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1.ピンク色の無い花束
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ミンミンミンと、蝉が自分の生命力を訴えかけるように大きく鳴いている。直下に射してくる太陽の光は容赦が無く、夏真っ盛りだ、と当たり前のことを茹だるような暑さの中で思う。
「あっつい…」
言葉にすればより身体に暑さがのしかかってくると分かっていながらも、言わずにはいられない。帽子をもってくれば良かったと、背筋に汗が流れていくのを感じながら後悔が襲う。雲一つ無い空からは、強い陽光が降り注いでいて地面をじりじりと焦がす。
今歩いている道は、“歩き慣れた“と表現してしまって差し支えが無いくらい、私は殆ど無意識で目的地まで足を進めることができるようになっている。いつもと違うのは、その時間帯と、私の荷物の量だ。
『あー、困ったなあ』
『………』
『困ったなあ、どうしようかなあ』
『……煩いんだけど』
バイトの後、縁側で膝を抱えて座りながら夜の景色を眺めるいつもの時間を定期的に邪魔するような、シノさんの態とらしい声にとうとう我慢が出来なくなった。怪訝に振り返ると、待ち望んでいたかのようにこちらを満面の笑みで見つめてくる。論文を書いていた手は、恐らくとっくに止まっていたようだ。この縁側から見る庭の様子を、私は夜しか知らない。様々な背丈の樹木や生垣、地面に無造作に敷かれた石畳、石灯篭、少し離れた場所の古びた井戸。全てがまるで遥か昔からそこに存在していたのだと言わんばかりの長い時の流れを感じさせる。
『…桔帆。僕、来週から2週間、旅行行くんだよね』
『え、』
『まあちょっとバカンス的な?』
『…ふうん』
7月の下旬から夏休みに入った私は、アルバイトの日数も増え、それに伴って自ずとシノさんの家の縁側で過ごす時間も増えていた。8月に入った今、大学もテストが終わり、夏休みが始まったらしい。テスト作成から成績の評価づけ、レポートの添削など相当夜も大変そうだったシノさんも、少しは落ち着くのだろうかとぼんやり思っていたけれど。
『どこに、行くの?』
『内緒』
『は?』
『だって場所言ったら、桔帆寂しくなって着いてきちゃうでしょ』
『何言ってんの?』
自惚れも、大概にして欲しい。訝しげに顔を歪めるのに、隣に腰掛けてくるシノさんは楽しそうに微笑んで空気を揺らす。じゃあこの2週間は、バイトの後はまたあの公園で時間を潰そうとぼんやり思って、何故だか心の中には、説明の難しい綻びが生まれている気がした。
『桔帆。これでまた公園行くとか言ったら怒るよ』
『……』
お見通しなシノさんに咄嗟に否定が出来ず、ただ見つめてしまう。すると彼は「やっぱり」と大きな溜息を吐いて、また私を見やる。
『桔帆、庭のお世話してくれない?』
突然の提案と共に、そのまま小首を傾げて私の答えを促すように笑みを添えた。
『世話…?』
『僕が留守の間。どう?』
『………でも私、剪定とか出来ない』
『分かってるよ、それは業者さんがやるから』
クスクスと何がそんな楽しいのか、シノさんはずっと、夜の澄んだ空気を揺らす。
『木のお世話じゃ無くて、日々の暮らしの中でできる範囲のことをやって欲しいな。雑草抜いたり、後は…ちょっと花も育てられるように整備してくれたら嬉しい』
さすがに仕事をしながら花を育てる、と言うのはチャレンジが出来なかったらしく、奥さんが亡くなってからシノさんの庭には、花が無い。まるで何も難しいことでは無いと軽く続けるシノさんに、私の戸惑いは拭えていない。
『だけど、仮に私がするとして、私だって夜来るだけじゃ花の面倒見たり、出来ないよ』
雑草抜きくらいならいつでも出来ると思うけど、花は1日1回のお世話というわけにはいかない。
