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第40話 憑き物落とし
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≪繰り返します。帰還条件を達成しました。現時刻をもちまして脱出ゲームはクリアされました。これより1時間後にプレイヤーは元世界に転送されます≫
どういうことだ?
帰還する条件を満たすような行動は何もしていないというのに流れた音声の意味が唐突すぎて理解できない。
帰還条件は出口に触れる事じゃないのか?
制限時間の案内はアナウンスされなかったんだからな。
不完全燃焼甚だしいな、おい。
まるで足元が崩れ去る寸前のような危うげな感覚に襲われて、ゾクリと背筋に冷たい物が走る。
駄目だ。思考が追いつかない。
考えがまとまらない中で説明を求めるように一華姉を見上げると、さっきまでと寸分違わない姿勢で俺を睥睨していたが、すぐに肩を竦める少しだけコミカルな反応を返してきた。
知らん、私に聞くな。そんな顔だ。
分からないのは自分だけじゃないという事実に少しだけホッとする。
「あら、もうおしまいなのかな?」
洗濯物を干し終えた芹香さんが歩み寄る。
意外にタブレットからの音声は大きいものだったらしい。
膝を折って俺の近くにしゃがみ込むと芹香さんはにこにこといつものように笑う。
おしまい。そうだ、おしまいだ。
現実への帰還が叶う待ち望んだ瞬間だというのに、唐突すぎて心が麻痺しているのか喜びが一切感じられない。感情が上手く追いついてこない。
落ち着け俺。セルフコントロール、セルフコントロールだ。
痛む胸を押さえて深呼吸だ。
痛む?
どうして?
これで帰ることが出来るんだぞ?
だというのに、どうして心は沈みっぱなしなんだよ。
あんなに切望していた日常への回帰だというのに、まるで長期休暇で訪れていた田舎で仲良くなった友達との別れのような、やるせない寂しさが襲ってくる。
助けを求めるように周囲を伺うと、面倒臭そうに俺を睨み付ける詩と目があった。
「なに絶望一歩手前って顔してんのよ」
絶望?
自分の顔を確認するように触ると妙に冷たかった。
「そんな顔はしていない……筈だ。意味不明だが、ようやく帰れるんだからな」
帰るという言葉が重い。そんな事を考える自分が分からない。
「はあ……真二くんさ、気付いてないって言うかまだ分かってないんだね」
詩は呆れた顔をしてそれから不意に優しげに微笑んだ。
今までで見た事がないような表情に不安が煽られて心が軋む。
「真二くん、本当に帰りたいと思ってた?」
何を言ってるんだこいつは。
そんなこと聞かれるまでもないだろう。
こんな異常な関係を強要される世界から帰りたいと思わない奴がいるなら一度顔を拝んでみたい。
「思ってたに、決まってるだろ」
だけど声が震えた。
「そりゃ、口では帰る為にとか早期帰還だとか言ってたけど、真二くんはその為に何をしたのか言ってごらん」
ゴロゴロとしていたお前と違って俺は少しでも早く姉達を助けるために色々と骨をおってだな。……色々と、何をしたんだっけ?
自分がしてきた事を思い返そうとして言い淀む。
「威勢だけは良かったけどさ、ものまね程度に色々と行動したんだろうけど、どう見ても積極的な態度じゃなかったよね? ポイントの使い方とか含めて」
「それは……」
皆が俺の意見を無視して日用品とか揃えようとするからだろ?
