野医師の車に拾ってもらえたお陰で、延々と歩かずに済んだのだが。
――笙子に、自転車を送ってくれるように頼むべきだったかな。
そんなことも脳裏を過った。
往診中、の札を下げたままの診療所へ入り、
「お茶でも入れましょう」
という榧野に、
「あ、ぼくがやります」
と、仁が奥のキッチンに入り、
「彼に任せておくのが一番おいしいですよ」
と、春名も言葉を付け足した。
そして――、お茶が入るまでの間は、当たり障りのない話で場を繋いだ。
この診療所は、午前の診察を終えると、昼休みを挟んで、村の在宅患者の所へ往診へ行き、午後五時からまた診察が始まる。――といっても小さな村なので、忙しくて仕方がない、ということはなく、大学病院にいた頃を思うと、本当にのんびりしたものらしい。
――明日は午後診もないし、寺の客を誘って、釣りにでも行こうか。
と、榧野医師も、虹色に光るオイカワの姿を思い浮かべながら、考えていたところだったそうだ。そして、
――あの小川へ近づいたら、また警戒されるかな。
とも……。
お茶が入り、あの小川の話が出たところで、話題は核心へと移り変わった。
「昔からの村のしきたりとはいえ、ちょっと物々し過ぎないですか、あれは?」
春名が訊くと、
「今日は、さすがに僕も吃驚しましたよ……」
榧野医師は、自分もまた、村人たちの言動に行き過ぎを感じた一人だった、と言いたげだった。
「今日は? いつもは違うんですか?」
「え? さあ、僕は森に入ろうと思ったことはないですからねぇ。小川で釣りをする時に、絶対に向こう側へ行かないでください、と言い含められたことはありますが」
「理由は何と?」
「この村では昔からそれを守っている、と言っていましたね」
「獣害が理由じゃなく、しきたりなんですよね?」
「まあ、しきたりを破ったから、恐ろしい獣害が起こった、みたいな感じだったんじゃないかなぁ」
榧野医師の話では、小春の父親が惨たらしい姿で殺されてから、村の人間たちの様子が目に見えて変わった、ということだった。
陽が傾き始めると、どの家も魔除けの竹籠を急いで軒先に置くようになり――いや、昔からその風習はあったのだが、今は薄暗くなる前に、どの家も忘れることなく置いている。そんなもので獣害が防げるとは思えないのだが、信心深い田舎の人々がすることなので、榧野が口出しすることでもなく――。
だが、これだけでは終わらない――そんな予感もしていた。村人たちの怯え方が、そんなことを思わせたのかも知れない。
今朝のことにしても、余所から来た人間が森へ入ったというだけのことで、村の男たちが五人も出て来て――。心を病んだ少女が、我を忘れて森へ入ったのを、ただ連れ戻そうとしただけだというのに。
可哀そうに、母親を癌で亡くし、その後すぐに父親を熊に殺されてしまって――。
「熊が出るのは珍しいんですか?」
「どうかなぁ。僕はここへ来てまだ一年だし……」
――熊……。
あれは本当に、熊の獣害の痕だったのだろうか。
仁の問いに、榧野はあの日の記憶を引き擦り出した。
熊以外にあんな恐ろしい傷はつけられない。猪や鹿、その他森に棲んでいる獣の傷とは、全く違う。顔も首も胸も背中も、全身が鋭い爪で切り裂かれ、牙を立てられ、正視しかねるものだった。
病死や自然死ではなく、変死体であったため、榧野は死亡診断をする立場になかったが、検死後に帰って来たご遺体と共に、その結果が伝えられた。傷は、どんな刃物や凶器とも一致せず、獣の爪や牙によるものだろう、ということになっていたのだ。
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参考文献
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
ナルシズム 中西信男著 講談社刊 自閉症 玉井収介著 講談社刊 異常の構造 木村敏著 講談社刊 心理テスト 岡堂 哲雄著 精神病理から見る現代思想 小林敏明著
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