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6.愛しいことば

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「…お前、全然進んでねーじゃん」

「うるさいなあ、いろいろ感慨に浸ってんの!」

「嘘つくな、今漫画読んでただろ。机の中は?クローゼットは?荷物出したのかよ。あ、その本棚もちゃんと全部片付けろよ」

「母親なの!?ちょっと気が散るから出て!」

私の進捗状況を逐一チェックしてくる綾瀬の背中を押して、無理やり部屋から追い出した。

私は、この土日を利用して、自室の荷造りをしている。

『綾瀬、私は実家に戻るね』

あの後そう告げた私に、あの男はやっぱり優しく笑って頷いた。1年にも満たない、この家で過ごした時間。振り返るにはあまりにも、思い出がありすぎる。だけど、立ち止まってはいられないから。

「……よし」

無理やりに自分を鼓舞して、あの男が煩く忠告して来た本棚から手をつけるかと、座り直す。シノさんに手渡されては貯蓄が増えていった本棚。今はまだ難しくても、全てちゃんと大事に持っておこうと決めて譲り受けた本を取り出す。

「…何これ」

本棚の奥。本を全て取り除いた後に、貼り付けてあった小さな紙を見つけた。──まるで、此処を片付けると決めなければ、見つけられないような場所。震える手で、だけど吸い寄せられるように掴んだ。




『桔帆。桔梗は、とても素敵な花だよ。

僕は、今も、これからも、そう思ってる。
花は裏切らない。
そう言った君がひどく印象的だった。

いつも花にひたむきに愛情を込める君は、
本当は誰よりも愛情を求めていたような気がした。
これを見つけたってことは、きっと進めてるね。

桔帆、これから、沢山の愛を知って、
それを誰かに伝えながら、生きていけるよ。

その力が、絶対にあるよ。

だって、僕の格好よく終わる予定だった人生を
最後に大きく変えて来たんだよ。

大誤算なんだけど?』


「………っ、」

こっちの方が、よっぽど、遺言みたいじゃない。ちゃんと、口で言ってよ。
形にできない、言葉にするのも難しい、そういう温かさが、もうずっと心に注がれ続けている。

その紙を胸に抱いて、涙はやはり止めどなく溢れ出た。私はあと何回、あの人を思い出して泣くのかな。
何十回、何百回、千回超えちゃう可能性もあるかな。

──だけど、それでも、立ち止まったりはしない。




はじめて、出会った時。

貴方の屈託のないお日様みたいな笑顔に、
私はとにかく居心地が悪かった。

日陰で生きる人間には眩し過ぎると、
目を逸らして、自分勝手に苛立ったりもした。

──ずっと、気づかずにいたの。




貴方の言葉が、
与えてくれた時間が、
結んでくれた縁が、
その全てが。


私には全部、差し込む光だった。


その光に触れた日々をちゃんと大事にして
私は、前に進まないとね。








ボロボロの顔で下へ降りると、困ったように表情を崩す綾瀬が居た。


「……綾瀬のとこにも貼ってあったの」

「うん」

「なんて、書いてあったの?」

「教えるかよ」

相変わらず腹の立つ男は、それでも私を見て笑った。



シノさんは、この家のことを、なんと私の兄の橙生に任せていた。中古住宅などのリノベーションを扱うあの男と、いつの間にそんな連絡をとっていたのかすごく驚いたけど。来年には、きちんとリフォームを施して、新しい家として生まれ変わるらしい。

この家が必要なくなること。必要なくなるようにすること。シノさんはきっと、そこまで織り込み済みだったんだろう。いつまでも此処にいちゃ駄目だという、シノさんからのメッセージだと思うし、私もそう思っている。

『俺は、お前が羨ましいけど』

『ええ?どこが』

『俺なんかより青春してんじゃない?』

橙生は、電話越しに揶揄うように告げる。

『必死に縋り付いていたいくらい大事な場所なんか、そんな簡単にできないだろ』

立ち止まらない、そう決めた。だけど。此処で過ごした時間に、後ろ髪を引かれてしまう。振り返ったら、あまりに愛しく胸を焦がす日々がある。それは確かに、青春と呼んでもいいのだろうか。











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────


一部屋の荷造りなんて、思った以上にあっという間で。私は次の週には、荷物を全て両親に引き取りに来てもらった。

「…じゃあ、行くね」

「ん」

車の中で待つ両親を気にしながらも「帰る」ことが日課だった家の前で、私は綾瀬に告げる。

綾瀬。

シノさんの仕組まれた同居生活から、
3人での生活の時も、シノさんがいなくなってからも。

──そのすべての時間が、私にはとても大事だった。


私はあんたに触れられると心が騒がしくて、簡単に翻弄される。その理由を伝えたら、どうなるんだろう。返答が怖くてずっとある気持ちは、まだ言えそうには無い。寂しさを抱える中で、足の向きを変えようとした時、いつもの不機嫌さを纏って、綾瀬は私を呼ぶ。


「お前、フラワーデザイナーになるんだろ?」

「…何、いきなり。そんな簡単にはなれないから。でも、できれば花に携わる仕事がしたいと思ってるけど…」


提出した進路調査票は、白紙じゃ無い。花の勉強ができるような、そういう専門学校の名前を書いた。進学校と言われる中で、私の選択も、就職を選ぶ りおの選択も、やはり注目を集めた。

また引かれてるよと溜息を吐く私に、『周りに人いない方が、あたしらの将来が広く見晴らせて良いんじゃん?』なんて、キラキラのアッシュの髪に負けないくらいの輝きで笑うりおに、私も笑った。


「まあ、頑張れ」

「はあ?言われなくても頑張りますけど!」

他人事のようにさっぱりと告げる男に、なんだか私1人が寂しいようで、もはや腹が立って来た。もう行くから、と今度こそ足を踏み出そうとするのに、この男に再び名前を呼ばれると、私はやはり振り返ってしまう。


「それってさ、手に職つける、ってこと?」

「……え、まあ、そうなのかな」

急な質問に戸惑いつつ答えると、ふうん、と男は確かめるように声を出す。そして。

「──じゃあ、俺の傍でも、できる?」

「………え?」

「ばーか」

間抜けな声を出して口を開く私を見て、綾瀬は悪態を吐くくせに、やっぱり優しく笑った。




『綾瀬 

お前は一番弟子だよ。
ずっと最初から一生、そうだよ。
日本語学に
真摯に向き合うお前が誇らしかった。

どんな仕事に就いても、綾瀬は大丈夫だよ。


あとは僕の大事な娘を、よろしくね。
お前にとっては、“妹“では無いと思うけど。

この認識、間違ってないでしょ?』




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