Happy Birthday

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Happy Birthday

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数百年前に山を切り開いて作られた村。
田んぼや畑が見渡す限り広がり、家屋は村のあちこちに点在する程度。木々や植物が風に吹かれて揺れる音に紛れ、農作業をする機械音や家畜の鳴き声が薄く響いている。絵に描いたような、長閑な風景だった。

そんな村の隅に平屋の小さい家があった。"小さい"と言っても、田舎の家。玄関から入ってすぐに広い土間があり、土間の先にはリビングが広がっていた。リビングの隅には、一人暮らし用のソファやテーブルがぽつんと置かれ、かえってリビングの広さが強調されていた。リビングから続く渡り廊下を見れば、個室のドアが何室も続いていた。しかし、ほとんどの部屋が使用されておらず、生活感の無さが浮き彫りとなっていた。


その日、外は誰もが笑顔になるような快晴。鳥のさえずる声も室内に微かに響いてくる。陽気に太陽の光を浴び、風を浴びたいと思うはずだが、全ての窓は閉じられ、カーテンも締め切られていた。カーテンを通り抜けた僅かな光が室内を照らすだけで薄暗い。そして、ひっそりと静まり返っていた。まるで誰も住んでいないかのように。

しかし、この家の住人である航はいた。ベッドの中、1人うずくまっていた。寝ているわけでも、体調が悪いわけでもない。微動だにせず、ただ静かに泣いていた。何かをする気力も起きない。いつものように、このまま1日が終えるかと航は思っていた。

だが、突然、玄関ドアのチャイム音が室内に響く。静寂が破られた。

…誰にも会いたくない。

航の率直な気持ちだった。しかし、村の人には引っ越してきたからずっと常日頃から気にかけられ、世話になっていた。居留守をし、無下にするも忍びない。涙を拭くと、倦怠感を感じる体を起こし、玄関へと向かった。
玄関で意識的に、むしろ強引に笑顔を作り、ドアを開ける。

「お待たせしました…」

そこには、航より少し年上、18歳前後だと思われる、目元の涼しい男性が立っていた。中性的で、一見すると、女性にも思えるような美形。航に比べやや背が高く、少なくとも170cmはありそうだった。口元はうっすらと笑っている。

「こんにちは。はじめまして。」

声も涼しげで耳障りがとても良い。しかし、顔見知りの村民だと思っていた航は、見も知らない男性の来訪に驚き、慌てて俯く。

「どちら様ですか?どういった用件ですか?」

早くこの場を終わらせて引きこもりたい。その焦りが行動に現れ、航の口調はつい早口になっていた。そんな航を見て、男性はさらに目を細める。

「こちらをどうぞ。」

差し出したものは3Dホログラムカードだった。航は恐る恐る受け取り、カードを開くと、叔父からのメッセージが現れた。

「誕生日、おめでとう。一人暮らしにも慣れた頃だとは思うが、不便なこともいろいろと出てくる頃だろう。
ヒューマノイドを贈るから活用して欲しい。航が健やかで幸せであることを願っている。」

叔父からのメッセージで航は状況を理解した。目の前の男性はヒューマノイドで、叔父からのプレゼントとしてやって来たのだ。

状況を把握した瞬間、航は眉間にしわを寄せてしまう。
正直、一人暮らしに大きな不満を感じていなかった。ホームキーパーは不要だったし、むしろ1人でいたかった。

…叔父の元に戻って欲しい

目の前のヒューマノイドにすぐにでも言いたい。しかし、世話になっている叔父の好意を無下にするのも気が重かった。様々な思いが交錯し、沈黙が流れる。
そんな航の気持ちを読んだのか、ヒューマノイドは口を開く。

「お誕生日、おめでとうございます。試しでもよいので、しばらく私を置いてみませんか?」

やはり耳障りの良い、心地良い声。航は渋々頷くと、ヒューマノイドを招き入れた。



22世紀の日本。人口の減少に歯止めがかからず、労働者などの確保のため、ヒューマノイドが法的に認められ、生産されていた。しかしまだまだ高額なため、利用者は一部に限られていたし、また倫理的な問題を抗議する団体が反対活動を続けていた。
そのヒューマノイドの生産に航の両親は関わり、会社経営を成功させていた。航は一人息子として何不自由ない日々を過ごしていた。

しかし数か月前に、突然の事故で他界。15歳の航は天涯孤独の身となってしまった。そして、両親を失った悲しみに浸る間もなく、会社の継承問題や相続問題に巻き込まれた。航は人間不信に陥り、ただ一人信頼している叔父に全てを委ね、逃げるように田舎に引きこもっていた。
ヒューマノイド製造にも、会社経営にも全く興味がなかった航からすれば、どんなに成功していたとしても会社を引き継ぐつもりなんてなかった。そのため、会社を引き継いでくれたことも、そして毎月生きていけるだけの仕送りをしてくれる叔父には感謝していた。



その叔父からのプレゼントであるヒューマノイドは、笑顔のまま室内を見渡している。これからしばらく暮らすつもりなのだから、どんな家なのか確認するのは当然だろう。

そのヒューマノイドを航は横目で気づかれないように観察してしまう。両親がヒューマノイド関連の仕事をしていたとはいえ、ヒューマノイドを間近で見ることは初めてだった。一見すると、普通の人間と何も変わらない。しかし、
あまり変わり映えのしない表情や思考の読みづらい瞳など、違和感を感じる部分もあった。
航の視線に気づいたのか、ヒューマノイドが笑顔のまま近づいてくる。

「ご主人様、最初に私の説明をさせていただきます。細かい注意事項はこちらの取り扱い説明書をご覧ください」

ヒューマノイドは小さなデータカードを胸元から取り出し、手渡そうとする。しかし、しばらくしたら返却するつもりである航は一瞥するだけで目を背けてしまった。ヒューマノイドは笑顔のまま、データカードを静かにテーブルへと置く。

「ご注意いただきたい点があります。私は初期の愛玩タイプです。
つまり、ご主人様の身の回りのお世話を言いつけられていますが、
ハウスキーパー専門ではありませんので、ご了承ください。
また、お仕えするのはご主人様でお2人目です。
稼働してそれなりの年月が経っておりますので、
新しいヒューマノイドと比べると残りの稼働可能時間が短くなっています。この点も…」
「…もういいよ!」

ヒューマノイドの声を遮り、航は声を荒げる。家事が出来るかどうかも、新品か中古であるかどうかも、どうでも良かった。

「しばらく1人にして欲しいんだ。
…空いている部屋を自室にしてもらっていいし、何をしてくれてもいいけど。
…俺の寝室だけには勝手に入らないで。」
「…かしこまりました」

辛辣な態度を見せる航だがヒューマノイドの耳障りの良い声や笑顔は何も変わらない。動揺する気配もない。やはり普通の人間ではないのだと思い知らされる。航は俯いたまま、寝室へと小走りに向かった。

寝室に入るなり、航はベッドに潜り込む。何も考えたくない。暗闇の中でそう思うのに、気がつけばこの数ヶ月のことが頭に浮かび、涙が溢れる。そして、これから先の不安と孤独感で胸が張り裂けそうだった。叔父なりに心配して、せめてもの慰めにヒューマノイドを贈ってきたのだろうが、失ったものの代わりになるわけがない。叔父の思いやりは返って航の孤独感が深まり、涙が止まらなかった。

それでも、ここ数日、まともに寝ていなかった航の思考は少しずつ朧げになる。泣き疲れてもう少しで夢の中へ入りそうになっていた。その時、隣の部屋から何かが倒れる音が聞こえた。航は飛び起き、迷うことなく隣の部屋へ向かう。作業場にしている部屋だった。

「触らないでよ!」

部屋に飛び込むなり、航は叫ぶ。その声で振り向いたヒューマノイドの手にはキャンバスがあった。

「掃除中に誤って落としてしまいました。失礼しました。」

ヒューマノイドの声に戸惑いはない。言われた通り、キャンバスを再び立てかけた。

「しかし、この絵は素晴らしい。ご主人様には絵の才能がありますね。完成が楽しみです」

キャンバスには、微笑んでいるような吠えているような犬の絵が描かれていたが、色は塗られていなかった。航は顔を背ける。

「…それは完成しないよ」
「どうしてですか?もったいない。」

顔を背けたまま、航の顔から涙が溢れる。

「死んだんだよ!この前!…かなり歳をとっていたけど、突然…急に!…だから、もう描かない!」

一度溢れ出した航の涙も想いも止まらない。両手で顔を覆う。

「父さんも…母さんも…みんな、俺の前からいなくなるんだ…」

立ちくらみを起こしたかのように、航はその場に座り込んだ。脳内では両親や愛犬との思い出がフラッシュバックする。もう戻ってこないと分かっているのに、戻ってきて欲しいと願ってしまう。

ヒューマノイドはすぐさま歩み寄り、航が倒れないように抱きしめた。相手がヒューマノイドであっても、誰かの温もりを感じることは航にとって久しぶりだった。堰を切ったようにヒューマノイドの腕の中で泣きじゃくる。体の震えも止まらない。
ヒューマノイドは黙って航の背中を優しく撫で続けた。

「それは失礼しました…しかし、最後まで描かれた方が喜ぶと思いますよ」
「…なんでお前に分かるんだよ!」

目も顔も真っ赤にし、航はきつい視線で見上げる。ヒューマノイドの表情は何一つ変わらない。

「死には、2つの死があると言います。最初は肉体を失う死、そして2回目は忘れられる死と言います。
…もちろん、ご主人様の心の中ではいつまでも皆様は生きていらっしゃるとは思いますが、
描かれることでいつまでもより鮮明に思い出せるかと存じます。」

ヒューマノイドの言葉は理解できたし、反論もできない。航は俯いてしまう。しかし、不貞腐れているような表情までは隠しきれなかった。

「ヒューマノイドのくせに、そんな分かったようなことを言って…」

会ったばかりの、しかもヒューマノイドに諭されたことに苛立ち、つい口走ってしまっていた。

「…私も一度死んだようなものですから。
どのような経緯で私を手放されたか、もう記憶にありませんが、
もし以前のご主人様が私の絵を飾っていらっしゃったら嬉しいですよ」

航は我に返り、自分の失言に気づいた。相手がヒューマノイドとはいえ、自分のデリカシーの無さに自己嫌悪してしまう。気まずさのあまり、もうヒューマノイドの顔を見ることができなかった。

