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プロローグ
プロローグ
しおりを挟む"──お嬢さん。
その、綺麗に咲いているお花をいただけますか?"
はじめて、出会った時。
貴方の屈託のないお日様みたいな笑顔に、
私はとにかく居心地が悪かった。
日陰で生きる人間には眩し過ぎると、
目を逸らして、自分勝手に苛立ったりもした。
ずっと、気づかずにいたの。
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昨日はきっと、夜の間に雨が降ったらしい。
庭先の緑に浮かぶ透明な雫が朝の柔らかい光を取り入れてきらきらと反射している。僅かにまだ泥濘んだ土をスリッパ越しに感じながら、雨の残香が漂う空間で、この匂いはやはり、あまり好きにはなれないなと思う。何故だか胸がとても締め付けられてしまう、そういう匂いだ。
朝の6時を過ぎる前。ひっそりと寝静まった世界では、小鳥のさえずりさえ深く響いて聞こえる。サアアとホースのノズルから綺麗に弧を描いて散水される様子を見つめながら1人佇んでいると、水の跳ねる音だけが鼓膜を揺らす。
「…雨降ったなら、そんなに水やり必要無いか」
もう随分と土を潤わせておいてから今更呟いて、レバーにかけていた手を止め、庭へと続く縁側の方を振り向いた瞬間。
「──おい」
その縁側と奥の居間を繋げる障子戸に器用にもたれかかってこちらを見つめる男と視線がぶつかった。
「…なに」
あまりに無愛想なその問いかけに、私も負けじと無愛想な返答になるのはもう、いつものことだ。
「お前、朝からカツ丼は重いわ。俺、受験生じゃねえんだわ」
「……嫌なら食べなきゃいいじゃん」
男が低い声で文句を伝えてくるのを右から左へ流しながら、限界まで伸びていたホースをリールへ巻き付けていく。重たいハンドルを動かす度に、キコキコと不思議な音が間抜けに聞こえていて、ホースはなかなか巻き付いてくれないし、汚れも目立つし、そろそろ買い替え時なのかもしれない。黙って私が朝のルーティンを終える様子を見つめる男が、大きく溜息を漏らすのを背中で聞いた。
「研究会は戦場だって聞いたから。勝てた方がいいでしょ」
「誰に聞いたんだよそんなこと。そんな勝ち負けねーよ」
「…誰に聞いたかなんて、愚問じゃない?」
「お前はなんでもあの人の言うこと信じ過ぎなんだよ馬鹿」
「うるさいなあ」
この朝っぱらから、なぜ折角用意したご飯に文句をつけられ、更には馬鹿という言葉まで受け取らないといけないのか。やや大きめのスリッパを脱いで、庭から縁側へと足を乗り上げた私は、直ぐ傍に立つ男を無視して居間の奥へと向かおうとする。
「──桔帆」
それでも、後ろから私を呼ぶこの声にどうしても立ち止まってしまう自分に気づいてやるせない気持ちになるのも、もういつものことだ。振り返ると、男はやはり怠そうに腕を組んで立ったまま、私を真っ直ぐに見つめている。
緩くパーマの当たった色素の薄い茶色の髪が、朝のなでやかな風に誘われてふわりと揺れる。私を簡単に見下ろせてしまう高身長に一重の切れ長の瞳、日本人離れしたような高い鼻。珍しくスーツ姿の男は、袖をまくったシャツをインしているからか、その腰の位置の高さまで際立っていてなんだか腹立たしい。この男が醸す雰囲気は、いつまで経ってもこの趣きのある、情緒無く伝えるのならば、古びた日本家屋には似合わない。
「……なに」
「俺今日、研究会の後に懇親会もあるから晩飯要らない」
「あ、そう」
「お前は?バイト後どーすんの」
「……りおの家に行く」
「あ、そう。ちゃんと親御さんに挨拶しろよ」
「そんなこと言われなくても分かってるし」
ふいとそっぽを向いての返事はあまりに可愛げが感じられ無くて、男からも「可愛くねえ」と同じ感想を漏らされ、苛立ちに後悔が混ざるのが分かって顔を顰めた。
「じゃあ俺出るから。ちゃんと鍵閉めろよ」
「分かってる」
「あ。コンロ使うなら絶対目離すなよ」
「分かってるってば!さっさと行きなよ」
「普通に見送りの言葉も言えねーんかお前は」
なんて煩い男なんだ。睨みを利かせあった後、くしゃくしゃと私の髪をぶっきら棒に乱した男は「夜、迎えに行くからちゃんとあいつの家に居ろよ」と念押しして私の横を通り過ぎていく。それからすぐに引き戸特有の滑らかではない開閉音がして、男が出て行ったことが分かる。
セットが乱れる、と別にまだ何もヘアスタイルの定まっていない筈の髪を整えながら、先ほど触れられた熱を無意識のうちに確かめてしまった。
台所へ戻れば、2人用の小さなダイニングテーブルに水やりの前に並べた筈のカツ丼は無い。シンクへ視線を移すと、食器は全て洗われて水切りかごの中に几帳面に整列して並べられているのに気付く。
──なんだ。
「…全部、食べてるじゃん」
「だったら文句言うな」と思う一方で嬉しさや安堵からだらしなく顔が緩む私は、何なんだろう。
シンクについた片手でバランスを取りながら、つま先立ちの前傾姿勢のまま台所の窓を開ける。その刹那、直ぐに部屋へ入ってきた髪を撫でる柔い風はやはりまだ雨の匂いを多く含んでいた。どうしようもなく寂しくなって胸が締め付けられる理由は、本当は1つしか無いと分かっている。
『桔帆、行ってきます』
お日様のようなあの人は、きっと寂しい雨の痕跡もいとも容易く「晴れたねえ」って嬉しそうに笑って吹き飛ばしてくれた。
「……シノさん」
名前を音にするだけで、視界が滲んでくる仕組みは自分で作り上げた。慌てて瞬きを増やして、蛇口を捻って勢いよく流れる冷水を両方の手に浴びせる。こんな情けない顔をしていたら、あの男に揶揄われるに決まっている。そして、先程のように躊躇い無く私をあやすように触れるのだろう。
子供扱い、しないで欲しい。
ううん。
子供扱いでも、もう、構わない。
シノさん。ねえ、シノさん。
「私は、いつまで此処に、居てもいい?」
───あの人の傍に。
そんな呟きは、1人にはあまりにも広過ぎる空間で弱々しく響いて、吸い込まれるように消えていった。
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