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2.ちぐはぐな友達

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──というのが、きっと恐らく1時間ほど前の話だ。向かい合う私と男に挟まれたダイニングテーブルの上の、一応湯気を上げてはいる物体について、詳しい説明は、もはやしたくない。


「なんだこれ」

「……キーマカレー」

「………これ、人間が食えんの?」


男がげんなりした表情のまま指差しているのは、私が作ったキーマカレーになる予定だったものだ。


「……急に言われても、料理とかちゃんとやったこと無いし」

「お前はあの類いか?初心者のくせに身の程をわきまえず、何故か上級からチャレンジする奴。まずカレーを作れるようになってからキーマカレーに手ぇ出せよぼけ」

私は今、確実に身体が震えている。勿論怒りで、だ。ギロリと無言のままに睨み上げると、向こうも全く同じ顔をしていた。

「…じゃあそう言うあんたは、料理できるわけ?」

「どういう立場で聞いてきてんのか知らんけど、普通にできるわ」

「得意料理は?」

「湯豆腐と冷奴」

「…料理なめてるんですか?」

「お前よくそんな台詞が吐けたね?」

この黒い物体の処理方法を考えてから言えよ、と再び私が用意した料理を無遠慮に指指す男に苛立ちが止まらない。

「…大体、こういう展開で転がり込む女は料理とか家事ができる、が十八番だろうが」

「……」

「マジで、庭の世話しか出来ない捻くれた女子高生とか、怠すぎるだろ」


レシピを検索すれば簡単に出来そうだと思ったのに、想像以上に多い工程に手間取った。挽肉は焦がすわ、そのくせ野菜は思ったより火が通ってないわの散々な結果だ。私は、料理さえ上手く出来ない。湯気をあげている物体を黙って見つめていると、目の前からはやはり不機嫌な溜息が聞こえてくる。


「庭とか花とか、先生が喜ぶとしても、この2週間俺へのメリットが0なんだとしたらお前が居座るのは認めねーよ」

「…分かりました」

椅子の背もたれに深く身体を預けた男が腕組みしながら紡ぐ言葉はとても冷静だった。不機嫌な顔と声ばかりのくせに、それでもシノさんのことを"先生"と必ず呼ぶ所だけは気になったけれど。反論は出来ないと食器を持って立ち上がろうとすると、「まだ話終わってねーだろ馬鹿」と低い声で制される。



「…1週間」

「え?」

「1週間で、料理習得しろ」

「………え、」

「1週間経ってもまじで俺にメリット1個も無かったら、追い出す」

「……それまでは、居ても良いってことですか」

「追い出すつもりだったけど、試用期間含めて利用した方が便利だろ」

「言い方が最低ですね」

「…あ、言っとくけど他の家事も全部な」

「全部!?」

「甘えんな、当たり前だろうが。家賃の代わりに喜んで奉仕活動しろ」

とんでもない暴君が決定事項を告げてくるけど私の今の末端の立場では返せる言葉は勿論無い。

「掃除する、とか洗濯する、は流石にできるだろ」

「なめないでください、出来ます」

「この料理作った後とは思えない堂々さで、まじで引いてる」

どんな見積もり方してんだお前と、鼻で笑いつつ言葉を畳み掛けてくる男は、まるで私の怒りのポイントをしっかりと把握した上で丁寧に網羅しているかのようで、より一層腹立たしかった。



◻︎

自室として2階の奥の部屋を使って良いというのは、シノさんから聞いていた。最も重要な、暴君が居住しているという事実が抜け落ちていたことに関しては、しっかり問い詰めていきたいけれど。

・朝は、大体遅くまで寝てるから邪魔をするな
・昼間も、邪魔をするな
・夜は、とりあえず晩飯は用意しとけ
   (自室に籠るから飯以外で邪魔をするな)


殺伐とした雰囲気の中で男が私に提示してきた同居のルールとやらは、もはやただの命令でしか無くて清々しさまである。「良かった、とりあえず此処に居られる」とギリギリで首の皮が繋がったような展開に、安堵する気持ちも芽生えていた。

失敗したキーマカレーを処理して食器を洗い終わり、自分の荷物を部屋に持って上がろうとした時、ふと気になって、台所の隣の広い居間が繋がっている縁側へ足を向けた。


「…こんな感じなんだ」

いつも夜に見つめる庭の様子は、明るい光の中だと随分雰囲気が変わる。日光や雨風に晒されて痛みを蓄積している縁側の床材は、すだれのカーテンをしていたと言えど、今日の灼熱の日差しによりしっかり暖められてしまっていた。その温度を全身で確かめるようにゆっくり寝そべる。
うちの縁側は魅力的だと語ったシノさんの言葉通り、この場所には途端に眠気を誘い込むような魔力まで潜んでいる気がする。あの柔らかい声が「ほら言ったでしょ?」と誇らしげに伝えてくるのを思い出せば、先程まで緊張状態にあった四肢の力が抜けていく。肯定を表すようにそのまま微睡んでしまう。

あの後、すぐ電話をかけたけど、バカンスに浮かれているらしい男は全く電話に出てくれない。シノさん、一体何を考えてるの。


「…おい」

「っ、なん、ですか」


目を瞑って意識を手放しかけていた私を、あっさりと、低く少しだけ掠れた声が引き戻してくる。寝転んだままの姿勢を変えずそう言えば、私の頭上近くでしゃがみ込む男の鋭い瞳に見下ろされていた。

「お前、洗濯とか分けないで一回でやれよ。水道代無駄だから」

「……」

細かい男だ。主婦か。じ、と下から覗くと、光に反射した瞳は色素の薄い髪と同じ茶色で、容易く私の考えを見通してしまいそうな眼光の鋭さがある。


「ガキに欲情するほど暇じゃねーから」

「、」

指令通り、同時に洗濯するということは勿論下着なども全部含まれる。そのことに無意識に顔が歪む私により一層顔を近づけた綾瀬とかいうシノさんの1番弟子は、腹の立つ鼻笑いと共に、やけに妖艶な声で言葉を落として来た。
何か反論しようと口を開いたその瞬間、男のいつもの不機嫌な冷たさにはそぐわない真っ赤な花びらのような痕が首筋に落ちていることに気がつく。それがどういう時に生じるものなのか、流石に深入りして聞かなくても、私でも分かる。

まずは1週間、お試し期間と言えど此処に居られると先程安堵した私は、この男と同居することはもしかしたら早まったのかもしれないと、縁側で寝転んだままに感じていた。



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