「…ごめん…なさい…酷いこと言った…」

消え入りそうな声。しかし、それが航の精一杯だった。

「ご主人様はお優しい方ですね。
…これからは、少しでも安らいでいただけますよう、私の全てを捧げて、ご主人様をお支えします。」
「なんだよ、それ。」

出会ったばっかりでそんなことを言われても照れ臭く、落ち着かない。航は照れ臭さを誤魔化すように呟く。そのことに気づいていないのか、ヒューマノイドは笑顔を崩さない。

「さあ、少し横になられた方がいいかと存じます。」

ヒューマノイドは航を立ち上がらせると、肩を抱きかかえたまま寝室へと誘導する。
失言を口にしてしまった申し訳なさで航の涙はもう止まっており、むしろヒューマノイドの顔色を伺ってしまっていた。しかし、ヒューマノイドの顔は薄く笑みを浮かべているが、思考までは読めない。それでも腕の中が気持ち良くて身を委ねてしまっていた。
寝室のドアまで辿り着くと、ヒューマノイドの手が離れる。

「お1人で大丈夫ですか?」
「うん。…ところで…名前は?…これから…少しかもしれないけど…一緒に暮らすんだし。」

自分のことだけで精一杯だったが、航はようやくヒューマノイドに少しだけ興味を持った。ヒューマノイドの表情は変わらず、微笑んでいる。

「私の個体識別は製造番号のみですので…。ご主人様のお好きなようにお呼びください。」
「…そう。…それじゃあ、…イツキで。」

先日、死亡した犬の名前だった。しばらくすれば、叔父に返却して別れることになるのだ。それに、偶然だとしても、まるで入れ違いのように航の元に来たのも何かの縁なのだろう。そう安易に考えてしまった。

「イツキ?」
「そう。樹木の樹で、イツキ。」
「綺麗な名前ですね」

樹は初めて満面の笑みを見せた。
その笑顔を見て航の胸の奥が微かに傷む。そこまで喜ぶとは全く思ってもいなかったからだ。しかし今さら変更する気にもなれず、気まずさから寝室へと逃げるように消えた。



そうやって2人の暮らしは始まった。
ホームキーパー専門ではないとはいえ、少なくとも航より樹は家事を行うことが出来た。決して汚いとは言えないにしても今まで散漫としていた部屋は片付き、日中は陽の光が部屋の奥まで照らすようになった。食事も決まったメニューが繰り返されるようなことはなく、シンプルだが、複数のメニューが提供されるようになった。住環境の改善は航の気持ちも改善し、全てに対して投げやりだったが、少しずつ生きていくことに前向きになる。

樹が来てからの数日間、食事以外で寝室を出ることは少なかった航だったが、やがて樹とも少しずつ話をするようになった。最初は一緒に暮らしていく上でのやって欲しいこと、やって欲しくないこと、そして食べ物の好き嫌い。

「その…子供っぽくて恥ずかしいんだけど…朝はとても弱いんだ…早起きは苦手で…
…あと、人参はどうしても無理…」
「かしこまりました」

樹が航に意見をしたのは初日だけだった。翌日以降は変わらない笑顔のまま、航の要望を全てに対応していた。そして、樹の変わらない笑顔に航は違和感を感じていたが、少しずつ違和感は薄くなり、むしろ居心地の良さを感じていた。両親が亡くなってからというもの、誰かとの会話は相続などの事務処理かつ深刻な話ばかりだった航にとって、"誰かと他愛のない会話できる"ということが大きかった。

「作業部屋を見て分かっていると思うけど、趣味は絵を描くことで…。
デジタルで描く人がほとんどだけど、俺はアナログで描くんだ。」
「それは個性的で素晴らしいですね」
「…そうかな?…単に、描いている時の感触というか質感が好きなだけだし、
…簡単に描き直せない緊張感も好きなだけなんだけど…」

航の趣味の話から、同じ名前にしてしまったせいか、死んだ愛犬についても樹に打ち明けていた。

「いっ君は生まれた時から一緒だったんだ。毎日遊んだし毎日一緒に寝ていたし。
これからもずっと一緒だと、そばにいてくれると思っていたんだ…」

愛犬のことを考えると、どうしても航の目に涙が浮かんでしまう。樹は静かにハンドタオルを差し出した。

「きっと寿命だったんでしょう。最期までご主人様と一緒で幸せだったと思いますよ。
…好きな食べ物は何でした?」

航はハンドタオルで目を押さえる。

「ブロッコリーが好きだったな…」
「それでは、ブロッコリーを明日にでもお供えしましょう。きっと喜びますよ。
…それに、いつか絵も完成したら、もっと喜ぶと思います。」

航は自然と笑顔になり、頷いていた。
樹と共に住み、会話を重ねることで、航の気持ちは少しずつ整理されていた。そして心が少し救われるような、和らぐような気持ち良さを感じていた。また、愛犬の死を受け入れる覚悟を持ち始めていた。

樹に促されたこともあり、数日後、描きかけだった愛犬の絵を航は再び描き始める。線を書き加え、色をつけ、完成を目指す。以前はいなくなった悲しみに心が支配され、キャンバスを見ることさえ辛かったが、今は楽しかった思い出を描き留めているような、感謝や慈しみの気持ちで溢れていた。そんな航を樹は遠くから静かに見守り続けていた。

数日をかけ、愛犬の絵は完成した。リビングに置かれていた小さな骨壷の横に飾る。航の心はまだ多少なりとも痛むが、しかしそれでも笑顔で絵を見つめるが出来た。そこへ、いつもの、涼し気な笑みを浮かべた樹が現れた。

「どうぞ」

まるで絵の完成が分かっていたかのように、絵の前にブロッコリーが盛られた皿が置かれる。

「ありがとう」

言われなくても準備をしてくれる、樹の気遣いに航は頬はさらに緩んだ。遺影のようにも見える絵と航は改めて向き合う。もし天国というものがあるのなら、少しでも喜んでくれているだろうかと心の中で思い、祈る。

「思っていた通り、完成した絵も素晴らしいです。ご主人様には絵の才能がありますね。」

後ろから見守っていた樹が語りかけ始めた。いつも淡々と話す樹だったが、絵を褒める時は声色が少しだけ違って明るい。航にとって絵は趣味にしか過ぎないのに、樹から絵を褒められ続け、なんだかくすぐったかった。
航は照れ臭く、話題を変える。愛犬の絵を描き始めてから考えていたことだった。

「ところでさ、頼みがあるんだけど…」
「なんでしょうか?」

絵を見つめていた樹の視線が航へと向かう。

「樹の名前を変えたいんだ」
「それは構いませんが…もし宜しかったら、理由を教えていただけますか?」

航は気まずそうに下を向く。

「実は…樹って名前は、元々、いっ君の名前なんだ。
その…しばらくしたら…樹には叔父さんのところに戻ってもらうつもりだったから…深く考えていなくて。」

感情が見えない樹の瞳に、航は時々、見透かされているように感じることがあった。嘘はつきたくなかった。

「でも、樹にはこれからも一緒にいて欲しいんだ。いてくれると、すごく安心するから。
…だから、ちゃんと名前を決めたくて」

まるで樹に告白をしているようで、航は気恥ずかしくなってしまう。きっと顔も赤くなっているに違いない。そう考えると、気まずさに恥ずかしさも加わり、さらに顔を上げることが出来ない。対照的に、樹の表情は変わらない。

「そうでしたか。…新しい名前は決まっていますか?」

航は慌てて顔を上げると、首を横に振る。

「俺1人で決めるんじゃなくて、ちゃんと話し合って決めたい」

航の強い眼差しに、樹は目を細めて笑う。

「ご主人様は本当にお優しい方ですね。
…もし私の要望を聞いていただけるのでしたら、"樹"のままでいたいです。とても気に入っています。」

航は驚き、そして拍子抜けした。

「…本当に?…俺に気を遣っていない?」
「えぇ。…それに、犬の樹と同じくらい、私もご主人様に愛していただきたいですし。」
「えっ!?」

航は産まれてから今まで一度も、そんなストレートな愛情表現を親以外から言われたことはなかった。動揺し視線を泳ぐ。しかし、チラリと樹を見ると涼しげな笑みを浮かべていた。

…なんだ、冗談なのか。

慌てた自分がバカみたいで、航はため息をついた。

「…それじゃあ、そのままで」

覚悟して話を切り出したのに、あっさり終わってしまい、なんだかばつが悪かった。目のやり場に困り、再び下を向いてしまう。

「…それと、もう一つ頼みがあるんだ」
「なんでしょう?」
「…俺を"ご主人様"と呼ぶことをやめて欲しい」

航自身が働いて得た金で、しかも航自身の意思でヒューマノイドを得たわけでもないのに"主人"呼ばわりされることにずっと違和感があったし、何よりもそう呼ばれることで"壁"を感じていた。
実際、人間とヒューマノイドは生物としても社会的立場としても違うし、航自身も樹と初めて会った時に「人間とは違う」と差別的な考え方をしていた。それに、呼び方を変えるだけで何かが変わるとは思えなかった。
それでも、それが例え"おままごと"だと揶揄されても、航は少しでもいいから変えたかった。

その航の要望を聞いた瞬間、樹の顔から笑顔が消えた。

「…それでは、"航様"でよろしいですか?」
「…"様"は要らない」

樹が初めて戸惑った表情を見せた。膝を折りしゃがむと、俯いていた航の顔を覗き込む。

「大事なことだと思いますので、顔を見ながらお話させてください」

航は初めて間近で樹の顔を見た。今までは特に気にも留めていなかったが、間近で端正な顔を見ると、同性とはいえ、照れて緊張してしまう。整った目鼻立ち、長い睫毛、ハリと潤いのある肌や唇。真剣な表情をしているとはいえ、樹の美しさを見れば見るほど吸い込まれそうになる。航は耳まで真っ赤にしながら、視線を泳がせてしまっていた。

「"航"とお名前でお呼びした方がよろしいのでしょうか?
…社会通念上、主人のことをお名前だけでお呼びすることは無いので、違和感があると存じますが…。」

樹は戸惑った表情のまま、航の瞳を真っ直ぐに見続ける。「呼び捨てにすることは出来ない」とでも言いたげに。樹が航に何か意見をするのは初日以来だったが、それでも航は意志を変えるつもりはなかった。つばを飲み込み、樹の目を真っ直ぐに見る。

「距離を感じるから嫌なんだ!もっと近くにいて欲しいんだ!」

自分でも間違った言葉を選んでいることに気づいていた。"壁"があることを言いたかっただけなのに。しかし、上手く訂正する言葉がすぐに出てこない。航がまごついているうちに、樹は困ったような笑顔を見せた。

「かしこまりました。それでは、これからは"航"と呼ばせていただきます」

航は安堵の溜息をつく。そして同時に視線を逸らした。樹の端正な顔を間近に見ているだけで緊張して、思考が上手く回っていない気がしていたのだ。早く平常心を取り戻したかった。
ただ、樹がなぜか体勢を戻さない。そのため、仕方なく航自身が後ずさりしようとした。しかし、その瞬間。航の手を樹が掴んだ。柔らかく、僅かに温かい感触が伝わる。