「使えたはずだよ? 誰も止めなかったんだから」
そうかもしれない。
タブレットは基本俺が管理していた。
蓄積された膨大なポイントを使えば脱出ゲーム攻略の短縮になるアイテムもスキルも手に入った。
だがそれは、姉達が嫌な思いをして手に入れたポイントを俺の独断で手を着けるのは何か違うと遠慮した結果だ。
「誰も反対しなかったのに? あのね、一華先生もお姉ちゃんもすぐに気付いたんだよ」
「何に?」
「自分で考えなさいよ、それくらい」
本気で詩の言っている事が分からない。
一華姉を見る。いつもの無表情だった。
芹香さんを見る。口をあははという形にしたあと「詩、もう止めてあげて」と小さく呟く。
「駄目だし。ふたりとも真二くんを甘やかしすぎだし」
芹香さんは黙り込んでしまう。
一華姉は目を逸らせた。
不安が心に蓄積していく気がする。
「まあ、ふたりとも弟大好きだし、結婚とかして引け目みたいなものもあるみたいだから仕方ないんだけどさ。だからね、暗黙の了解で真二くんの好きにさせようって流れだったんだよ」
信じがたい話だけど思い返せば、納得出来る部分もある。
詩や芹香さんは帰還条件である出口の探索に一切関わろうとしなかった。
一華姉だって探索に付き合ってくれてはいたけど護衛というスタンスが強く、お世辞にも積極的に探し出そうという行動を取る事がなかった。
だから俺は皆が実は「帰りたくない」と思っているんじゃないのかと疑ったりしたのだ。怖くてそれは聞けなかったけど。
だがそれすら、俺の為だって?
「もう正直に認めちゃいなよ、セルフコントロールなんて言葉で誤魔化さないで。思ってる事を言っちゃえば?」
どくんと心臓が止まってしまうんじゃないかと思うほど大きく跳ねた。
「本当は、帰りたくないってさ」
詩の言葉に思わず体を起こす。
急に動いたからか、視界が揺れる。
貧血を起こしたみたいに顔から血の気が失せていくのが自覚できた。
「ちょ、真くん? 顔真っ青だよ?」
芹香さんが慌てて僕を抱きしめて支えてくれる。
暖かくて柔らかい義姉の体の感触に奪われていた体温が少しだけ戻った気がした。
「芹香さん……芹香さんもそう思ってた?」
「うふふー」
「……一華姉」
「お前の好きにしろと言った筈だ」
そうか。そうなのか。
「言わなきゃ伝わんないし、言っても伝わんないんだったら行動するしかないっしょ?」
姉達の脱出ゲームに対する消極的な態度に憤っていた感情のからくりは、自分自身が消極的である事に対する転嫁だったという訳か。
なんてことだ。
まるでピエロだ。
黒歴史だ。
結果が出る事で出て欲しくない結果に気付く……いや、認めてしまうなんて。
皮肉な話だ。
だが、そうか。
俺は、帰りたくなかったんだ。
姉が、姉達が、結婚してしまったり彼氏ができてしまった元の世界に。
今それを認めてしまった。
「どんくさいやつ」
「もう、言い過ぎだよ詩」
ぎゅっと抱きしめられる。
このぬくもりを独占したかった。
厳しくも優しく睥睨する姉に俺だけを見て欲しかった。
詩とふたりで馬鹿みたいな話をしたかった。
はあ、と大きく息を吐く。
どうりで探索に身が入らないわけだ。
最近の憂鬱な気分も原因がはっきりすればなんてことはない。
帰りたくないのに帰る方法を探すなんて疲れるだけだ。
言わなければ伝わらないとか、言ってもダメなら行動だとか、いかにも詩らしい。
うん。そうだな。
俺がしなければならないことは、姉達の気持ちを慮るふりをして誤魔化すことではなく、言いたいことを言って思いを伝えることだったのだ。
いつの間にか姉たちに甘えて、黙っていても分かってくれるだなんて思い上がって、思い通りにいかなくて拗ねていただけなんだ。
その結果が異世界転生とか片腹が痛いぜ、まったく。
伝えていれば変わっていたかもしれない世界のことを思い描いても仕方がない。
どうせ過去は変えられない。
だとすれば、未来はどうだ?