『うん、だから。──此処に、おいで』
『……お、おいで、って』
『ここで2週間、僕が戻るまで留守番してよ』
お日様はそう告げて、夜には不釣り合いなほどの温かさを伴って包み込む声と表情で私を誘う。本当にいつもふわふわと舞うような軽やかさで告げてくるから、こちらも重苦しい返答をする気がどんどん抜けていく。
『……シノさん、そんなこと簡単に言って、私が泥棒とかだったらどうするの?』
『え。桔帆、泥棒だったの?』
『いや、違うけど』
『うん。じゃあ問題ないよね?』
泥棒は、そんな簡単に自白したりしないんだよ。だけど私は喉の奥がつっかえて、ついでに視界が白くぼやけて歪んでいて、あんまり上手く話すことができそうに無い。
『……シノさん、私は本当に、居座るよ?』
『良いよ』
初めてこの人の名前を呼んだ時と同じ台詞を言えば、やっぱりコンマ単位の間も無く即答されてそこで初めて私も破顔する。嬉しそうにもっと笑顔を深めるシノさんと、私の間を穏やかな夜の風が包んでいた。
そして今日は、シノさんが早朝からバカンスとやらに出発すると言っていた当日だ。照り返しが厳しい14時、アルバイトが休みの私は2週間分の自分の荷物を抱えて少し歩くだけでもじんわりと身体に滲む汗を感じている。シノさんの家をいつもは夜に見ることばかりだったから、なんだか不思議な気持ちだ。鍵の場所は、玄関の右側にあるダイヤルロック付き倉庫に入っている工具箱の中だと聞いた。
「……無いんだけど」
でも、確かに言われた場所をいくら探しても鍵は見当たらない。シノさん、これは一体どういうこと。出鼻を完全にくじかれた私は、眉間に皺を寄せつつ他の場所も手当たり次第探してみるが、鍵は一向に見当たらない。どうしよう、と途方に暮れた時だった。
シノさんの家の中から、カタン、と生活の音が聞こえた。嘘ではなくて、冗談でもなくて、だけど確実に音がする。
「……え?」
さっきまでの暑さによるものとは全く別の種類の汗が背中を流れていく。泥棒だったらどうするのか、なんて冗談でシノさんに言ってたけど、ちょっと待って、本当にあり得る?こんな明るいうちから、そんな大胆なことをする?だけど確かに鍵は無いし、というか泥棒って丁寧に鍵を使って開けたりするもの?
取り止めもまとまりも無い様々な考えがぐるぐると頭を駆け巡り、心臓の動きが速さを増す。思考が働かない中で、逃げ出すという考えも浮かばずに、玄関の引き戸の前にただ、立ち尽くす。
「、っ」
自然と身構えるような姿勢をつくった瞬間、ガラス戸の向こう側に、ゆらりと人影が映る。
誰か、いる。
絶対これはもう確実に、誰かがシノさんの家の中にいる。どうしよう、どうしよう。肩にかけたままのバッグをぎゅうと握りしめ、間抜けに数歩だけ後退りをするも、とうとうその場で固まってしまった。
「────は?」
カラカラ、とちょっと開きにくい戸の音はとても馴染み深い。だけど不機嫌さを含んだ声と共に目の前に現れた人物は、予想なんて全くしていなかった。
第三印象も、脚が長い。
「……なんだお前。やっぱストーカーだろ」
第四印象は、こいつ、やっぱりムカつく。
整った顔を最大限に歪め、何故か上半身裸でタオルを頭から無造作にかぶったシノさんの1番弟子らしい男が、私を易々と見下ろしていた。呆気に取られ、ぽかんと間抜けに口を開けたままの私は、状況の把握が出来ないままだ。
ドラマチックな出会いなんて、人生の中で一度でも経験出来ることの方が稀だと思う。今思い出してみても、その出会い方だって何一つ劇的なものは無い。
シノさんは不審者のようだったし、大学院生は私をストーカー呼ばわりするし、むしろマイナスから始まった出会いだ。
だけど、"たった一度きりのピンク色の無い花束"がもたらした出会いが、こんなにも自分の人生を大きく左右する全てのきっかけだったなんて、この時は勿論、想像さえ出来ていなかった。
