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4.二人だけの世界

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◻︎


「…え?」

「アパートの契約、更新して」

「どうして?」

いつものように作った料理を手際よくテーブルに運ぶ梗佳の手が止まる。交際を始めてもうすぐ1年。お互いのアパートを行き来する日々の中で「駿、もう結婚しようか。家賃勿体ないし同棲期間も必要ないよね?」とあまりに男前に告げられた言葉に、呆気に取られたのが確か1ヶ月前。丁度お互いのアパートの更新が迫っていたため、梗佳は解約して俺の家に引っ越してくると2人で決めていた。

「俺が解約する。ここを出て行く」

「……何言ってるの?」

「やっぱりまだ結婚とか考えられない。まだ研究だって山積みだし。縛られずに自由で居たいなって思う。別れよう」

なるべく抑揚をつけないように、彼女を見ないように。──見たら、きっと俺はもう手放せないから。

「じゃ、そういうことだから」

ひどい奴だと詰ってくれれば良い。固まる彼女に目もくれず逃げるように玄関へ向かった時だった。鈍い音と同時に後頭部に痛みが走る。
そして次の瞬間には、カラン、と安っぽい金属音が床から聞こえた。


「……は?」

「なんなの」

「……痛いんだけど」

なんと彼女は、使ったばかりのお玉を俺の頭に投げつけたのだ。どんな凶暴さだと、固く結んでいた心をほぐして突っ込みたくなった。寂しそうに床に転ぶそれを見つめていた時、いつの間に距離を詰めていたのか、梗佳が俺の胸ぐらを掴みあげる。



「……目、見て言ってよ」

「、」

「私が嫌いになったから別れよう、ってちゃんと言ってよ…っ、」

言えるか。俺はこれ以上一緒にいたら、お前を手放せそうにないんだよ。その気持ちのまま咄嗟に歪んだ俺の顔を見逃さず、ぎゅうと首に腕を回してくる彼女に呆気なく視界が滲む。


「駿は嘘が下手だよ」

「……上手いと思ってた」

「下手だよ。知らなかった?」

ビー玉のように透き通る瞳は、出会った頃から何も変わらない。その瞳に囚われて、俺はとっくに抜け出せない。

「…お前は、子供が好きだろ」

幼稚園での仕事はしんどいことも多いけど、子供たちは天使だから頑張れると。ちなみに園長は残業ばっかりさせてくる悪魔だと。ケラケラ笑いながら語ってたお前が、俺は好きなんだよ。

「梗佳。俺といたら、子どもは出来ない」

絞り出した声が、決して広いとは言えない部屋の中で
散り散りになって溶けていく。昔からよく熱を出した。高熱が続くことも多くあった。それは今でも同じだ。俺は、身体が強くは無い。

「この間病院でそういう話をされて、検査した。そしたら、…っ、」

危惧していたことは、その通りだったと、情けないことに最後まで梗佳に上手く伝えられない。

「……私は子供が好きだよ」

「うん」

だから、離れよう。そう言おうとしたのに目の前の彼女は、目を真っ赤にして、それでも無理に笑おうとする。

「でも、私は、駿と、居たいんだよ。未来も、駿が居ればそれで良いかって、思うくらいには、駿が好きだよ…っ、」

それは、今までで1番下手くそな笑顔で、1番愛しかった。ぎゅうと抱きしめてくる彼女の背中に、俺も腕をそっと回す。

「……梗佳」

「何」

「結婚しようか」

「だから言ってるじゃん前から」

「お前が勝手になんのムードも無く言うから、俺は言い損ねた」

「今時、女子からもプロポーズするんだよ。知らなかったの?」

そう言って笑う彼女に、何の冗談でも無く、ただ、永遠の愛を誓うように唇を寄せた。




その夏の7月20日。婚姻届を出した帰りに花屋を見つけた。


「花でも買う?」

「……こういうのはサプライズするもんだよ」

ちょっと不服そうに言いながら、でも彼女が嬉しそうに選んだのは桔梗の花だった。梗佳は、自分の字にも入っているそれに親近感があると言って、「花言葉「永遠の愛」だよ?ぴったりじゃん」と無垢な瞳を細めて嬉しそうな笑顔を見せた。

その後、俺は博士課程を修了して、助教授をして大学にそのまま残っていた。論文を読んで興味を持った今の大学の教授にスカウトを受けて。准教授から教授になるまで、それなりに時間もかかったけど、やっとなれた時、俺より梗佳の方が嬉しそうだった。
古いけど落ち着く日本家屋の一軒家を内見して即決して。休日は縁側で2人過ごす穏やかな日々。それさえ続けば。2人だけの世界の中で、他は何も要らないと、そう思っていた。













寒さが空気を余すことなく冷やし切る、12月の中旬。彼女と過ごす何度目かの冬が来た頃だった。


「駿。私今日、高校の時の友達とランチだからそろそろ行ってくるね」

「……今日、午後から雪だよ?」

「大丈夫だよ。駿も折角の休みなら、誰か誘って出かけたら良いのに」

「……態々その労力が面倒」

いつからか、梗佳は俺がそういう怠惰な反応を示すと少し困った顔で笑うようになった。「俺はお前がいれば、それで良いよ」と言えばやはり、頬を強く抓られた。


夕方からは、しんしんと雪が降り積もった。もう少し後だったらホワイトクリスマスだったのにね、なんて天気予報を見て笑った梗佳は、まだ帰らない。ランチにしては、遅すぎないだろうか。友人との会に水をさすのも、と思っていたが、流石に電話をしてみようか。居間にある自分の机に向かって執筆していたが、時計を確認して椅子から立ち上がる。その瞬間、静寂を破る電話のベルがやけに騒がしく聞こえた。早る胸騒ぎは、気の所為だと思いたかった。


"──東明 駿さんのご連絡先でお間違い無いですか?この雪でスリップした自動車同士の事故に、奥様が巻き込まれました“


梗佳。
俺はお前がいれば良い。ずっとそう思ってきたから。

お前が居なくなったら、どうしたら良いの。



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