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4.二人だけの世界

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「…シノさん」

梗佳さんとのことを語るシノさんは、とても穏やかで、でもその横顔を見ていたら一気に不安になった。
海が歌うように、寄せては返す波を見つめるシノさんは本当に捕まえていなければ消えてしまいそうな気がした。

「……梗佳は、ランチの前に友達とフラワーショップに寄ってたらしくて。クリスマスに届くように内緒で手配してた花に、手紙も付いてた」


『駿。結婚する前、私は将来も駿がいればそれで良いって言いました。だけど、それをちょっと、撤回します。私は、2人の暮らしを大事にしていく。それはずっと一生変わらないけど。それをたまにね、他の人にも自慢したいよ。駿も、自慢してくれて良いんだよ?』


「勝手なんだよね、うちの奥さん」

ふとお日様は微笑む。その笑顔はいつも通り優しい。優しくて、温かくて、寂しい。

「……僕は2人の世界で良いって思ってたから。大学でも、教授同士も生徒にも、最低限の付き合いで生きてきた。でも、これは梗佳からのたった一つの遺言だから。そこからは、もう少し世界を広げてみようか、って思うようにした。そしたら、なんか常に不機嫌で口の悪い男に出会ったし、暗い公園でじっと息を潜める生意気な猫にも会った」

クスクスと懐かしむシノさんは、すごく失礼なことを言っている。だけど私も、綾瀬も、いつもみたいに悪態を吐かない。──そんなこと、言えなかった。


「シノさん、私も、梗佳さんに会ってみたかった…っ」

声が震える。だけどどうしても言いたかった。シノさんは少し驚いたように、こちらを見て、それから優しい目元をくしゃくしゃに細める。

「桔帆。いつの間にそんな風に泣けるようになったの」

「………泣いてないよ」

「いや、号泣だよ」

はは、と空気を揺らして笑うシノさんに、確かに言い訳するには苦しい。私の頬は涙に濡れてとっくにもうぐちゃぐちゃだ。コートの袖で目元を拭う私を見て、シノさんが深く息を吐き出す。

「……ほんと、誤算だなあ」

「え…?」

「梗佳が死んだことを、僕は誰かにちゃんと伝えたことが無かった。実家とは縁が切れていたし、梗佳も早くに両親を亡くしていたし。その事実を1人で抱えて生きてきた」

「、」

「抱えてきた、じゃ無いか。逃げてきた。桔帆。僕が、命日に花を贈らないって言ったのは、結局、ずっと梗佳が居ないことを認められて無かったからだよ」

「…シノさん」

「……僕以外で、梗佳の死を悲しんで泣いてる人を、初めて見た」

ぽつりぽつり、包み込む声が夜の海に馴染んでいく。
お日様はやっぱり笑っていた。その笑顔があまりにも切なくて、だけどこの夜の中でも眩しく輝いていて、私はもっと涙が出た。

「……梗佳が言いたかったのは、これか」

確かめるような彼の声が、少しだけ震えていた。2人だけの世界は、きっととても綺麗で澄んだ愛情の世界。それを紡ぐ一方で、その愛をたまには外にも自慢したい、なんて。

私は梗佳さんに、やっぱりお会いしてみたかった。



◻︎

話終えて、電車で揺られている時、シノさんは再びバカンスへ行くと宣言した。丁度大学もテストが終わって冬休みが始まるというのは知っていたけど「シノさんは年に何回バカンスに行くの」と私の素朴な疑問に、ただ笑って光を放つ。

「……桔帆」

「ん?」

電車の座席シートに、シノさん、私、綾瀬の並びで座っている。私の左隣はどうやら寝てしまっているようで、話には入ってこない。

「…花も、人間も、同じだよ」

「…え…?」

「ここまで成長したんだって、認めてもらえれば、光を取り入れてまた頑張れるから」

急に脈略なくそんなことを言うシノさんに私は瞬きしてその言葉をゆっくりと咀嚼する。

「だから僕も、光を取り入れに行く」

「シノさんは日光浴しすぎじゃない?」

「酷い!!研究会も学会も全部、日々戦場なんだよ?戦ってるんだから」

「何それ」

クスクス笑うシノさんにつられるように私も微笑む。緩やかに揺れる電車の中で流れていく穏やかな時間が、ずっと続いて欲しいと心から思った。



家に戻り、洗面所で自分の顔を確認した私は、予想以上に泣き腫らした酷い顔に驚く。これは明日までに腫れは引くのだろうかと思いつつ保冷剤を求めて台所へ向かうと、不機嫌な綾瀬が冷蔵庫の前で立っていた。

「酷い顔」

「、うるさいな、退いてよ」

この男は、海でも帰りも、全然言葉を発さなかったけど、シノさんの言葉全てを聞き終えて、どんなことを思っているんだろう。すると綾瀬は、一歩近づいていつの間に持っていたのか、私の目元に遠慮なく保冷剤を当ててくる。冷たいそれを感じるくせに、身体は熱を帯びて、その異変を綾瀬に悟られる前に逃げ出したくなる。

「…桔帆」

「な、何」

近い距離にいる男からは、私と同じシャンプーの香りがする。それが鼻に届いてしまえば、心臓は簡単に鼓動の拍を増す。

「…はやく寝ろ」

私の髪をぶっきら棒に乱した綾瀬は、そう言って台所を出て行った。簡単に触ったりしないでよと思うのに、胸がぎゅう、と締め付けられる私は、やっぱりどこかおかしくなってしまったみたいだ。


◻︎

次の週、シノさんは、大きなバッグを持って朝早くに出て行った。手作りのおにぎりを朝ごはん代わりに渡したら「え~勿体無くて食べられないかも」なんていつもの調子で笑って。

「桔帆、行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい」

大学へ行く時と何も変わらない、そういう見送りだった。

違和感を感じたのはそれから数十分後、洗い物をしていた時。私は手を滑らせてシンクの中でグラスを一つ落とした。鋭い音を立てたその一瞬で、グラスには歪な大きいひびが入ってしまった。

心の奥がざわついている感覚が確かに、ある。

「……桔帆?」

異変に気付いて傍にやって来た綾瀬にも、うまく反応ができない。ドクンドクン、不整脈を繰り返す身体が震えている。
栓を閉めていない蛇口から、容赦なく流れていく水音が耳の奥で、嫌に響いていた。




そこから、もうすぐ半年。
──シノさんは、まだ帰って来ない。




『…何考えてんの』

『何が?バカンス長くなるかも知れないから留守の間よろしくね』

『休職、いつから考えてた?』

『綾瀬。勘が鋭すぎるのは、可愛くないよ』

『どこに行く気だよ』

『桔帆には、言わないで。後、僕が心配だからって捜索願とかもやめてね』

『じゃあちゃんと俺には本当のこと言ってから行けよ』

『……綾瀬』

『俺は、あんたの一番弟子じゃねえの』

『お前から言ってくるのは初めてじゃ無い?愛しいんだけど』

『あのさ、俺はふざけて言ってるんじゃねえんだけど』

『こっちもふざけて無いよ。綾瀬。僕ね、───』






愛しくて、大切で、そこにずっと居られれば、それでよかった筈なのになあ。
そこから足を踏み出したら、お前に会いたいってぐちゃぐちゃに泣いてる女の子がいる。
不機嫌で口が悪いのに一番弟子だって主張する男がいる。

梗佳。

──誤算に焦ってる俺を笑う?



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