「…航、私からもお願いがあります。
もし可能であれば、気が向いた時にでも、私の絵を描いていただけませんか?」

航は驚き、樹の顔を見た。いつもの笑顔は消え、少し不安そうな、真剣な表情をしている。なんだか理由を聞いてはいけないような気がした。黙って頷く。途端、樹の顔にいつもの笑顔が戻る。

「ありがとうございます。」

言い終わると同時に、樹は航の手の甲に口付けを落とした。上目遣いに航を見ながら。ごく自然に。それが当たり前かのように。柔らかい唇の感触が航に伝わる。航にとっては強烈な一瞬。驚きのあまり動けず、言葉も出ない。
樹はゆっくりと手を離す。

「夕食の準備をします」

航を残し、樹は微笑んだままキッチンへと歩き出した。

航は手に口付けしたりされるような習慣はなかったし、それ以上に樹の今までの態度を考えるとありえない行動だった。驚きと違和感が入り混じる。
そして、上目遣いの樹に言いようのない色気を感じ、多少なりとも気持ちが高揚してしまっていたことも事実だった。様々な感情が入り乱れ、航は口付けされた手の甲を見た。しかし、考えても答えが出てくるわけでもない。

やがて、そんな気持ちはかき消え、焦りが航の中で強くなっていた。なぜなら、樹の絵を描くことに了承したものの、今まで人間をまともに描いたことがなかった。いつも描く対象は風景や動物ばかり。これまで樹に絵を褒められていたこともあり、趣味とはいえ、みっともない絵を見られたくないというプライドが航の中で膨らみ始めていた。何か事前に練習できないかと、慌てて作業部屋へと向かった。



翌日、昼食が終わった後、航は作業部屋へ樹を誘った。

「昨日、樹の絵を描くと答えたけど…実は人の絵を今まできちんと描いたことがないんだ。
だから、まずは絵の練習に…デッサンに付き合って欲しいんだ」

前日、樹を描く前に練習したいと思ったものの、結局、「ひたすら実物を描く」ことが一番の近道としか思いつかなかったのだ。それに、何かに集中して夢中になることで気分転換ができるのではないかとも思っていた。

「喜んで。」

樹は満面の笑みを見せる。航に促され、作業部屋の中央に置かれたソファへ腰掛けた。

今まで意識したことなかったが、改めて見ると、樹の手足はまるで人形のように長く、均整がとれている。肌も白く、皺一つ無い。滑らかな感触だろうということは触らなくても想像できる。絵を描くことが趣味レベルの航でさえも、モデルとして最適だと分かった。

初めて人を描くことへの楽しみと気持ちもあり、航は気持ちが高揚していた。スケッチブックとデッサン用の鉛筆を取り出し、準備をしている間も笑顔が出てしまう。しかし、再び樹に視線を戻した瞬間、航は驚き、固まってしまった。

「樹!何しているの!?」

航の声で樹の動きが止まった。上半身がすでに裸になっている。

「デッサンモデルは裸体ではないのですか?」

樹はこともなげに返答する。

「そういう時もあるみたいだけど…今日は脱がなくていいよ!」

全く想定していなかったため、航は顔を赤くなる。

しかし、樹の言うことが正論だとも航は感じていた。確かに骨格や筋肉は裸になってもらわないと分からないし、理解しないまま、着衣している人を描いても不自然になり、空想の域を出ないようにも思えた。そして、ネットで検索すれば、すぐに骨格や筋肉の動きなどが分かるが、実際に間近で見て触れて知りたい欲求が出てきた。

「…樹…ごめん。…やっぱり、そのまま動かないで。」
「かしこまりました」

シャツをはだけさせ、上半身裸の樹に航は近づく。そして、顔を寄せ、体の各部位の筋肉を観察し始めた。肩や腕周りだけを見ても、複数の筋肉が複雑に繋がっていることが生々しく分かる。

…もっと詳しく人体のことを知りたい。

航の欲求が内からどんどん溢れてくる。

「…触ってもいい?」
「えぇ、もちろん。」

航は恐る恐る樹の肩や腕周りに触れた。いつまでも触っていたいと思ってしまうほど、とても滑らかな肌。しかし、航の興味はすぐに筋肉へと移った。肩から腕へと、筋肉がどこからどこまで、どのように形成されているのか、皮膚の上から筋肉を優しく少しずつ掴みながら確認する。実際に肘を曲げたり肩を動かし、どのように筋肉が連動し、変形していくかを確認する。

「…なるほど…そうか…」

想像していた以上に、実際に間近に見て触ることで分かることが多かった。初めて与えられたオモチャに夢中な子供のように、樹の骨格や筋肉を航は観察していた。夢中なあまり、樹が僅かに熱い息を吐き、熱っぽく潤んだ目をしていることに航は気づくことができない。

「やっぱり今日はこのままデッサンしてもいい?」
「…えぇ…かしこまりました」

観察がひと段落した航は、早く描きたくて仕方なかった。座って描くことさえじれったい。ソファ近くに立ったまま、スケッチブックにデッサン用鉛筆を走らせ始めた。肩から腕までを描くだけにも、何度も触れては観察し、何度も描き直す。どうにか描きあげても満足できるような出来ではないし、それでも描き上げるまでに相当な時間を要していた。しかし、航にとっては楽しくて仕方なかった。気がつけば太陽は落ち、室内は薄暗くなっていた。

「ごめん。夢中になっていて、時間に気づかなかった。…また明日も続きをお願いしていい?」
「…はい、かしこまりました」

薄暗くなった室内で表情までは見えなかったものの、樹がはだけていたシャツを手早く戻し、ボタンを留めたことはシルエットで分かった。

「食事の準備をします。整いましたら、お声がけします。」

足早に樹はキッチンへと消えていった。
そんな樹に航は少し違和感を感じ、寂しかった。デッサンを見たいと言ってくれるのではないかと思っていたし、出来はまだまだだが、少しは褒めてくれるのではないかと淡い期待をしていた。しかし、次の瞬間、会ってからまだ日も浅いヒューマノイドに甘えている自分が恥ずかしくなった。航は自嘲する。

部屋の電気をつけるとソファへ深く座る。立ちっぱなしだったため疲れを一気に吹きだし始めた。それでも航の気力は衰えることはない。樹の体を思い出したり、自分の腕や体を触りながら鉛筆を再び走らせた。絵を描くことがこんなに楽しいと思うことは久しぶりだった。


次の日、遅めの朝食を食べ終わると、すぐに航は樹を連れて作業部屋に向かう。早く絵を描きたくて仕方ない。無意識に笑みがこぼれていた。しかし、樹は昨日とは正反対に浮かない顔をしている。

「樹、今日は背中を中心に見せて欲しいんだ。…自分で自分の背中は見れないから。」
「…かしこまりました」

樹は背もたれを抱きしめるようにソファの座面に座ると、シャツを脱いだ。シミ一つない綺麗な肌に肩甲骨が僅かに浮いている。

「触ってもいい?」

スケッチブックとデッサン用鉛筆を準備した航が近づく。

「はい。…ただ、…一つよろしいでしょうか」

あと少しで樹の肌に触れそうになっていた航の手が止まった。

「初日に説明しましたように、私は愛玩タイプです。
そのため、いつでも航のお相手が出来るよう、肌が敏感になっています。
…ただ、昨日気付いたのですが、思いのほか私の体は感度が強く、航に反応してしまいます。
触っていただくことはもちろん問題ございませんが、…我慢できずに声を上げてしまうかもしれません。
その点を事前に了承いただきたいです」

航はよく意味が分からなかった。

「俺の相手って?」
「…簡単に言えば、セックスです。」

航の顔がみるみる赤くなる。慌てて手を引いた。

「愛玩って…そういうこと…」
「…はい、ご要望であれば、今すぐでも可能です。」

その瞬間、樹の顔や体型が端正であることに納得できた。が、同時に、なぜ叔父が愛玩タイプを選んだのか意図が分からなかった。
しかし、今更そんなことを考えても仕方ない。デッサンを続けたい航は、どうにか折り合いをつけようと試行錯誤した。

「…それじゃあ…樹に触るのやめるよ。…えっと、普通に座り直してさ…」
「申し訳ございません!!!」

突然、声を荒げる樹。慌てて振り返ると頭を下げた。
そんな樹を見るのは初めてだった。航は驚き、声が出ない。

「説明不足で申し訳ございません。航の行為を否定するつもりはないのです。
あくまでも万が一の注意事項ですので…」
「頭、上げてよ!」

航は樹の肩を掴み、上半身を起こす。樹は困ったような、泣きそうな顔をしていた。

「俺はただ、…樹が嫌がることはしたくないんだ」

真っ直ぐに樹の目を見る航。そんな航に樹は一瞬目を見開いて驚くと、笑みを浮かべた。

「航はお優しいですね。お気遣い、ありがとうございます。
…ただ、"好き"か"嫌い"かで申し上げると、…正直…航に触っていただきたいです。」

予想外の言葉に航は狼狽え、視線が泳ぎ出した。

「あ、…いや…その…」
「えぇ、分かっています。航が私とセックスするつもりはないこと。
…それでも、私は航のために、ここにいますので。」

樹に見透かされていた。航は気まずくて顔を背ける。しかし、どうするかは航の中でもう決まっていた。

…デッサンを止めることで樹の想いを傷つけたくない。

その思いもあった。しかし、それ以上に消えない思いがあった。

…樹をもっとデッサンしたい

その欲求に勝てなかった。

「…じゃあ、…声出すの我慢しないで。…相手できないのは悪いけど」
「…とんでもないです。…ありがとうございます。」

樹はいつものように薄く笑うと、再びソファの背もたれを抱きしめるように座り直した。
航は躊躇いがちに樹の肩に触れる。やはりいつまでも触っていたいと思ってしまう滑らかな肌だった。しかし、それも束の間、肩から背中にかけて筋肉のつき方を触りながらゆっくり観察する。そして肩甲骨の動きを肩を動かしながら確認する。人体の仕組みを知ることは航にとってやはり面白かった。気がつけば、前日と同じく、夢中になっていた。

ヒューマノイドであることを証明するように、個別識別番号が首筋に彫られているが、航は特に気にもとめず、首筋や頸、喉仏に何度も触れる。樹の体温が微かに航の指に伝わってくる。
それは、逆を言えば、航の指の感触が樹に伝わっているということでもあった。樹は目を細め、深呼吸をし始めた。僅かながら吐息に熱が帯び始める。

