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第28話 暗転再び
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白い牙を剥いて静かに威嚇を続ける狼と対峙した一華姉の横顔に一筋の汗が流れ落ちるのを見た。
背筋がぞっとして肌が粟立つ。
一華姉が冷や汗だと?
たったそれだけの事で、このどうしようもない状況に対する危機レベルが一段階跳ね上がった。
静まりかえった深い森の中は濃く茂る葉のせいで陽の光は半分程度しか届いていないから薄暗く不気味で、更にピンと張り詰めた緊張感に包まれる。
確かに、つい数十分前まで新しく建てたロッジで一華姉に挑んでいたから精神的な心地好い充実感に反比例するように体力的に厳しいものがあるのは事実だ。
こんなことならロッジを出て家に向かえば良かった。
午後2時という中途半端な時間だったから進退に迷い、少しだけ先に進もうと判断した結果がこれだ。
外に向かって探索を進めて十分ほどの場所で一華姉が不意に立ち止まり、居心地悪そうな体の動きを見せたので、体調を考慮して帰還を提案したことが裏目に出たのか。
何もかもが不運の巡り合わせだった。
「ごめん、一華姉」
「ふん。別に真二のせいではないから気にする必要は無い。特に体に異常があったわけではない。……少し垂れてきて驚いただけだ」
最後の方は聞き取れない小さな声だった。
ほんのりと熱っぽく顔を赤くした一華姉の言葉には説得力がなかったから帰還の判断に後悔はしていないが、事態は切迫していた。
体調が万全ではないという事実があるとしても、あの一華姉が冷や汗を流したのだ。命に関わる事態に遭遇しているという何処かフィクションめいた非現実感に酔いそうになる。
俺たちの前に斜に構えて立ち塞がる、刃を通さないような剛毛の持ち主。
灰色の体毛を持つ狼は今まで目撃した中でもひときわ大きく、一回りも二回りも巨大に感じる。
刀を構えた一華姉に対してその俊敏性を活かした速攻を仕掛けてこないのは、その足元にうずくまる幼い狼のせいだろう。
三匹の内、二匹がこちらを窺って時折癇癪を起こした子供のようにフーッと威嚇してくる。ちょっと可愛い。だが、体長30センチほどの子供狼ですら過酷な自然界で生き抜くために強く誇り高い。
問題は狼が道を塞ぐ方向だ。
橋頭堡を確保しながら家を中心に外へと行動範囲を広げ続ける俺達が帰る道の途中で狼と出会ってしまった。
当然背後は未開の森。退路はなし。
この狼を撃退しなければロッジにも戻れず、家にも辿り着けない。
これが逆方向なら後退も考えた。
だが、引けない。
狼も子供を抱えていて引けない。
更に最悪なのは、動かない子供狼の一体が血に濡れて動いていない事だろう。
怪我をしたのか襲われたのか僅かに体が震えているところを見ると息絶えてはいない。
だからだろうか、母親なのか父親なのかわからない狼は気が立っているように感じる。
「ふむ。埒が明かんなこれは」
数分も睨み合った後に一華姉が仕切り直すように息を吐いた。
一華姉が刀を構え直すと狼も呼応するように体を緊張させる。
「お前にも子供にも危害を加える気はない、引くがいい」
森に良く通る一華姉の言葉に対して狼は獰猛に唸り声をあげて返す。
猪を相手にした芹香さんみたいにはいかないか。
一華姉が狼に一方的な遅れを取るとは思えないが時間をかけて狼の仲間や他の敵が来るのは不味い。
「一華姉、俺も戦う」
狼に警戒しながらタブレットを操作して武器を見繕う。
「ふむ」
胡散臭げに一華姉が睥睨する。
だが俺の本気を感じ取ってくれたのか目は優しく細められた。
「愚弟が生意気言いおって」
悪戯でも思い付いたように唇だけで笑う一華姉はこんな時になんだけど、とてもチャーミクングだった。
だが、次の瞬間息を飲んだ。
一華姉は左手で俺の腕を取ると、突然その細い腕にどれだけの力を隠しているんだよと疑うほどの怪力で左方向に投げ飛ばしたからだ。
えーと?
どういうことだ?