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ミンミンミンと、蝉が自分の生命力を訴えかけるように大きく鳴いている。直下に射してくる太陽の光は容赦が無く、夏真っ盛りだ、と当たり前のことを茹だるような暑さの中で思う。
「あっつい…」
言葉にすればより身体に暑さがのしかかってくると分かっていながらも、言わずにはいられない。帽子をもってくれば良かったと、背筋に汗が流れていくのを感じながら後悔が襲う。雲一つ無い空からは、強い陽光が降り注いでいて地面をじりじりと焦がす。
今歩いている道は、“歩き慣れた“と表現してしまって差し支えが無いくらい、私は殆ど無意識で目的地まで足を進めることができるようになっている。いつもと違うのは、その時間帯と、私の荷物の量だ。
『あー、困ったなあ』
『………』
『困ったなあ、どうしようかなあ』
『……煩いんだけど』
バイトの後、縁側で膝を抱えて座りながら夜の景色を眺めるいつもの時間を定期的に邪魔するような、シノさんの態とらしい声にとうとう我慢が出来なくなった。怪訝に振り返ると、待ち望んでいたかのようにこちらを満面の笑みで見つめてくる。論文を書いていた手は、恐らくとっくに止まっていたようだ。この縁側から見る庭の様子を、私は夜しか知らない。様々な背丈の樹木や生垣、地面に無造作に敷かれた石畳、石灯篭、少し離れた場所の古びた井戸。全てがまるで遥か昔からそこに存在していたのだと言わんばかりの長い時の流れを感じさせる。
『…桔帆。僕、来週から2週間、旅行行くんだよね』
『え、』
『まあちょっとバカンス的な?』
『…ふうん』
7月の下旬から夏休みに入った私は、アルバイトの日数も増え、それに伴って自ずとシノさんの家の縁側で過ごす時間も増えていた。8月に入った今、大学もテストが終わり、夏休みが始まったらしい。テスト作成から成績の評価づけ、レポートの添削など相当夜も大変そうだったシノさんも、少しは落ち着くのだろうかとぼんやり思っていたけれど。
『どこに、行くの?』
『内緒』
『は?』
『だって場所言ったら、桔帆寂しくなって着いてきちゃうでしょ』
『何言ってんの?』
自惚れも、大概にして欲しい。訝しげに顔を歪めるのに、隣に腰掛けてくるシノさんは楽しそうに微笑んで空気を揺らす。じゃあこの2週間は、バイトの後はまたあの公園で時間を潰そうとぼんやり思って、何故だか心の中には、説明の難しい綻びが生まれている気がした。
『桔帆。これでまた公園行くとか言ったら怒るよ』
『……』
お見通しなシノさんに咄嗟に否定が出来ず、ただ見つめてしまう。すると彼は「やっぱり」と大きな溜息を吐いて、また私を見やる。
『桔帆、庭のお世話してくれない?』
突然の提案と共に、そのまま小首を傾げて私の答えを促すように笑みを添えた。
『世話…?』
『僕が留守の間。どう?』
『………でも私、剪定とか出来ない』
『分かってるよ、それは業者さんがやるから』
クスクスと何がそんな楽しいのか、シノさんはずっと、夜の澄んだ空気を揺らす。
『木のお世話じゃ無くて、日々の暮らしの中でできる範囲のことをやって欲しいな。雑草抜いたり、後は…ちょっと花も育てられるように整備してくれたら嬉しい』
さすがに仕事をしながら花を育てる、と言うのはチャレンジが出来なかったらしく、奥さんが亡くなってからシノさんの庭には、花が無い。まるで何も難しいことでは無いと軽く続けるシノさんに、私の戸惑いは拭えていない。
『だけど、仮に私がするとして、私だって夜来るだけじゃ花の面倒見たり、出来ないよ』
雑草抜きくらいならいつでも出来ると思うけど、花は1日1回のお世話というわけにはいかない。
『うん、だから。──此処に、おいで』
『……お、おいで、って』
『ここで2週間、僕が戻るまで留守番してよ』