そんな樹に気づかず、航は背骨をゆっくりなぞった。その瞬間、突然触れられたことに驚き、樹の体が大きく震え、背中を反らした。

「んっ!!!」

反射的に航の手が離れる。

「…大丈夫?」

航は恐る恐る樹の顔を覗き込んだ。頬を赤く染め始めた樹がゆっくり深呼吸しながら笑顔を見せる。

「申し訳ございません。お気になさらず、続けてください。」
「…うん」

樹の顔を見て、快感を感じ始めていることに航でもさすがに気づいた。一瞬、デッサンを終わらせることも頭をよぎる。しかし、樹の体にもっと触れて、観察をしたい欲求に勝てなかった。

航は樹の背中全体を指先で撫で、肉つきや筋肉を触れて確認する。筋肉の付き方による微妙な肌の凹凸が気になり、何度も優しく押したり掴んでみる。背中全体を余すところなく触れられ、刺激されるためなのか、樹の呼吸はどんどん熱っぽさを帯びていく。

やがて航は両手を樹の胸へと回し、肋骨の位置や形、筋肉の付き方を指の感触で確認し始めた。意図的ではないものの、航の指は何度も樹の乳首を微かに触れていく。主人への性的奉仕が本来の主目的である樹にとって、特に強い刺激を生んでいた。

「…うぅんっ…はぁ…」

樹はとうとうたまらず、抱きしめていたソファの背もたれに顔を預けた。樹の視線の先には窓があり、その先には雲ひとつない快晴の空が広がっていた。熱に浮かされたような、潤んだ瞳で樹は空を眺め続ける。

樹が声を上げたことに航は気づいたが、それでもやめることができなかった。大きく呼吸するたびに伸縮する胸や、呼吸の深さで変わる体型のラインの変化が興味深かった。肋骨の位置の動きを確かめるかのように何度も胸をなぞった後、樹の体のラインを確認するように、脇腹をゆっくりとなでおろした。

「…んぅっ!」

樹の体が一緒大きく震えた。そして震えは止まることなく、小さく震え続け、樹の両手はソファの背もたれに指を立てしがみついていた。快感に飲まれまいとしていることは見て取れた。航は躊躇し、手が止まる。
しかし、それでも、やはり、欲求が止まらない。

「…樹、ごめん。もう少しだけ。」

航の両手が再び動き出した。皮膚の上から骨盤の位置や形を触って確認するため、腰回りをなぞっては掴むことを繰り返す。樹の呼吸は荒く、口は半開きのまま閉じることはない。

「…っ…どうぞ…お気遣いなく…もっと…物のようにっ…私を扱っていただいてもっ…問題…ございません」
「嫌だ」

航の片手はゆっくりと樹の腹部へと這い進む。

「樹には助けられたから、大事にしたいんだ…
…ただ、…もう少し、もう少しだけ待って」

航は樹の腹筋を優しく触り始めた。筋肉の固さ、形などを指でなぞったり押したりして確認する。合わせるかのように、腰回りを触れていた、もう片方の手は臀部全体を触り始めた。肉つきや固さを何度も優しく掴んで確認する。

「…はぁあっ…」

早く終わらせようと急ぐあまり、腹部と腰を同時に触れ始めた航の行為は、かえって樹を刺激していた。樹の体の震えは大きくなる。

「…ごめん、あともう少しだけ」

航の両手はせわしなく動き始めた。上半身全体のライン、そして各部位がどう組み合わさってバランスをとっているのか最後にもう一度確認したかった。今まで触れてきた全ての部位を復習するかのように、上半身全体を触り始めた。首から肩、肩から胸、胸から腹、腹から腰。最後に背中。筋肉や骨格を意識しながら触れる。実際に触れることで得られる、人体に関わる知識は航の知識欲を満たしていく。

そして、同時に快感が樹を包み込む。「我慢しなくていい」とは言われていたものの、集中している航の邪魔をしたくなかったのだろう。下唇を噛み、声を出さないように耐え続けていたが、最後に背骨を撫でられた瞬間、耐えきれず嬌声を上げた。

「っんぁ…あぁっん…いいっ…」

甘く上擦った声が作業部屋に響く。樹の喘ぎ声を合図にするかのように、航の手が離れた。

しかし、航の手が離れても、樹の体は小刻みに震え続ける。ソファの背もたれに頭を預けたまま動く様子もなく、顔は紅潮し、息は荒い。熱っぽく潤んだ瞳で窓の外を眺め続けていた。

「時間かかって、ごめん。…大丈夫?」

心配そうな航の声かけに樹は微かに頷く。

「…お気遣い、…ありがとうございます。…しばらくしたら…落ち着くと思います。
…もしデッサンされるのなら、…どうぞ」
「…うん…そのまま動かないで」

航はスケッチブックを取り出すと、鉛筆を走らせ始めた。ただ、最初は上半身全体をデッサンをしていたものの、その手はやがて止まり、ソファの背にもたれかかり窓の外を眺める樹の横顔を描いていた。
端正な顔立ち、紅潮した頬、半開きの唇。快楽の残り香を味わっているかのような色気も魅力的だったが、寂しそうな、どこか遠くに行ってしまいそうな瞳に航は吸い込まれそうで目が離せなかった。まだ誰かに見せられるほどの技量はないれけど、それでも今描かないといけないという衝動に駆られていた。

その日も結局、日がとっぷり暮れるまで、航の集中力は切れることなく、デッサンは続いた。

「今日も長い時間、ありがとう」

薄暗い部屋の中、床からシャツを拾い上げると、樹の肩にかける。

「とんでもないです。…描いていただけてありがたいです。…夕食の準備をします。」

樹はシャツに袖を通すこともなく、航と視線を合わせることもないまま、足早に作業部屋から出て行った。航はそんな樹を見て、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。


夕食をとり、シャワーを浴びたあと、航は早々に寝室に引きこもる。樹が持ってきた、ヒューマノイドの取り扱い説明書のデータを再生し検索し始めた。愛玩タイプの特性を把握するために。

航は何度も考えたが、やはり樹と体の関係を持つことは躊躇われた。興味がない。というより、肉体関係を持つことで樹との距離感や関係性を自分自身が変えてしまいそうで怖かった。かと言って、体の関係を持たないことで樹を苦しめ続けることも本意ではない。肉体関係を持つ方法以外で樹の性的興奮を減らせる方法がないか、説明書を読み漁る。

航の理想は、樹を「何らかの方法で違うタイプを変更する」こと。しかし、取り扱い説明書を調べた限り、一度設定されたタイプを他の仕様に変更出来なかった。各特性に合わせてプログラミングや刷り込みが行われるので、そう簡単に変更出来ないようだった。航はため息をつく。

…薬を使うしかないのか

取り扱い説明書で検索して分かったことがある。時や場所を選ばず、誤ってヒューマノイドが性的興奮を高めた場合、強制的に抑える方法がひとつだけ記載されていた。それは、専用の鎮静剤を飲ませることだった。根本的な解決にはならないが、一時的でも性的興奮を抑えられる。すぐさま航はネットで薬を購入した。

叔父に連絡することも考えていた。樹を送ってきた真意を確認したかった。なぜ愛玩タイプなのか。航自身、元来、同性愛者ではないのに、なぜ同性タイプなのか。しかし、航は連絡することをやめた。今更どうこう言っても仕方ないことだし、何より樹をもう手放す気にはなれなかった。

ベッドに寝転んで天井を見上げる。いろんなことが頭に浮かんでは消える。良い案なんて出てこない。ため息だけが航から漏れ続けた。



それから、昼食後に樹をデッサンすることが航の日課のようになっていた。樹の負担を減らすため、触れる頻度や時間を短くし、鎮静剤の服用を提案したものの、「大丈夫」だと言い張り、樹は頑なに断り続けた。結果、快感に耐え、最後は視線も合わせずに樹が部屋を去る日々が続く。
罪悪感や寂しさを感じていたが、描きたい欲求には勝てなかった。毎日描いても飽きない。もっと上手になりたいという思いが日々強くなる。

そうやって、デッサンというルーティン時間ができると、五月雨式に生活にもメリハリが出てきていた。朝が弱いことには変わりはなかったが、日中にデッサンをしているため、自然と夕食後に勉強をすることが習慣になり、時には気晴らしを兼ねた外出を定期的にするようになっていた。


10日程経った頃。いつものように樹は朝早くから掃除をしていた。前日まで降っていた雨が嘘のように、その日は太陽はすでに高く、日光が家の中を明るく照らしていた。鷹のような、猛禽類と思われる鳥が空高くを飛んでいる。樹は手を止めて、ぼんやりと眺めていた。

「樹、おはよう。」

背後から突然声をかけられて驚いたのか、樹は慌てて振り返る。

「おはようございます。…今日はお早いですね。」

いつものように薄く笑う樹。航はまだ眠そうな顔で、瞼も重そうだった。

「うん。今日さ、出かけようと思っているんだ。
それで、もし出来たらでいいんだけど、昼食を早めに準備してもらえないかな。」
「かしこまりました。それでは11時くらいでよろしいですか?」

航はあくびをしながらも笑みを見せる。

「うん、ありがとう。…あ、だから、今日はデッサンしないから好きなように過ごして。」

航は再び寝室へ戻ろうとした。しかし、樹の声が航を引き留める。

「どちらへ外出される予定ですか?先日と同じく、市街地ですか?」

一瞬、航の視線が泳いだ。沈黙が流れる。

「あー、今日は山だけど。…良かったら、樹も一緒に来る?」

樹は驚き、目を大きく見開いた。

「はい、喜んで。」

笑みを浮かべる樹につられて航も笑みを浮かべた。


早めの昼食を終えた後、2人は出かけた。
最初、人が歩くために作られた山道を進んでいたが、やがて途中から獣道といってもおかしくないような細道を進み始めた。木漏れ日の中、山鳥の声が大きくなり、近くに感じる。

「この村に引っ越してきた頃に、気分転換になるかと思って、いっ君と山に入ったんだ。
そうしたら、いっ君にぐいぐい引っ張られてさ、ついて行ったら見つけたんだ」

生い茂る草木をかき分けながら進むため、思いのほか、前に進むにも時間がかかる。それでも航は楽しそうに樹に話しかける。

「見つけた時はすごく驚いて。嬉しくて。…きっと樹も気に入ってくれると思う。」

目的地に何があるのか航はあえて話さない。樹を驚かせたかった。いや、喜ぶであろう、樹の顔を想像するだけで航の気持ちは浮かれる。
樹も何があるのかは聞いてこなかった。それよりも前日までの雨でぬかるんでいる足元が気になっているようだった。

「それはとても楽しみですが…まずは足元にお気をつけください」
「うん、大丈夫だよ。…もうすぐだから。」

そう言いながらも、航はぬかるみに足をとられて何度もバランスを崩していた。樹の顔から笑みは無くなり、航の一挙一動を見守り続ける。やがて木々が少しずつ減り、視界が広がり始めた。

