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1.ピンク色の無い花束

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◻︎


「仁美さん。備品整理終わりました」

「ありがとー!ねえ梶ちゃん、今東明さんと話してたんだけど、タピオカ飲みに行こうよ!」

「は?」


発注した備品を段ボールから出して裏の倉庫に片付けてから店先に戻ると、意味の分からない提案を受ける。楽しそうな仁美さんの隣には、花束を抱えて相変わらず屈託のない笑顔を見せる男がいた。まだ居たのかこの人。
2人を一瞥した後、地面に視線を落とす。葉っぱが数枚落ちているのに気付いて拾いながら「興味無いです」と温度の無い言葉を吐き出した。

「女子高生がタピオカに興味ないとかあるの…?」

先程のイケメンの時と同様、大袈裟によろけながらこめかみに手を当てる仁美さんに冷めた視線を送る。彼女の女子高生とやらの定義づけが全く分からない。

「タピオカ飲みに行くこと、タピるって言うんでしょ?」

そして隣の男も、此処までの流れを無視して新たに会話を繰り広げてくる。仁美さんが「東明さん、お詳しいですね!」なんて高い声で褒め称えていて、頭が痛くなってきた。

「…お2人でどうぞ」

私の返答に「カジカジは本当にツレない!!」と仁美さんが怒るのはもはや日常茶飯事なので、あまり何も思わないけれど、その隣の東明という男の眩しい笑顔は、何処か居心地が悪い。


「梶さんは、花が好き?」

さっきと同じだ。至って自然に作り出された会話の流れかのように軽く尋ねてくる。


「そうですね、好きです」

「僕も好きなんだ」

「……そうですか」

声のトーンまで、まるでお日様のよう。全てを包み込むような日差しが私のことも勝手に照らしてくるようで、必死に顔を背けた。


「──僕多分、梶さんのことも好きになると思うなあ」

「………は?」

こちらは、失礼な態度しか取っていない自信しか無い。あまりに不可解な言動に思わず顔をあげてしまった。笑顔の男が胸に抱える花束は、色とりどりの桔梗。その鮮やかさに引けを取らないくらいにニコニコと色の付いた表情で告げられたそれに、私は呆気にとられる。この男はもしかして、いやもしかしなくても、危ない奴なのでは無いだろうか。大学教授なんて立派な肩書きと、甘いルックスに油断していたけれど、世の中怪しい人間なんて山程居る。危機感を抱えて急いで男の後ろに居る仁美さんに助けを乞う目線を向けた。

「東明さんから告白!?カジカジ羨ましい!!」

「……」

後ろでそんな風に私と男へ告げてくるうちの店長には取り付く島もなかった。ダメだ、あの人は全然頼りにならない。不審者から、普通は従業員を守ってくれるものなのではないのか。雇用関係をもっとしっかり確認しておくべきだった。

再び目の前の男を睨むように凝視する。もう怪訝そうな自分の顔を隠すこともせず、ジリジリと少しずつ後退りをする。そんな私の様子を暫く見つめた男は、ふと綺麗に息を吐いて、空気を無邪気に震わせた。


「梶さん、猫みたいだなあ。毛が逆立ってる感じ」

「……な、なんなんですか」

ふわふわと男が気まぐれにつまびく声は、五線譜なんてものでは勿論表現できないし、全く真理も掴めない。

「…梶さん。素敵な花束ありがとう」

「……は?」

そうしてやはり全開の笑顔を見せた男は、壊れものを扱うような慎重さで胸に抱える花束を少しだけ持ち上げる。ジュートクロスと淡い紫色の紙を重ねて包まれたその"素敵な花束"とやらを作ったのは勿論、私では無い。作ったのは、何故か知らないけど悔しそうにじとり私たちを見つめている仁美さんだ。意図が読めず、眉間に皺を寄せた。さっきからずっと、この男に会話の主導権を握られ、ひたすら惑わされている。


「花束を作ったのは仁美さんです。私は何もしていません」

ツン、とした冷たい声だと我ながらいつも思う。でもこうして、全てを突き放すような態度が自分の標準装備なのだ。心に刺さった棘はもう、痛みを感じられない。自分では取り除くことが出来ないところまで奥深くに侵入して、それは軽い炎症から周囲を脅かす化膿を引き起こして、きっと治療するには手遅れだ。