お日様はそう告げて、夜には不釣り合いなほどの温かさを伴って包み込む声と表情で私を誘う。本当にいつもふわふわと舞うような軽やかさで告げてくるから、こちらも重苦しい返答をする気がどんどん抜けていく。
『……シノさん、そんなこと簡単に言って、私が泥棒とかだったらどうするの?』
『え。桔帆、泥棒だったの?』
『いや、違うけど』
『うん。じゃあ問題ないよね?』
泥棒は、そんな簡単に自白したりしないんだよ。だけど私は喉の奥がつっかえて、ついでに視界が白くぼやけて歪んでいて、あんまり上手く話すことができそうに無い。
『……シノさん、私は本当に、居座るよ?』
『良いよ』
初めてこの人の名前を呼んだ時と同じ台詞を言えば、やっぱりコンマ単位の間も無く即答されてそこで初めて私も破顔する。嬉しそうにもっと笑顔を深めるシノさんと、私の間を穏やかな夜の風が包んでいた。
そして今日は、シノさんが早朝からバカンスとやらに出発すると言っていた当日だ。照り返しが厳しい14時、アルバイトが休みの私は2週間分の自分の荷物を抱えて少し歩くだけでもじんわりと身体に滲む汗を感じている。シノさんの家をいつもは夜に見ることばかりだったから、なんだか不思議な気持ちだ。鍵の場所は、玄関の右側にあるダイヤルロック付き倉庫に入っている工具箱の中だと聞いた。
「……無いんだけど」
でも、確かに言われた場所をいくら探しても鍵は見当たらない。シノさん、これは一体どういうこと。出鼻を完全にくじかれた私は、眉間に皺を寄せつつ他の場所も手当たり次第探してみるが、鍵は一向に見当たらない。どうしよう、と途方に暮れた時だった。
シノさんの家の中から、カタン、と生活の音が聞こえた。嘘ではなくて、冗談でもなくて、だけど確実に音がする。
「……え?」
さっきまでの暑さによるものとは全く別の種類の汗が背中を流れていく。泥棒だったらどうするのか、なんて冗談でシノさんに言ってたけど、ちょっと待って、本当にあり得る?こんな明るいうちから、そんな大胆なことをする?だけど確かに鍵は無いし、というか泥棒って丁寧に鍵を使って開けたりするもの?
取り止めもまとまりも無い様々な考えがぐるぐると頭を駆け巡り、心臓の動きが速さを増す。思考が働かない中で、逃げ出すという考えも浮かばずに、玄関の引き戸の前にただ、立ち尽くす。
「、っ」
自然と身構えるような姿勢をつくった瞬間、ガラス戸の向こう側に、ゆらりと人影が映る。
誰か、いる。
絶対これはもう確実に、誰かがシノさんの家の中にいる。どうしよう、どうしよう。肩にかけたままのバッグをぎゅうと握りしめ、間抜けに数歩だけ後退りをするも、とうとうその場で固まってしまった。
「────は?」
カラカラ、とちょっと開きにくい戸の音はとても馴染み深い。だけど不機嫌さを含んだ声と共に目の前に現れた人物は、予想なんて全くしていなかった。
第三印象も、脚が長い。
「……なんだお前。やっぱストーカーだろ」
第四印象は、こいつ、やっぱりムカつく。
整った顔を最大限に歪め、何故か上半身裸でタオルを頭から無造作にかぶったシノさんの1番弟子らしい男が、私を易々と見下ろしていた。呆気に取られ、ぽかんと間抜けに口を開けたままの私は、状況の把握が出来ないままだ。
ドラマチックな出会いなんて、人生の中で一度でも経験出来ることの方が稀だと思う。今思い出してみても、その出会い方だって何一つ劇的なものは無い。
シノさんは不審者のようだったし、大学院生は私をストーカー呼ばわりするし、むしろマイナスから始まった出会いだ。
だけど、"たった一度きりのピンク色の無い花束"がもたらした出会いが、こんなにも自分の人生を大きく左右する全てのきっかけだったなんて、この時は勿論、想像さえ出来ていなかった。
応援ありがとうございます!
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