「あ!あそこだよ!」

振り返りそう叫ぶと、航は我慢できずに草木をかき分けながら無理やり走り出した。

「お待ちください!」

諌めるように樹は声を上げる。しかし、航には間に合わなかった。体のバランスが大きく崩れたと同時に、航の視界は大きく揺れ、真っ青な空しか見えなくなった。背中や腰に衝撃が走る。
樹の視界からも航は一瞬で消え、土の上を滑り落ちる大きな音だけが耳に刺さった。

航は自分が落ちていると分かったが、驚きで体は硬直し、受け身を取ることもできず、気づいた時には泥溜まりの中で寝転がっていた。背中、腰、足に痛みが走る。どうにか上半身を起こすと、ほぼ同時に樹がすべり降りるように駆け寄ってきた。

「ビックリしたぁ!」

航は笑いながら樹を見る。航にとって、笑い話になるような失敗の一つだった。しかし樹の顔には何も表情はなかった。ただ、強い視線だけが航に向けられていた。

「…樹、もしかして怒っている?」

人間に危害を加える恐れが大きく、"不要""不適切"という理由で、ヒューマノイドは"怒り"という感情が制御されていた。しかし、直感的に航は樹の怒りを感じた。

「大したことないからさ…」

航は笑いながら、どうにか取り繕おうとした。

「もっとご自身のお体を大事にされてください!」

航の言葉を遮り、樹は叫んだ。そして、次の瞬間、樹は泣きそうな表情を見せる。震える指で、どこか傷ついていないか航の全身を確認し始めた。

「…どこか…痛い…ところは?」

指だけでなく声も震えている。今にも泣きそうだった。

「大丈夫だよ!」

安心させようと、笑顔で、わざと明るい声で航は答える。しかし、航の声が聞こえていないように、樹の震えは止まらず、何度も何度も航の体を確認する。航は笑顔のまま樹を強引に抱きしめた。

「…ごめんね…ありがとう…大丈夫だよ」

強く抱きしめ、耳元で何度も囁く。それでも、抱きしめられ身動きがとれない中でも、樹は航の体に触れようとしていた。

「だい…じょう…ぶ?」
「うん、大丈夫だよ。ごめんね、ありがとう。」

少しずつ樹の中に航の声が浸透し、やがて落ち着きを取り戻した。

「本当に…お怪我はないですか?」
「うん、少し痛いだけ」

打撲の痛みはあるものの、土がぬかるんでいたため、大きな怪我はなかった。航は勢いよく立ち上がって見せると、樹の表情はやっと緩み始める。

航は笑顔で樹に手を差し伸べた。樹もすぐに航の手を取り、立ち上がる。そして、いつもの笑みが戻った。

「航も…ずいぶんと子供っぽいところがあるんですね」
「…でもね、それだけ、興奮してしまう価値があるんだ」

航がゆっくりと腕を上げ、指を差す。樹が視線を送ると、そこにはヤマザクラが咲いていた。大きな石がゴロゴロと無数に転がり、その隙間を縫うような小さな沢。その沢の隅にヤマザクラが一本だけ立っていた。老木なのか樹皮の一部は朽ち果てようとしていたが、枝振りは堂々としており、生命力を感じた。八分ほど花は咲き、風に揺れている。

「…これは…素晴らしいですね」

樹は目を大きく見開いたまま、目が離せない。

「そうでしょ!?」

航は強引に樹の手を引きヤマザクラへ近づくと見上げる。ヤマザクラ特有の匂いがほのかに香る。

「最初見つけた時はまだ咲いていなかったんだ。
それで、もうそろそろかなと思って、今日来たけど正解だったよ!」

風で飛んできた桜の花びらを反射的に掴むと、再び空へと手離す。

「こんな石だらけの中に、しかも1本だけ。
ここまで大きくなるのは生きづらいだろうに、花を咲かせても寂しいだろうに、すごいよね」

まくしたてるように話すと、航は巨石の一つに座りスケッチブックを取り出した。

「スケッチしたいから、しばらく待ってて」

樹は薄く笑う。

「かしこまりました。…ただ、シャツを洗いますから脱いでいただけますか」

さきほど転倒した際に航のシャツは泥だらけになり、見過ごせないほどのひどい有様だった。

「別にいいよ」
「そういうわけには参りませんから…さあ、どうぞ」

やんわりと、しかし強い意志を見せる樹に航は反論する気になれなかった。いや、反論する時間がもったいなく、スケッチに集中したかった。シャツのボタンを外すことさえ面倒で、Tシャツのように一気に脱ぐと樹へ渡す。樹は含み笑いをしてしまうが、そのことにも気付かず、航はスケッチに集中し始めた。

そんな航を横目に、透明度は高く、そして肌を刺すように冷たい沢で樹はシャツを洗い、陽当たりの良い場所に干す。石は熱を帯び、風も心地よく吹いている。数時間もすれば乾きそうだった。

航の元に戻り、すぐ近くに腰を下ろす。雲に隠れることなく降り注がれる日差し、絶え間なく沢を吹き抜け続ける風、微かに聞こえる沢の流水音、ほのかに香る桜の匂い、全てを味わうかのように僅かに微笑みながら瞼を閉じた。まるで樹の周りだけ時が止まったかのようだった。

航が気づかないわけがない。樹に目を奪われ、スケッチブックをめくり、描き始めた。いつでも樹を描けるとは思うが、室内ではなく、開放感溢れる自然の中で見る樹の表情はまた違って良かった。

ただ、数時間後、航は眠気に襲われていた。珍しく早起きしたことや陽気な日差しに誘われたことも一因になっていた。とうとう我慢出来ず、スケッチブックを脇に置き、石の上に寝転ぶ。すると、物音に気づき、樹が瞼を開いた。視線が合う。

「陽射しと風がすごく気持ち良いよね…俺も眠くなってきたよ…」

僅かに微笑むと航は自分の腕を枕にし瞼を閉じた。樹は慌てて、干していたシャツを取りに行き、急いで戻ってくる。

「航、失礼します」

航の頭を持ち上げると、自らの大腿部を押し入れた。そして航の上半身にシャツをかける。

「…ん…ありがとう」

一瞬驚く航だが、樹の膝枕が気持ち良かった。程よい硬さに、間近に樹がいる安心感。子供みたいで恥ずかしかったが、誰かが見ているわけでもない。そのまま甘えてしまう。

「樹、頭撫でてよ」

ついもっと甘えてしまう。

「…かしこまりました」

樹の指先が何度も頭皮を優しく撫でる。航の頬は緩み、気持ち良さで微睡み始めた。もう少しで夢の中、その時に樹の手が止まった。航が瞼を開けると樹の視線は遠くにある。視線の先はヤマザクラだった。

「…樹?…どうしたの?」

樹の視線が航に戻り、手が再び動き出た。航の頭皮を優しく撫で始める。

「申し訳ございません。
…あのヤマザクラ、とても綺麗ですが、…見れば見るほど、美しさの中に少しだけ怖さを感じます」

航は一瞬、眼を見張り、微笑んだ。

「樹も感じるんだ。
…スケッチ始めてから気づいたけどさ、なんだか不思議な魅力があるよね。
寂しげだからかな、一度吸い寄せられたら、もう戻れない気がする。」

その時、突然、強い風が吹き、大量の花びらが舞い散った。樹を包むように舞うと、そのまま風に流されて消えていく。まるで映画の1シーンのようだった。無意識に航の手が伸び、樹の頬に撫でた。

「樹は綺麗だね。桜の花びらも似合う」

怪しげで寂しげな桜の花びらに包まれると、儚さが生まれ、また違った美しさが樹にあった。ただ、儚さゆえに、いつか突然消えてしまいそうにも思えた。航の心の片隅で不安が生まれる。

「ヤマザクラについていかないでよ。樹には俺のそばにずっといて欲しいよ。」

航は冗談ぽく笑う。不安に押され、冗談でもそう言わずにはいられなかった。

「えぇ、いつまでもおそばにいます」

樹は微笑む。それは、航が久しぶりに見る満面の笑みだった。
ただ、その笑顔が航の中に巣食っていたわだかまりを吐き出すキッカケになった。航の顔から表情がなくなる。

「あのさ、ずっと気になってて、でもなかなか聞けなかったことがあるんだ。」
「なんでしょう?」

樹の笑顔は変わらないままだが、対照的に航の視線は揺らいでいる。

「単刀直入に聞くけど、…デッサンのモデルになるの嫌?」

樹は驚き、何度も首を横に振る。

「そんなことありません。私は航のために…」
「だったら、デッサン終わった後、どうしていつも俺と目を合わせてくれないの?」

樹の目を真っ直ぐに見据え、言葉を遮るように航は言葉を重ねた。航の視線が揺らぐことはないが、目の奥に不安な色が見え隠れする。

「前にも言ったけど、樹が嫌なことはしたくないんだ。俺に気を遣わず、はっきり言って欲しい。」

樹は狼狽え、顔を背けてしまう。そんな樹を見て、言葉を続けようと航は口を開くが、あえて閉じた。樹を問い詰めることをしたくなかった。樹が話し始めるまでじっと待つ。

少しずつ陽は落ち、空をオレンジ色に染めていく。やがて樹は躊躇いがちに口を開いた。

「恥ずかしいのですが…いつも…ひどく欲情しているのです。
自分自身を落ち着かせることが最後まで出来ず…
もしかしたら航を押し倒してしまうのではないかと思うほど…
自分をどうにか抑えるため、出来る限り航を見ないように、匂いを嗅がないように退出しています」

航にとって、想定していない言葉が出てきた。

「匂い?香水とかつけてないけど…」
「…航の…体臭です。
…お伝えしていませんでしたが、…ヒューマノイドは主人の匂いにも敏感に反応します。
…今は外なので良いのですが…」

風の音にもかき消されそうなほど、樹の小さい声。恥ずかしいのか、嫌われたくないのか、樹は瞼を閉じていた。

「…そうなんだ…それでも…薬はどうしても嫌?」
「…認知機能が狂うので…それに…少しでも…ギリギリまで…航を…感じていたいです」

今後どう折り合いをつけるか航は悩み、目を伏せる。均整のとれた樹の体は、触るたびに勉強になり、航にとって良い教材だった。デッサンを続けたいし、できればデッサン後に樹と話したいし、そして、いつか樹に絵を褒めて欲しかった。
ただ、そのために薬を強引に飲ませて悲しい顔をした樹を見たくもない。