そうだ。
帰ったらありのままを関係する全員に伝えよう。
誤魔化して誤魔化して何もなかった事にして胃がムカムカとする日常を取り戻そうなんて願い下げだ。
何度だって頭を下げよう。
土下座だってする。
姉達が大事だと、欲しいんだと我が儘を言う。駄々をこねる。いい響きだ。
例え結果がどうなろうとも。
決まっていたとしても。
そう思うと嘘のように気分が晴れる。
帰る事が怖くなくなる。
「あら、うふふー元気になったね」
芹香さんが笑う。その笑顔が大好きです。
「打たれ強いのが愚弟の数少ない長所だからな」
一華姉も笑う。悪かったな、凶暴な姉にしばき倒された結果だよ。
「真二くんがさ、はっきりと言わないからこんなおかしな関係になっちゃたんでしょ? いつだったかな小学生の時に真二くんが凄い熱出して学校休んだ時の事覚えてる?」
最近夢に見たよ。
「あの時にさ私にキスまでしておいて、熱から覚めたら覚えて無くて知らんぷりとかするから勘ぐっちゃうんだよ。真二くんが何かを押し殺して我慢してるんじゃないかって」
は? 何言ってんだこいつ?
「あら、うふふ。奇遇だね。私もあの時真くんにキスされちゃったんだけど、何時頃?」
「学校帰ってからだし。四時頃?」
え? 芹香さんまで? しかもなんで時間まで気にするの?
「待て、芹香。お前もなのか? そういえばあの時お前は真二の部屋に上がり込んでいたな」
「あ、うふふー。つまり私が一番乗りだったんですね。つまりー、真くんのファーストキスいただいちゃいました!」
「なん……だ……と」
「なにそれ! 聞いてないんだけど! ていうか一児の母親が真っ赤になっていう台詞じゃないし!」
一華姉がガクリと膝をついて、詩が面白くない顔で唇を尖らせる。
「真くんそれっきり何も言ってくれなかったからてっきり熱で浮かされてただけなのかなって思ってたんだよ?」
「ふん。姉に対しての不埒な行いに戦いていたのかと思っていたんだが、まさか覚えていなかったとはな」
いやだから睨まないでほしい。
それは夢の話だろ?
実際は、芹香さんにおでこで熱を測って貰って一華姉に頭突きをされて、詩にはそんなものいらないと返したら怒って帰ったじゃないか!
そんな甘酸っぱい記憶じゃない。
いや待て。
どうして皆が俺の見た夢を知ってるんだ?
小競り合いを始めた3人には聞けそうもない雰囲気だった。
「ああもう、今はそんな昔話をしている場合じゃないだろ?」
「あ、そうだね。帰るんだったら着替えないといけないね」
旅行に来ているようなノリだった。
芹香さんにとってはその程度のことなのかもしれない。
「だいたい1時間て、なにその微妙な間は? 意味不明だし」
「あら、うふふー最後に真くんとしたかったの? お姉ちゃんも一緒だよ?」
「黙れ淫乱浮気妻」
「ひどいこと言われた」
「事実だけだし」
「もう。あら、どうしたんですか一華先輩。難しいお顔してますね」
いえいえ芹香さん。この状況でのほほんとしていられるのはあなたと詩だけで十分です。
「いや、どうも有耶無耶になっているが、帰還条件の達成経緯が気になってな」
一華姉もか!
そりゃ気になるけどさ!
時間も無いんだから帰った後の事を心配しろよ。
「帰還条件達成の通達時に何かを触っていたのは芹香と詩だったな」
「一華先輩の下着を干していました。あ、詩のかも」
一華姉に睨まれて芹香さんは慌てて訂正する。
「黒とか卑猥な色のショーツは持ってないし」
見てたんかい。
「私はポテチ食べてたけど」
拠点にしたロッジ付近は多少の誤差はあっても出口があるとされる10キロ地点だ。
誰も何か特別な物に触れていたわけではない。
「初めて食べたわけではなかろう? とすれば」
一華姉は狼と戯れているうちに疲れて眠ってしまった娘たちに目を向ける。
「この子達もプレイヤーなの?」
「この世に生まれた時点でプレイヤーだと決められてもおかしくはないな」
「狼だったら前に一華姉が触れたぞ?」
「ふむ。だが触れたのは頭だけだ」
「あ、そっか。特定の場所! 耳とか尻尾とかが答だったんだ」
芹香さんがポンと手を叩いて続ける。
「うふふー。仲良くならないと触れない仕組みだねー」
いえそんなことはないですよ。優しいな芹香さんは。能天気なお花畑めと、一華姉も呆れている。
つまりあれだ。
帰還条件となる出口というのは狼の体の一部で、10キロ地点という制限つきか。どうりで触れるとか微妙な言い回しになるわけだ。
生物で動き回るという一華姉の懸念が的中した。
さすがに特定個体ではないだろうけど確認する術はない。
時期を見た適当なこじつけという線も無視できないが。
「は? 何その無理ゲー。そんなのわかりっこないじゃん」
詩が唇を尖らせて悪態をつく。
「いや、そうとも言えん。辿った道は違ったが、森の探索において狼との戦闘は避けられなかった筈だ」
逃げるだけの猪とかとーへんぼくと違い、狼は好戦的だった。
一華姉は追い払うだけで命を絶つまで切迫していなかった。
それは、偶々芹香さんが芋畑で猪を結果的に養殖して狼の食糧事情を改善させたことで無闇な戦闘が回避されるという構図が出来上がったからだ。
「倒せば触れることもある」
触れ方が、あまりに想定外だった。餌付けされて懐いて子供の世話をみる狼が現れるとは運営側も予想だにしなかったに違いない。ざまあみろ。
だが、敢えて言おう。
分かるかそんな物!