「ありがとう、って言われたら素直に受け取っておくもんだよ」

「……それが自分に、見合わなくてもですか」

「梶さんは大変だなあ」

困ったような言葉だけど、綺麗なパーツばかりが並ぶその面立ちは揺るがない微笑みを携えていて、男の真理はやはり読めない。

「誰かからの感謝も、自分でそうやっていちいち大きさを測って受け取るかどうか決めるの?」

「……、悪いですか?」

私には、"ありがとう"なんて言葉は滑稽なほど似合わない。もうそんなことは充分に分かっている。痛い程に自覚している。──分かっているから、私に近づかないで。


「……決めた」

「は?」

「梶さん、僕と友達から始めようか」

「結構です。始めません」

「一瞬も悩まない……」


この男、いつまで此処に居るつもりなのだろう。太陽の位置が、西へと確かに傾き始めている。

「もうそろそろ閉店なので帰っていただけますか」

「嘘、まだ17時前だよ」

「……」

常連を撒くのは、思ったより困難らしい。男に聞こえるかもしれないという配慮はもう完全に捨てて、大きく嘆息し、自分の仕事に集中しようと努める。

「梶さん部活とかやってないの?」

「……」

「僕も帰宅部だったなあ。なんか入っておけば良かったって、後悔してる」

「……」

「部活後の隠れて買い食いとかね、憧れるよね」

「……」

「梶さん、ねえ、梶さん」

「メンタル、はがねなんですか?」


怪訝な顔を隠すことなく男を見やると、ふわりと垂れ目がちの二重が優しく細まる。何処か負けた気分になって舌打ちしそうになる苛立ちをなんとか唾を飲み込むことで抑えた。

「…だって、梶さんと話したいし」

辺りを確認すると、既に仁美さんはいつの間にか訪れていた他のお客さんの対応に移っていた。今まさに危険に晒されている従業員については、放置らしい。全くめげない男が抱える花束を視界に一瞬捕らえてから、男と視線が交わらないよう再び正面を向いた。


「……その花」

「うん?」

「早く帰って、花瓶に移してください。茎の部分は改めて少し切った方がいいかもしれません」

「……」

そのまま吐き出した言葉は、別に相手に聞こえていなくても良いと言わんばかりの小さなものになったけれど、今更言い直すなんてことはしない。
花束はラッピングを含めて可愛らしい作品に仕上げることが醍醐味である反面、そのまま包装紙に触れ続けると花が蒸れやすいという危険を孕む。なるべく早く花瓶へ移して、水をたっぷりと吸って思い切り呼吸できるような環境にしてあげることが大切だ。ディスプレイされている花々の色のバランスを確認しながら、「だから早く帰れ」と本意も隠したつもりだ。その途端、先程までべらべらと遠慮なく喋り続けていた男が突然押し黙ったらしく、訪れた沈黙に顔を上げた。


「やっぱり、僕は梶さんのこと好きになると思うなあ」

「は?」

絡んだ視線の先で微笑む笑顔に、私の眉間の皺は濃くなる一方だった。どうしてそんな簡単に、自分の気持ちを言えるのだろう。私のこと、何も知らないのに。やめて欲しい。勝手に期待をして、勝手に幻滅して。──きっと、あっさり切り捨てるくせに。


「……早く帰って、奥さんに渡したらどうですか。お買い上げありがとうございました、さよなら」

本当に、この男はいつまで此処に居座る気なのか。そっぽを向いたまま呟いたそれで、私は会話を終えたつもりだった。でも男はその場から動こうとはしない。気まずそうに頬を指で掻いて、「出来れば良いんだけどなあ」と呟いた困ったような笑顔から何故か目を離せなくなった。


「直接は渡せないんだよね」

「…え?」

「──奥さん、死んじゃってるから」

「、」


特に声のトーンが変わることは無く、柔らかく細まる瞳だってそのまま。目の前の男が音にした言葉に、今度は私がその場で固まってしまう。だって、じゃあ。毎月花を買いに来てるって言うのは?──「記念日」って言うのは?

『20日が記念日らしくて、いつもこのくらいの夕方の時間に寄ってくださるのよ。毎月記念日を祝うとか心までイケメンで泣いちゃうわ』

仁美さんから受けていた顧客情報が、頭で繰り返される。"お祝い"なんかじゃなくて、それはもしかして、と頭の中で勝手な予測が走っている。


「結婚記念日が来月の20日なんだよね」

「…結婚記念日、ですか」

「うん。"命日"は、花は贈らない」

するり空気に溶けるようなトーンで告げるから、不穏な気配と共に騒ぎ始めていた心臓が肩透かしをくらう。命日では無いと、私の予測も見通して否定され、ただじっと目の前の男を見つめてしまった。先程まで視線を合わせたく無いなんて考えていた自分を通り越して、「どうしてですか」と重ねて尋ねたくなっていることに気付き、慌てて唇を堅く結んだ。

関係が無い。誰とも、もう簡単に近付いたりしないと決めた。いつだって私は。


"──早く帰って、奥さんに渡したらどうですか。"

私は、人を傷つける言葉ばかりが得意だから。


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