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4.二人だけの世界

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「──おい」

「っ、」

不機嫌な声で私の睡眠を急に断絶してくるそれに、体が大袈裟に反応した。目を開けると、眼前いっぱいに広がる綺麗な顔に気がつく。

「………な、に」

「お前は馬鹿なの?知ってたけど」

第一声から腹立たしい。そして私は、もう優等生では無いけど、思ったより馬鹿では無い。むくりと起き上がると、傍に蹲み込んだ吊り上がった一重が私を貫くように見ていた。

「この寒い時期にこんなとこで寝るな」

「昼間は日が照ってて、もうちょっと暖かかったし」

「今くそ冷えてるけど。昼寝にしては寝過ぎなんだよ馬鹿」 

語尾までも、ムカつく。
今日は期末テストの最終日で、午前中で授業が終わった。バイトが無かった私は、りおと昼食を食べてそのまま帰宅した。掃除や洗濯、いつものルーティンを終えて、この縁側から庭の様子を見つめて。今は勿論咲いてはいない、でも確かにそこに存在する桔梗の根がある場所の土も、ゆっくりと水で潤した。
穏やかな日課を全て終えた私は、寒さの中でもポカポカと注がれる陽気に誘われるように、縁側で眠ってしまっていたらしい。

「……さむい」

確かに既に日は暮れて、木枯らしが吹いている今この時間は、縁側は寝る場所としては全くそぐわないということは分かった。学校指定のネイビーのセーターさえ冷たく感じる。

「だから言ってんだろうが、あほ」

未だに隣で暴言しか吐かない綾瀬を強く睨んで、起きあがろうとしたのに。

「つめた」

「、」

何を思ったか、目の前のいつだって機嫌の悪そうな男は、なんの躊躇いもなく私の頬に自身の指を這わせた。その瞬間に、自分の中だけでしっかりと音を立てて固まってしまう体を自覚する。金縛りのようだった。

「……顔、赤」

「離せ」

「はいはい」

低い声で短く言えば、あっさりと離される熱にどこかで寂しさを持つ私は、もうずっと、自分がどうしたいのか分からない。この男は、まるで平然と猫をあやすように私に触れる。言及されてもなお、熱を帯び続ける顔を悟られたくなくて、慌てて視線を外しながら上体を起こす。動悸が激しくて息をすることも苦しい。それはただ冬の分厚い風に圧迫された所為だと思い込む。

「腹へった」

「…今日、ラタトゥユ作る」

「お前はまた、よく分かんねえとこに手を出す」

はあ、と寒々しい空気を震わせるように綾瀬は呆れて呟いた。私の料理の腕はあれからほんの少しだけ、上達したのかもしれない。この男も、私が作った料理は全部食べている。毎回文句を言われるのはいつものことだけど、この間「上達したかもしれない」と伝えたら「自惚れんな」と一蹴され、そろそろ一度殴っても良い頃だろうかと考えを巡らせたところだ。

「あー、寒」

「──そこの暇そうな2人!!海行こう!!」

ブルリとまるで大型犬のように身体を震わせた綾瀬が立ち上がった瞬間、薄暗い夜に向かう景色にそぐわない、明るい声が背後から届いた。

「は?」

「……シノさん、おかえり」

いつの間に帰ってきていたのか、シノさんは腰に手を当てて、仁王立ちしつつ元気に再び「海!」と意気揚々と声を上げた。

「よし!そうと決まれば直ぐ出発するから早く準備して」

「全くそうと決まってねーし、この人は何を言ってんの?」

「さあ…」

「ちなみに車は無いから、電車で行こうね」

「……本当に行くの?」

「え、そうだよ?」

「なんで海なんだよ」


今はもう、クリスマスが間近に迫った12月も半ばで海を見に行くのに適している時期だとは全く言えない。急に予定を決め打ちするシノさんに戸惑う私がこっそりと隣を窺うと、怪訝に顔を歪ませる綾瀬がいる。

「──僕の、奥さんが居るから」

シノさんは大切なことを後から言う傾向がある。いつもの包むような柔らかい声が告げた言葉に固まる私と綾瀬を交互に見つめて、眩しく笑った。





◻︎

「……さ、寒い」

「先生さ、なんで夜に来るんだよ。より一層寒くて死ぬわ」

「まあまあ、そう思って自販機であったかい飲み物買ってきたじゃない」

「そんなもんで和らぐか。海をなめんな」

「漁師みたいなこと言うね綾瀬」

先生と綾瀬が言い合いしてるのは日常茶飯事なので、それを無視するスキルはこの数ヶ月で着実に身についたと思う。最後まで文句を言っていた綾瀬も、結局シノさんには敵わなくて3人で仲良く電車に揺られ、寒さが色濃く滲む海へ辿り着いた。

『──僕の、奥さんが居るから』

シノさんは、奥さんのことが大好きだと、よく知らない私でも分かる。毎月20日に新しい花束を私が生ける様子を嬉々として見守る姿からも明らかだ。きっと綾瀬もそれを分かっているからこそ、文句を言いながらも此処に来た。砂浜に座り込んだシノさんの顔も、私の隣にいる綾瀬の顔も、ちゃんと確認するには海を遠くから照らす規則的に並ぶ外灯の明かりだけが頼りだった。

「…奥さんのお墓は無いんだ。ここに散骨した。お墓とか窮屈って言いそうだなと思って」

「……」

「今日は命日だから、どうしても来たかった。綾瀬と、桔帆と」

シノさんは私達を見て、甘く優しく瞳を細める。その瞬間、冷たい潮風が私達の間を通り過ぎて、外気に晒された部分の肌を、取りこぼさないように撫で付けていった。

「綾瀬。僕がお前に初めて会った時言ったこと覚えてる?"綾瀬の未来の見据え方は、不安になる。"そう言ったんだよ」

「…ああ」

「お前は文学部なんて絶対興味無いって、最初から思ってた」

「そうだよ」

隣にいた綾瀬は、記憶を手繰り寄せて確かめるように静かに呟いて肯定する。座るシノさんときちんと視線を合わせるためにその場にお尻はつけずに蹲み込んだ。

「誰かへの当て付けとかそんな感じなのに、どこか不安定で。その歳で中二病拗らせてるの?って感じだったよね」

「うざ」

この2人は隙があればすぐ言い争う。というか、シノさんの絶妙に揶揄うような言葉に、綾瀬が一方的に怒っている。綾瀬の不満気な反応に、軽快に空気を揺らしたシノさんは「僕と一緒だ」と再び微笑む。

私も、綾瀬も、咄嗟に反応が出来ない。今日のシノさんは、何故だかとても頼りなく映る。手を伸ばしてしっかりと掴んでおかないと、この夜の暗さに消えてしまいそうな、そういう不安が自分の心に巣食う。穏やかな海を前にしているとは思えないくらいに心がざわつく中で、少しずつ言葉を紡ぎ始めたシノさんの声に、じっと耳を傾けていた。






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