「…まだ、その、セックスは抵抗あるんだけど…少しは発散できれば違う?…例えば…キスとか」

航にとって精一杯の譲歩だった。
その言葉に樹の瞼は開き、一瞬光る。そして自然の流れで、樹の首が縦に振られる。

「樹が望むならいいけど。…ただ、俺の知っているキスって普通のキスだけど…それでいいんだよね?
…もし違うなら言って。」

映画などで見るよう濃厚な口づけを航はしたことがなかった。子供っぽい、軽い口づけで樹が満足するか航は不安だった。恥ずかしさもあるが、はっきりとさせたかった。樹の顔色を窺う。
その航の不安は的中し、案の定、樹は視線を泳がせ始め、何か言おうとして唇が僅かに動く。しかし口をつぐみ、再び顔を背けてしまった。
航はつい笑ってしまう。

「恥ずかしいのは俺の方なのに。樹はとびきり純粋で可愛いな。
…はっきり言ってよ。樹がどうして欲しいか教えて欲しいんだ。」

樹は顔を背けたまま口を開いた。

「淫乱に…思われるかもしれませんが…もし宜しければ…舌を…舐めて…いただきたいです」

消え入りそうな声だった。しかし、航の耳には届いた。
航が覚悟を決めるしかなかった。唾を飲み込む。

「分かった。…今、試しにしてみようよ。違っていたら教えて。」

樹は驚き航を見る。その樹の瞳は驚きながらも期待の色が濃く出ていた。その期待に応えられるか不安で、航はもう一度つばを飲み込む。そして、ゆっくりと体を起こしたとほぼ同時に樹を押し倒した。航にかけられていたシャツが風になびいて落ちる。

「航!?」
「恥ずかしいからさ、目を閉じて。…下手でも笑わないでよ」

冗談ぽく言うものの、航の顔は緊張で強張っている。そんな航を見てしまうと何も言葉に出来ない。樹はぎこちなく笑うと、言われた通り目を伏せ、口を僅かに半開きにした。唇は微かに震えている。呼吸は浅く早い。

航は何度か深呼吸し、樹の肩を掴むと、ゆっくり樹と唇を重ねた。想像していた以上の唇の柔らかさが伝わってくる。その柔らかさに驚き、そして思いのほか緊張し、航はそのまま動くことができなかった。
指先まで甘く痺れる。風で木々が擦れる音、沢の流水の音がなぜか大きく聞こえる。たまらず僅か数秒程度で一旦離れるが、2人にとっては長い数秒だった。それでも、樹の体は小刻みに震え、もっと欲しいと言わんばかりに瞼を薄く開け航を見つめている。

樹の視線に気づいた航は、その期待に応えるとでも言うかのように、ぎこちなく笑う。そして、深呼吸をし、もう一度唇をゆっくりと重ねた。今度は、恐る恐る舌を差し入れる。途端、樹の体は大きく震え、縋るように航の背中に手が回された。
唇を通して樹の震えが伝わり、そして航を求めるかのように抱きつかれたことで、航の中でも興奮が嫌でも昂っていた。ゆっくりと樹の舌を舐める。舌を舐める感触自体はあまり気持ち良いとは思えなかったものの、行為自体にひどく興奮した。何度も舐めると、その度に樹は熱い吐息をこぼし、時に喉を鳴らす。そんな樹に航はまた興奮する。

口づけと同時に、航の匂いが樹の鼻腔を直撃し、そのまま頭の芯を擽り、樹の自制心が緩くなることに拍車をかけていた。自然と樹も航の舌を舐め始める。航は驚くが、止めさせる気も起きなかったし、自身が止めようとも思わなかった。

上手とか下手とかもう関係なかった。舌を舐め合う行為は止まらず、まるで舌同士が複雑に絡みあっているかのように離れがたかった。舌が舐め合うことで起こる、唾液のネチャネチャとした音も2人をより一層興奮させた。樹の肩を掴む航の手にも力が入り、樹の体は震えが止まらない。

しかし、樹の中で理性というブレーキがかかった。唐突に顔を背ける。

「…間違い…ありません。…もう十分です。…ありがとうございます」

樹の顔は赤く染まり、息も荒く、そして腰が微かに揺れている。これ以上の快感を味わってしまうと、欲情を自制できるか自信がない。そう言わんばかりに樹は目に涙を浮かべ、首を振る。

「…もう帰りましょう」

体を起こそうと、航の体を樹がやんわりと押す。それなのに、航の体は動かない。むしろ、樹の手を取ると、押さえつける。
初めて知った興奮を航はもっと感じたくて仕方なかった。

「樹の唇ってすごく柔らかく気持ちいいんだね。…もう1回、練習しようよ。」

航の要望に樹の視線が揺らぐ。動揺していた。

「申し訳ございません。思いのほか、もうだいぶ興奮しています。
…このままだと…航を押し倒して止まらなくなるかもしれません」

航と樹の体格差を考えれば、樹が航を押し倒すことは容易だったし、航が嫌がったとしても、そのまま性行為までおよぶ可能性もあった。歯止めがかからなくなることを恐れた樹は、現状を正直に伝える。しかし、航は眉間に皺を寄せつつも動かない。

「…それは…困ったね。でもさ、あと1回だけ。1回だけ練習させてよ。それだったら、我慢できない?」

まるで無邪気な子供のように航は貪欲に求める。

「さっきよりもっと大きく口開けてよ。…舌ももっと出して。…もっと奥深くを舐めてみたい。」

見下ろす視線は樹を捉えて離さず、興奮し、情欲に溢れていた。
樹が航が拒否できるはずもない。そうプログラミングされていた。

「航…」

航の名前を呼ぶことが樹にとって唯一できる抵抗だった。

「樹、早く。日が暮れちゃう」

しかし、樹の思いが航に届くことはなかった。続きを期待し、航の目は輝いている。
樹は諦めたかのように、ゆっくりと口を大きく開き、舌を差し出した。舌先が震えている。

「奥深く舐めたら、もっと気持ちいいのかな…楽しみだな…」

航は興奮ぎみに呟くと、自身も大きく口を開き、再び重ねようとした。

その時、動物の鳴き声が聞こえてきた。力の限り、激しく鳴いている。嫌でも耳に入ってくるほどの声の大きさだった。航の動きが止まり、ゆっくりと上半身を起こした。周りを見渡す。

「なんだろ…?猫…?」

その瞬間、航を押し退けるようにして、腕の中から樹が逃れた。

「確認してきます」

突然のことに驚いて動けない航を残し、樹は足早に鳴き声の元を探しに行く。

「樹!!!」

呼び戻そうと航が叫んだ。しかし樹の歩みは止まらない。振り向きもしない。
航は溜息をつくと、八つ当たりするかのように、乱暴にシャツを拾い上げた。シャツから土の匂いがして、懐かしさがこみ上げる。同時に航の中に平常心が戻ってきた。
思っていた以上に樹との口付けに興奮した自分に驚きつつも、やはりまだ名残惜しかった。しかし、もうこの場で樹を再び押し倒す気にもなれない。

…デッサンの時にキスするだろうし。

そう自分を納得させ、片付けを始めた。
やがて戻ってきた樹の腕の中には猫がいた。腹を空かしているのか、庇護を求めているのか、ずっと泣き続けている。そして、真っ赤な首輪が見え隠れしている。小さい頃に捨てられたのか逃げたのか、首輪が首に食い込み、見ているだけでも痛々しかった。

「石に足が挟まって怪我をし、動けずにいました。どうしても見捨てることが出来ません。
…飼うことをお許しいただけないでしょうか」

樹は怒られることを覚悟しているかのように、体を小さくし、猫を抱きしめたままずっと俯いたまま動かない。航はため息をつく。

「正直、俺はしばらくペットは考えていないんだ。」

樹の指が震える。そんな樹を見て、航は笑いながら猫の頭を撫でる。そのまま、濡れて固くなっている首輪に手をかけ、やや強引に外し始めた。

「だから、俺は無理だけど、樹が責任もって飼うならいいよ。」

その瞬間、樹は笑顔を見せ、何度も頭を下げる。

「ありがとうございます!」
「…うん。」

猫の首を絞めていた首輪がどうにか外れると、叫び声が落ち着き、樹に甘えるようなしぐさを見せた。まだ幼いのか、人懐っこいのか、警戒心がない。樹も目を細めて猫を撫で始める。

猫を飼うことに航は内心乗り気ではなかったが、樹に対する罪滅ぼしのような気持ちがあった。それに、捨てられた猫に樹が自分自身を重ね合わせているような気がして無下にできなかった。

「…もう帰ろうか」

航の呟きに合わせるかのように、夕方の訪れを知らせるサイレンの音が響き渡る。夕日は傾き、薄暗くなっていた。

「そういえば、航に見せたいものがありました。」
「何?」

樹が胸ポケットから取り出しものは、親指ほどの大きさの石があった。まるで手染めされたかのように、白と赤のまだらの模様になっている。

「綺麗だなぁ」

航は思わず手に取り、夕日にかざした。夕日に映えて、より一層綺麗に輝いている。航の頬が緩む。

「天然石みたい」
「シャツを洗っている時に沢で見つけて、まるでヤマザクラのように綺麗でしたので拾いました。
…もし宜しかったらどうぞ」

航は驚き、慌てて突き返す。

「そういうつもりじゃない!返すよ!」

樹は薄く笑う。

「航に見せたら、沢に戻すつもりでしたから、お気になされないでください」
「…そうなんだ。…ありがとう」

航は一瞬考えた後、胸ポケットに石を入れた。そのまま航はヤマザクラへと振り返る。夕日に照らされ、妖艶さが増していた。目に焼き付け、心の中で別れを告げる。

…いつになるか分からないけど、また来るから。

そして、夕日が落ちていく中、足早に帰路へと着いた。





それから5年後。

樹は庭の草むしりをしていた。どんなに雑草を取り除いても、数日経てば、庭のどこかしらに生えている。しかし樹にとって苦にはならなかった。なぜなら他にすることがなかったからだ。日々の家事は掃除程度で、当然のように、それもすぐに終わる。草むしりは長い1日を終えるための暇つぶしに近かった。そのため除草剤を使う必要性も感じていなかった。遠くから聞こえる鳥の声、優しい風の音を聞きながら、樹は無心でただ抜き続けた。

やがて空が茜色に染まり、夜の訪れが近いことを示し始める。樹は小さくため息をつくと、抜き終えた雑草を集めようとした。その時、突然、背後から声が響いた。

「樹、ただいま!」

振り返って確認するまでもなくすぐ分かった。航だ。振り返ると、笑顔の航が立っている。樹も満面の笑みを浮かべて駆け寄る。

「航、おかえりなさいませ」

航はボストンバッグを地面に置くと、樹を抱き上げるように抱きしめた。

「樹は軽いな」
「…航がまた少し成長されたんですよ」

5年の間に航は成長し、樹の身長を超え、肉体も逞しくなっていた。樹を抱き上げることも大した苦ではない。対照的にヒューマノイドである樹の肉体は成長することも老化することもない。
解放すると、樹の頬を航は撫でる。皺一つない端正な顔や痣一つない滑らかな素肌など、いつまで経っても若さを保ち続けていた。

