上 下
32 / 47
3.繋がないことの優しさ

3-8

しおりを挟む



◻︎

「……う、嘘でしょ?」

高1の時から使っている財布をガバッと開けて中身を至近距離で何度確認しても、その残金は私が帰りたい×駅までの運賃に足りない。
家を出る支度をしながら、あまり現金が無いと不安を呟くと「こんだけあれば帰りも足りるよ!」と一緒に財布を覗いて太鼓判を押してきたシノさん、許さない。
券売機の上に掲げられた路線図が残酷に告げてくる運賃に絶望しつつ、大きな溜息をこぼす。私、こんなところまで来て何してるんだろう。

迎えに行くどころか、靴を投げて終わった。こんなの、シノさんに情けな過ぎて報告できない。


「──おい」

途切れることなく溜息を漏らし続けていると、背後から低く掠れた声が聞こえる。

「……え、」

「お前は何をやってんの」

そう言って近づいてくる綾瀬は、私の目の前で足を止める。鬱陶しそうに、怠そうに首元の汗をシャツで拭う綾瀬は、いつもより少し息が切れているように見えるのは気のせいだろうか。

「そ、そっちこそ、何の用」

「は?俺は帰るんだよ」

「………か、帰るの?」

「当たり前だろうが、俺は論文も研究も山積みなわけ。暇な女子高生と違って忙しいんだよ」

腹立たしいことを言わせるだけの大会があれば、この男は絶対優勝できるだろう。いつも使う駅に比べれば往来は全く激しく無いゆったりとした時間の中に存在する駅の中に、長身の端正な顔立ちのこの男はやっぱりあまり似つかわしく無い。

「……豆腐屋さんには、ならないの」

「…ならねえよ。お前は要らないって言われた」

「え、!」

驚いて焦った声が出た。綾瀬は瞳を細めて何かを思い出すようにクツクツと笑っている。その表情の解し方は珍しくて、なんとなく見つめてしまう。

「……で?お前のあの発言はなんなわけ?」

「は?」

「誰が、女と如何わしいことしてろだよ」

「、」

そうだ、あの時私は靴を投げた勢いに任せて色々言わなくて良いことも言った。

「…綾瀬、彼女いるでしょ」

「はあ?」

「……マホさん。今日電話で話してたでしょ」

視線を合わせずに告げて背中を向けた瞬間、綾瀬は吹き出した。そして、声を上げて笑う。そんな姿、今まで見たことが無くて結局、振り返って男を視界に収めてしまう。なんだこの人、なんでこんな笑ってるの。理解が追いつかず、ぽかんと間抜けな顔をする私に、柔らかい眼差しが向けられた。


「……あのな。マホっていうのは、真幌まほろね」

「……?」

「瀬尾 真幌。お前も、今日会ったんじゃねえの?」

「!?」


今日出会った、彼の優しい笑顔を思い出すと目がみるみる開かれた。じゃあ何。私の勘違いってこと。カアアと、集まっていく顔の熱に気付いて、八つ当たりに近く楽しそうな男を睨みつける。

「……ま、紛らわしい電話すんな!!」

「何に怒られてんの俺は?」

未だに珍しく表情を崩す男を置き去りにして、改札へ勢いよく向かう。
そっか、彼女は居ないのか、なんだ。そう思うと何故かほっと安堵する胸に違和感を感じてしまう。

「如何わしいことしてきたのは、まあ否定しないけど」

やっぱり最低だった。出会った頃からこいつの首元には、似合わないキスマークを何度も見てきた。綾瀬と居ると気持ちが自分の把握し得ない領域で上がったり下がったりして、しんどくなる。
この人は、私にとってなんなんだろう。綾瀬の両親にも、上手く自分の立場を説明出来なかった。

その答えを探したいようで、探したく無い。






顔をトマトのように真っ赤にして改札へ勢いよく向かう後ろ姿にどうしても笑えた。俺も表情の緩みを抑えて後を追おうとしたところで、ポケットのスマホが震える。

"綾瀬、最近どうしたの?付き合い悪いじゃん。そろそろ相手してよ“

媚びた高い声で鼓膜を揺らすその顔を、俺はもはや思い出せない。我ながら確かに、最低だとは思う。性欲を満たすだけの関係は、楽だし、そこそこ必要だと思っていた。自分のテリトリーに入れる事は無く、欲しい時に足を運ぶだけだから、先生の家に住んでも特に支障は無いと踏んでいた。

でもなんでだろうな。
なんかもう、めんどくせえわ。

「……あのさ、もうかけてこないでくれる?」

“は?“

「…俺、変な教授と猫の世話で忙しいんだわ。あと薄味の料理ばっかり食べてたら、そういう気分になんなくなった」

"…はあ?"

女がまだ何か言葉を言おうとしたのを遮るように電話を切る。後数回はこのやり取りをしなければと思うと億劫だが、例えばどう詰られることがあっても、目の前の女に「最低」だと言われる方が恐らく腹が立つ。

「……綾瀬」

「あ?」

いつの間にか近くまで戻ってきた桔帆は、眉間に皺を寄せてふいと、それこそ気まぐれな猫のように視線を逸らす。

「…電車賃、足りない」

真っ赤な顔で告げられたそれに、らしくなくやっぱり笑ってしまった。


その後暫くして、数ヶ月後の閉店が決まったと連絡が来た。お疲れ様とか、そういう気の利いたことは言えないから「慰安旅行でも行けば?」と、返事の代わりに旅行券を送った。



しおりを挟む

処理中です...