藪に体を転がせながら一華姉の奇行に頭を悩ます。
体を起こすと一華姉とは5メートルほどの間が開き狼との位置は三角形になる。
突然の動きに狼は戸惑いながらも鋭い目を向けてくる。俺と一華姉両方に、せわしなく。とちらを優先すべきかと悩むように。
「真二、お前の心意気に応えて参加を許可してやろう。そのまま横に回り込め。だがそれ以上そやつに近付くなよ? 攻撃することも禁止だ」
「わ、わかった」
言われるがままに移動する。いつ襲いかかってくるのかわからない狼がいるので足が竦む。さっきまでの決意は何処行ったんだよ、情けないな。セルフコントロールだ。
一華姉は平然とした足取りで狼に近付きはじめる。
我が姉ながら勇ましい。
まるで囮のようだな。そんな無防備に近付いて大丈夫なのか?
だが驚いたことに、唸る狼が一歩下がる。
え? なぜ下がる?
いや、そうか。これは二正面作戦だ。
子供を残して俺に襲いかかれば一華姉が子供を狙う。
保護者の心理をついた見事な手腕なのかもしれない。
一華姉と対峙すれば横から俺が急襲するかもしれないリスクが伴う。
単体なら防げても子供を守りながらでは無理だと判断したのだ。
だから圧力をかける一華姉に対して牽制しながら下がったのか。
子供狼もそれにならう。
怪我で動けない一匹を除いて。
じりじりと相対的に距離は縮まらず狼は下がる。
これだけ離れれば突っ切ることも可能だ。
同じことを考えたのか、ある程度離れた所で一華姉に手招きをされたので戻る。
だが、一華姉の考えは違ったらしい。
一華姉がぐったりと横倒れになった子供狼に屈み込むと保護者狼から一層大きな唸り声が響いた。
「……真二、薬を出せ」
え? 薬? 何の?
「こいつに使う、早くしろ!」
「りょ、了解!」
怪我をした子供狼をそっと撫でながら一華姉は狼のように歯を剥いた。
一華姉、最初からそのつもりだったな?
らしくなく動きが重かった原因はこれか。
慌ててタブレットを操作する。
薬って、人間用でいいのか?
怪我の具合はわからない。だが、外傷が確認できる。
どんな傷でもたちどころに回復!
外傷用ぶっかけタイプ。
傷に染みないからお子さまでも安心して使えます。
味以外はな!
うん、これだな。
多少、表記に気になる部分はあるが仕方がない。
部位欠損ならこちら。という案内は無視して30ポイントで決裁する。
現れた丸い小瓶の中味は白濁した液体だ。振るとねっとりした動きだ。
ぶっかけって、これは……。
一華姉に渡すと案の定顔をしかめられた。
俺を睨まないで欲しいです。
蓋を外すとねっとりとした粘液が子供狼の体に降りかかる。
許せ。せめて雄であって欲しい。
子供狼の体が青白く輝く。
怪我はみるみる内に回復していった。
相変わらず非常識なまでに良く効く薬だな。
一華姉が優しげに子供狼の体を撫でているとぱっちりと目を開いた。母親と間違えたのか一華姉の手をペロペロと舐め始める。
舌触りがくすぐったかったのか一華姉が体をびくりと震わせた。
動きに反応したように子供狼と一華姉の目があった。キョトンとした表情が愛らしい。すぐに不安げにキョロキョロと周囲を見回す。離れた場所で今にも飛びかかりそうな保護者狼を発見して嬉しそうに尻尾を振った。なんというか場を見事に和ませる暢気な奴だ。
子供狼はまだ少しふらつく足取りで立ち上がるとテケテケと駆け始める。
途中で立ち止まると「あうっ」と一華姉にひと鳴きした。
それはまるでお礼をいっているような声だった。
自分の体にくっついた子供狼を庇う立ち位置に移動した保護者狼はじっとこちらを窺うが、子供狼が歩けるようになったからその場にとどまる必要もなくなったのか、やがてふいと視線を反らすと森の奥へと移動を始めた。
「なん……」
「え……一華姉!」
狼の姿が見えなくなると、信じられないが一華姉が跪き両手を地面に着いた。
体調が良くなかった事を思い出し姉の体を支える。
まさかあの子供狼に噛まれたのか?
いや、未知の毒か?