「樹は変わらないね…。…デッサンしたいなあ。」

樹は薄く笑い、頷いた。

「かしこまりました。…掃除を終わらせますから、先に室内でお待ちください」

雑草をまとめて捨てようと庭に戻ろうとした。しかし、航は樹の手を掴み、強引に抱き寄せた。そのまま、驚く樹の顔を覗き込み、ゆっくりと唇を重ねた。樹の唇を何度も甘噛みし、時々、気まぐれに下唇を吸い上げる。樹は従順に口を半開きにして受け入れた。

「樹、俺は今すぐがいいな。…ダメ?」
「…かしこまりました」

樹の手は泥だらけだったが、それでも航の背中へ手を回した。航は笑みを浮かべると、再び樹の唇を甘噛みする。



航の寝室、ベッドの上に2人はいた。壁にもたれかかるように航は座っている。その航の両足の間に樹は座り、肩に頭を預けるように抱きついていた。
樹は大きくゆっくりと、何度も深呼吸を繰り返す。自分の体を航の匂いで満たすように。深呼吸をするたびに体が微かに震え、頬も赤く染まり始めている。ただ、片手で航のペンダントを弄んでいた。白と赤がまだらになった石のペンダントトップ。以前、ヤマザクラの近くで樹が拾った石だった。弄んではぼんやりと見つめ続ける。
航は右手で煙草を薫せ、左手で樹の背中を優しく撫で続けていた。


「今回働いた場所は思っていた以上に南国でさ、
雨もあまり降らないし、たまに降っても、空気が綺麗なのか、虹がすごく綺麗なんだよ。
満足いくスケッチがたくさんできたんだ。樹にも見て欲しい」
「はい…それは…楽しみです」


「夜も星がとても綺麗でさ、近いというか、他の場所とはまた違って輝きが違うんだよ。
ずーっと見ていても飽きなくて。高機能カメラを持っていけば良かったよ」
「次回から…荷物に準備いたします」


「そうそう。樹にお土産があるから、あとで渡すよ」
「…ありがとうございます」


航は社会人になり働き始めたが、趣味と実益を兼ねて、日本各地でバイトや季節労働をしていた。各地で働き、各地の人々の生活を知り、各地の人々の人生を少しだけ垣間見、各地の風景をスケッチすることが航のライフワークの一つになっていた。

今回、航は2週間ほどのリゾート地でのバイトを終え、思い出話を樹に話していた。しかし、突然、大きな笑い声を上げ、樹の顔を強引に持ち上げた。

「樹は何をそんなに怒っているの?」

怒りを出せず、思考の読めない表情や瞳を見せることの多い樹だが、長く一緒に暮らせば、完全とはいかないものの、樹の思考や機嫌を感じ取れるようになっていた。
快感に少しずつ身を委ねている樹だったが、その航の言葉に動揺する。

「…私はヒューマノイドです。主人に対して怒りなど…」

樹の決まりきった言い訳が始まる。航は軽く笑い、言葉を遮る。

「樹。今、考えていることを言って」

言葉を促すように、樹の頬を優しく撫でた。一瞬躊躇いつつも、樹の手はペンダントから離れ、航の体を撫で始めた。2週間前との違いを確認するように。


「…少し逞しくなられた気がするのですが、…何かされていたのですか?」
「うーん。今回はキツめの肉体労働が多かったらね」


「…指がテーピングだらけなのは…なぜですか?」
「あぁ、これ?出来ないって言ったんだけど、無理やりアウトドアで料理させられたんだよ。
結局、ちっとも料理はできないまま。…あぁ、でもピザは作るのは好きだな。」


「…煙草の匂いが…変わった気がするのですが…」
「よく気づいたね。見慣れない、外国産の煙草が売ってあったから買ってみたんだ。結構、美味しくって。
…樹も吸ってみる?」


樹は首を横に振り、そしてそのまま航の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。

「私の…私の知らないところで、…航が変わっていく話を聞くのは辛いです。
どうか…どうかお願いしますから…次は私も連れて行ってください。…なんでもしますから」

全身を震わせている樹を見ながら、航は笑顔のまま軽くため息をつく。

「俺のことを全て把握したいの?だから怒っていたんだ。…ずいぶんと独占欲が強いね。」

樹の背を軽く何度も叩き、その場を誤魔化すように明るく言った。しかし、樹は慌てて顔を上げる。

「心配で堪らないのです」

涙で滲んだ瞳でじっと真っ直ぐに航を見つめる。航の顔から笑顔が消え、再びため息が漏れる。

「…以前、連れて行ったら大変なことになったじゃないか。だからもう連れて行かない。」

樹の目から涙が溢れ出した。航の胸に強くしがみつく。

「お願いします…お願いしますから…なんでもします
…何もするなと言うなら、何もしませんから…連れて行ってください」

呪文のように何度も同じ言葉を繰り返す。航は天井を見上げ、大きくため息をついた。

「ダメだよ。絶対に連れて行かない。…この話はとっくの前に終わったことでしょ。やめよう」

樹の後頭部を掴んで強引に持ち上げると、自分の首に押し付ける。

「ほら、俺の匂いを深く吸って」

樹は何か言おうと喉を僅かに鳴らしたが、すぐに諦め、言いつけ通り深呼吸をし始めた。
その様子を見ながら航は煙草を咥える。煙草の味を深く味わい、吐き出された煙の独特な匂いが部屋に薄く広がっていく。2,3回繰り返すと、樹のシャツを両手でたくし上げ、白くて滑らかな肌を撫で始めた。背中、胸、腹と優しく、時に強く刺激しながら指が動き回る。その一つ一つの刺激に樹の体が震え、そしてその刺激から生まれる快感が堪らず、樹の喉から上擦った声が漏れる。

「…あぁ…っん…」

慌てて樹の肌から航の手が離れる。泣かれるのも困るが、快感に溺れるすぎるのも困る。咥えていた煙草を再び手に取り、静かに樹の顔を覗き込む。僅かに見える樹の目から涙はもう流れていなかった。航の背中へ腕を回してしがみつき、全身を小刻みに震わせながらも、一心に深呼吸を繰り返していた。

「ごめんね」

航は安堵のため息をつきながらも小さく呟く。独占欲が強いのは、樹ではなく、自分自身だと航自身だと気づいていた。
以前、2人で旅行をした時、樹は強姦されたことがあった。その時、航は自分の不甲斐なさに傷ついて、泣いて、強くなろうと決意した。そして、誰にも樹を見せたくなくて触れさせたくなくて、まともに外出を許さず、この家に閉じ込めていた。
ヒューマノイド相手にそこまでやることが歪だと航自身でも思っていたが、それでも、やめることは出来なかった。

「樹、俺の声が聞こえる?そろそろ服を脱ごうか」

樹は返答せず、深呼吸を続ける。しかし声は聞こえていたようで、航の背中にしがみついていた腕が力なく落ちた。そして、ゆっくりと震える指でシャツのボタンを外し始める。ただ、動きが緩慢だった。見ている航からすると焦れったい。

「代わりにやってあげるよ」

航は煙草をサイドテーブルの灰皿に捨てると、樹のシャツのボタンを代わりに外す。はだけさせると、そのまま一気に腕から抜いた。白く、滑らかな肌が露わになる。

「腰、上げて」

言われるがまま、樹が気だるそうに腰を上げると、航は手慣れた手つきでボトムスを膝まで引きおろした。

「横になろうか」

樹の両肩を持ち、体をわずかに横へ移動させた。途端にバランスを崩し、ベッドへ倒れこむ。受け身をとることもなく、うつ伏せになった樹は、荒い呼吸を繰り返すばかりで動かない。

「大丈夫?」

そう言いながらも、膝まで下りていたボトムスを航がはぎ取った。樹は全裸となったが、それでもやはり動く気配はない。ただ、呼吸を繰り返すたびに胸が上下するだけだ。髪が顔にかかり、表情を窺い知ることができない。

航もさすがに心配になり、ゆっくりと髪をかきあげた。すると、樹の頬は紅潮し、口は半開きのまま呼吸を繰り返していた。瞼を重そうにしながらも目は潤み、視点は定まらないまま揺れている。航の頬は自然と緩んだ。

「樹、デッサン始めるよ。」

耳元でささやくと、仰向けに誘導する。久しぶりのため、樹の顔はどうしても描きたかった。
樹も抵抗することなく、導かれるまま仰向けになり、ぼんやりと宙を眺めていた。全裸であることを隠そうともせずに。
航は満足げな笑みを浮かべるとようやくベッドを離れ、スケッチブックの準備を始めた。


樹をモデルとして航はデッサンを描くようになったが、鎮静剤の服用を樹が拒み続けたことがキッカケで、欲情した樹の美しさに気づき、そして魅入られていた。何度描いても飽きない。そして、2人きりの世界を邪魔する人も忠告する人もいない。坂道を転がるように航は樹に傾倒し、樹をギリギリまで、そして少しでも長く欲情させてデッサンすることが常となっていた。

ただ、後から知ったが、ヒューマノイドは性的興奮を一度感じると、自然と収まることは無かった。性的行為をするか薬を使うか、何かしら対応しない限り収まることは無かったし、放置すれば禁断症状のようになることがあった。そのため、最後に航が樹の性的興奮を発散させることでデッサンが終わっていた。

言われるがままモデルを続ける樹に航は罪悪感を感じることもあったが、"描きたい"という誘惑には勝てず、ずるずるとそんな関係を続けていた。


その日も、樹に緩慢な快楽を与えると、少し離れたソファに座り、デッサンを始めた。ベッドの上の樹は航がデッサンを始めたことに気づいていないのか、快楽をもっと求めるかのように、ゆるゆると胸や腰を揺らし、誘っているかのようだった。

「樹、あまり動かないで」

航の言葉に反応し、樹の動きは止まる。そして、航の言いつけを守ろうと、両手両足の指でシーツを握りしめ耐えようとするのも束の間、やはり耐えきれない。許しを乞うかのように航を呼び、微かに甘く上擦った声を漏らす。腰が緩慢と動き出し、切なげに自分で自分の肌を撫でる。視線はどこまでも遠く、熱を帯びていた。