「……嫌がらせに近いだろ」
「何を今更だ。この脱出ゲーム擬きこそが嫌がらせの他の何物でもないぞ愚弟」
「男のロマンとか考えてる顔だし」
違うわ!
「なんにしてもお手柄だね、やっぱり睦月ちゃんかな?」
「ふん。過ぎた事だ。さて、そろそろ時間だな」
一華姉がだれた雰囲気を引き締める。
娘が誉められて少し嬉しかったのかも知れない。
「電化製品とか持っていけないのかな? お洋服とかせっかく集めたのに。あ、あと、お薬とか」
すぐに芹香さんが天然で茶化しにかかったので、一華姉が眉をしかめた。
「葉月はつれていけるんだよね?」
詩が不安そうによく眠っている愛娘を抱き締める。
「ふん。奴らの誰かが出口に触れた結果なのだ、プレイヤー扱いなんだから帰還できて当然だ。それにポイントで買った訳じゃないからな」
芹香さんへの当てつけだった。
「あのね、おませちゃん、もう帰らないといけないから年齢を元に戻してくれる?」
≪何を意味不明なことを言ってるんですか芹香様、非常識過ぎて言葉を見失ってしまいましたよ。出来るわけございません。そんな都合のいいお話があってたまりますか。ご心配されずとも数年もすれば元に戻りますので、胸を張ってご帰還ください≫
「えー困ったな。上手く誤魔化せるかな?」
いや相当無理があると思います。
「まあ、微妙だけど妊娠発覚で退学とか出産で勉強が遅れるとかなかったからマシなタイミングだし」
子供の存在の方を心配しろよ。
こいつは色々な意味で手遅れだと思う。
「私語を慎め、家に帰るまでが脱出ゲームだ」
一華姉が教師みたいなことを言った。
その時、タブレットからポーンという間の抜けた音がした。
≪ポイント残数を使用して、お土産をご用意させて頂きました。どうぞ、お納めください≫
画面には絵に描いたような玉手箱が表示されていて、その下に受け取りと拒否のボタンが並んでいた。
「うふふー玉手箱?」
「あーこれダメなやつだよね」
「ふん。見え透いたものを」
浦島太郎はどうなった?
竜宮城から戻ってみれば、元の世界は実際よりも長い年月が過ぎていて、失意のうちに開けてはならないという玉手箱を開けてしまい、老人になってしまった。
境遇としては逆だけど、こんなもの全員一致で受け取り拒否だろう。
ブービートラップでももう少し気の利いた造りにする。
だが、ボタンを押す前に時間が来た。
「あら、詩は着替えなくていいの? 下着のままだけど」
「え? あっ、ちょ、ちょっと待って!」
普段着を下着にしているから気が付いていなかったらしい。
いや、俺も一華姉も芹香さんに指摘されるまで気付かなかったんだけどな。
慣れというのは本当に恐ろしい。
周囲は真っ白になり、気が付くと、俺は懐かしくも見慣れた詩の部屋にいた。
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