一華姉の体は熱い。
「大丈夫? 一華姉」
「……なん」
俯き髪で隠れて聞きづらい呟きが耳にはいる。
「……という愛らしさなのだ」
はい?
「子供にこれほどの破壊力があったとはな……」
えーとつまり?
一応一華姉も女子だから、子供狼の可愛らしさに充てられたらしい。
心配して損した。
「あ……なんだ、この温もり。これか? これなのか、芹香が言っていたことは」
そっとお腹の下辺りを手で擦る。
「間違いない。わかるぞ、真二」
一華姉にしては珍しく満面とも言える笑顔だった。
見とれてしまうほどの破壊力だけど時と場合は予断を許さないのだ、セルフコントロールで押し殺して一華姉に肩を貸して立ち上がらせる。
「なんだか知らないけど移動しよう、立ち止まっていると危険だ一華姉」
「まったく……お前という奴は」
何故かゲンコツが落とされた。
理不尽な。
「おかえりー」
日が傾きかける頃に家にたどり着くと、ベッドに寝そべった詩がレモンを齧っていた。
何をやってるんだこいつは。
女子高生という若輩の身で妊娠嫌疑がかけられて執行猶予中だが、相変わらずのしましま柄の下着姿で少し包み込むような女の曲線を獲得しつつある艶姿だ。
お腹を冷やしたりしないのか心配になる。
「見慣れてくればただの部屋着だがな」
「は? ガン見しながら寝言いうなし」
「で、なに囓ってるんだ?」
「あ、これ? やっぱ妊娠すると酸っぱいものが欲しくなるかなって」
なんだそのネット検索しなければ分からないような俗説は。形から入る国民の気質を体現した義姉にため息が出るよ。
「うふふーおかえりパパ」
洗濯物を畳んでいた芹香さんが笑う。
すいませんパパって言わないでください心が折れちゃいます。
「あーごめんねお父さん派だったんだねー」
いえ違います。根本的に違います。
妊娠2ヶ月では体に変化は感じられない筈なのに、既に貫禄が母親であるのは、肩口まで切り揃えた髪とマタニティファッションの視覚効果だ。
芹香さんもですか。
「まったく……気が早いにも程があるな」
はい。一華姉の呈する苦言に完全に同意です。
「なんですか、一華先輩」
じっと芹香さんが一華姉を睨み付ける。
「不自然に衣服が整ってますけど、まさか今までポイントチャージしてたんじゃないですよね?」
なんという女の勘。
「うむ。少し興が乗ってな」
あと、開けっ広げな姉だった。
顔が熱くなるからそういう会話は控えて欲しい。
詩がムッとした顔をする。
お前は義理の姉を取られるのも嫌なのか、このシスコンが。
実はあの後、立ち寄ったロッジで一華姉に更に追加の一発を挑んでしまった。
そう、あれだ。
戦いの後に高揚して性欲が吹き出すという奴だ。なんだそれと今まで馬鹿にして本当にごめんなさい。
というかロッジに寄ったのは一華姉にしては何処か浮き足だった態度が気になったので休憩がてらに寄っただけだ。
だが男の悲しい性なのかパブロフの犬状態なのか。微かに残る一華姉との情交の残り香と、新たな一華姉の匂いで発情してしまった。面目ない。
しかも、いつもと違う一華姉の声の質に無性に昂ってしまった。
いつもよりも甘い声だったな。思い出しただけで胸が高鳴ってくる。
いつもは余裕たっぷりに俺とセックスをする姉が芹香さんのような妖艶さで詩のような、とは言い過ぎだけど赤い唇を濡らして控えめながら女の声を出してくれた。
一華姉も戦いで高揚したんだろうな。
うっとりと目を閉じる一華姉の顔を思い出す。
いかんいかん、セルフコントロールだ。
「その顔! なんかムカつくんですけど!」
詩が憤慨する。
「一華先輩……その嬉しそうな顔もしかして、正直に言ってください」
芹香さんが居住まいを正す。
「うむ。どうやら私も真二の子を宿したらしい」
一華姉が嬉しそうにお腹を擦る。
え?
ドクンと何か大きな音が聞こえた。
というか俺の心音だった。
一華姉が?
妊娠?
「あ……真くん?」
「はぁ……また?」
ドサリと音が聞こえた。
というか俺が倒れた音だった。
暗転。
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