「樹、綺麗だな…」

つい見惚れてしまい、航の手が止まってしまう。理性を僅かに残しながらも快感に浸り、恍惚な表情を見せながも、時折、苦悶の表情を垣間見せる樹。理性と欲望という相反する感覚に揺れ動く樹の姿はひどく美しく、妖艶な輝きを放っているように見えた。
つい目を奪われてしまうが、時計の音で我にかえり、慌てて鉛筆を走らせる。


それからどのくらい時間が経ったか。樹の呼吸は目に見えて荒くなっていた。ベッドの上で体を大きく身じろぎし、何度も航の名前を叫ぶ。怒りはもちろん、不平不満などを言うことが出来ないヒューマノイドである樹は、名前を呼び続けるしかなかった。しかし、航は動じない。いつものことだったからだ。

「あー。樹、まだ待って」

航は鉛筆を走らせる手を止め、ボストンバッグからまだ洗濯していないシャツを手早く取り出すと、樹の鼻先に置いた。途端、樹はシャツを握りしめ顔に押し付けた。そして、飢えを満たすかのように、航の匂いを少しでも多く得るため、せわしなく深呼吸し始める。

「航……航……航……」

シャツの奥から航を叫ぶ声がする。そして、深呼吸を繰り返すたびに樹は大人しくなり、再び快感に酔い始めた。

「ごめんね」

航は呟くと、ソファに戻り再び鉛筆を走らせ始める。
すると、寝室に猫が入ってきた。ヤマザクラのそばで拾った猫だ。全身真っ黒な体毛で、細身の体型と鋭い目つきが特徴的だった。拾われたことや日々世話されていることに恩義を感じているのか、樹にとても懐いていたが、対照的に航にはあまり懐こうとしなかった。
部屋に入ってくるなり、真っ直ぐ樹のもとに向かい、ベッドに昇った。そして、樹の顔を舐めようとする。しかし、声を震わせながら、樹は抵抗する。

「サ…クラ…今は…ダメ…航の…匂いに…サクラの…匂いが…混じっちゃう…ダメ…あっちに…行って…」

体を丸め、猫のサクラからシャツを守ろうとしていた。航は苦笑しながら立ち上がると、サクラを抱き抱える。

「サクラ、ご主人様に嫌われちゃったなー」

サクラを部屋の外に出すと、入ってこられないようにドアを締め切った。

「サクラはもういないよ」

ベッドに戻ると、丸くなった樹の体を仰向けに押し広げる。樹は抵抗しない。

「もう少しデッサンさせて?」

航の言葉に微かに頷く。目に涙をにじませ、航のシャツをより一層強く握りしめて。


しかし、それでも1時間ももたなかった。樹は航の名前を泣きながら叫び始めた。体を静止することも出来ず、ベッドの上でもがく。

「樹、ごめん。もう少し。もう少しだけ」

航はスケッチブックに視線を落とし、描くスピードを上げていた。視界に樹は入っていない。
樹はとうとう我慢が出来ず、転がり落ちるようにベッドから降り、這うように航のもとへ向かう。そして、たどり着くなり、航の大腿部に縋り付いた。

「わた…る…お願…い…します…もう…」

荒い息の中、絶え絶えに樹は懇願する。

「うん、分かっている。ごめん、…もうちょっとだけ待って」

航の手は止まらない。視線もスケッチブックから離れない。樹は耐えるように下唇を噛む。荒く呼吸を繰り返しながら、航にしがみついてただ待つことしかできなかった。

時折、航の手が樹に伸びてくることがあり、その度に期待して樹は笑顔を見せる。しかし、樹の髪をかきあげ、顔を観察すると、航は再びスケッチブックに視線を戻し、鉛筆を走らせてしまう。

「樹は綺麗だな…すごく美しいよ」

航は何度も呟く。その度に樹の目から涙が溢れる。言葉ではなく、航が欲しかった。

「航…航が…欲しい…」

樹は少しでも航の匂いを得ようと大腿部に顔を押し付け、深呼吸をする。そのまま這い上がろうとした。

「それ以上はダメだよ」

もう少しで航の股間に触れそうになった時、樹の頭を航が押さえた。

「うぅん…航…」

"おあずけ"された犬のように、樹は全身を震わせ、待つしかなかった。何度も航の様子を上目遣いで確認する。

「…うん…もう…いいかな…」

やがて航が満足そうな表情を見せる。描き残しがないか確認し終わると、スケッチブックをテーブルに置き、樹に笑顔を見せた。その笑顔でデッサンが終わったことを悟った樹は目を大きく見開き、慌てて上半身を起こす。

「樹、待たせてごめんね。」

笑顔のまま屈み込み、両手で樹の顔を持ち上げた。そして食むように何度も唇を重ねる。ずっと待っていたこの瞬間に樹の全身は喜びで震え、もっと欲しいと言わんばかりに航の首に腕を絡ませた。
そんな樹に航は目を細め、顔を持ち上げた。物足りなさそうに樹の唇は半開きのままだ。

「樹、焦りすぎだよ。…おいで。」

樹を抱き上げて膝の上に座らせた。そして、悪戯っぽく笑い、舌を差し出す。
一瞬、樹は躊躇するものの、航が何を望んでいるか分かった。体を丸め、震える手で航の頬に手を添えると、自ら進んで、航と唇を重ねた。そして、航を誘うように唇や舌を何度も舐める。しかし、その誘いに航はなかなか応えず、代わりに樹の背中や腰を優しく撫で続けた。久しぶりのなめらかな肌を確認するように、航の指は樹の体をゆっくり這う。
その刺激は樹にとって気持ち良く、快感もあったが、航ともっと深く口づけをしたいと気持ちが急いていた。

「航!…どうかっ…お願いしますから…」

たまらず懇願した。目には涙が滲む。
そんな樹に航は苦笑しつつ、樹の体を強引に密着させるかのように引き寄せた。

「ゆっくり楽しみたかったけど…久しぶりだからかな、つい樹を甘やかしちゃうな…」

樹の後頭部に手をまわし引き寄せると唇を重ねた。すぐさま舌を差し入れ、絡ませる。樹は喉を鳴らして喜ぶと、自らも舌を差し出し、航を求め続けた。

唇を重ねたまま、航は樹の臀部全体を優しく撫でては揉みしだき、時に割れ目も優しく撫でる。そのたびに樹の体を震え、喉を鳴らす。早く欲しいと期待しているように。
やがて樹の腰が揺れ始めた頃、航の指はアナルに向かい、ゆっくりと割って入る。樹の体は大きく震え、唇を重ねたまま、より熱い吐息を漏らし始める。航の両肩を掴む、樹の指にも力が入る。
航は指を出し入れしてほぐし、ほぐしては指を増やす。指が3本になったところでゆっくりピストンしながらも、性感帯を同時に刺激し始めた。

「はぁぁ…っんぅ…いいっ…」

強い快感にとうとう樹は唇を離してしまう。体を丸めるようにして航に抱きついた。それでも航は躊躇することなく、指をピストンし続け、性感帯を刺激し続け、追い詰める。樹の嬌声は止まらず、室内に響き渡り始めた。

「んぅん…航…もっと…ぁあっ…」
「うん、分かっているよ」

航は集中的に性感帯を細かく刺激し始めた。樹の体は震え、自らも腰を振り、より深く強く快楽を求めようとしていた。

「あぁっ!!!」

大きな声を上げると同時に、腰を何回か大きく震わせて達したようだった。息が荒いまま、樹は腰を落とし、航の胸に頭を預けて動かない。航は優しく頭を撫で、耳元で囁く。

「ごめんね。ありがとう。」


5年前、性的興奮の発散方法として口付けを提案したが、結局、口付けだけでは全て発散することができないほど航の与える快感は大きく、樹の興奮は治まることがなかった。そして、鎮静剤を使うことを嫌がる樹のため、出来る限り最初から薬を使うことはせず、ある程度満足するまで行為に付き合うようになっていた。

ただ、それでも、やはり、航は樹と肉体関係をもとうとはしなかった。情欲にまみれている樹の姿を見て興奮しないわけがなかったが、関係を持つことで樹との距離が変わり、見る目が変わり、絵のタッチが変わることを、昔から変わらず、まだ恐れていた。
そして、心の片隅では、ヒューマノイドに心酔していく自分が怖かった。関係を持てば、もう後戻りできそうにないほど、樹の存在が航の中で大きくなりそうで怖かった。


「樹、俺の声、聞こえてる?」
「…はい」

航は樹の頭を自分の肩に誘導すると強く抱きしめた。

「今度さ、樹の絵の個展をまた開くんだ。すごく好評みたいで。」
「…そう、…ですか」
「個展に来てくれたみんなが、絵を、樹を綺麗だって言ってくれる。」

樹を描くようになってしばらくして、航はSNSに樹の絵を何気なく投稿した。それが巡り巡って一部で話題となり、数年前から個展を各地で開くようになっていた。

「俺、とても嬉しいし、樹のことをもっと自慢したい。…だから、もっともっと樹を描きたい」
「…ありがとうございます」

嬉しそうに話す航とは対照的に樹は寂しげな表情を浮かべている。航のペンダントトップの石を再び手に取り、手の平の中で弄び始めた。

「それで、明日は隣町で個展の打ち合わせがあるから、朝早く出るよ。
一人で起きられる自信がないから起こしてくれる?
あと、朝食は要らないから、そのあとはゆっくりしてて」
「…明日も航と一緒にいたいです」

その瞬間、航の顔から笑顔が消えた。樹の顔を覗き込む。

「樹?さっき話したよね?どこにも連れていかない。ここでサクラと待ってて」

明るい口調から一変し、航の声は低い。強い視線が樹に向けられていた。航の強い意志を感じ、樹は目を伏せる。それでも意志は変わらなかった。

「…どうか…お願いします…邪魔などしませんから…」
「ダメだよ!!!」

感情的になり、航は声を荒げてしまう。そんな自分に驚き、狼狽えた。

「…大きな声を出してごめん。…でも、…とにかくダメなものはダメだよ」

しかし樹は目を伏せたまま何も答えようとしない。
航はため息をつく。いつもの樹と何か違っていた。もしかしたら、まだ快感に酔っているのかもしれない。準備していた鎮静剤を手繰り寄せる。

「…ほら、薬飲もう」

樹は口をつぐみ、顔を背ける。

「もう一度だけ…気持ち良く…なりたいです…お願いします」

再び違和感を感じ、航の眉間に皺が寄る。今まで樹が性的欲求を口に出して求めることが少なかったからだ。
しかし、2週間ぶりに会うということもあり、樹の思いを全て無碍にするのは嫌だったし、甘やかしたい気持ちがどうしても湧いてしまう。わざと明るく話す。

「…じゃあ、薬が効くまで、ね。
あと、明日はさ、あのサラサラした、水っぽいカレー作ってよ。久しぶりに食べたい。」
「…かしこました。…人参抜きでお作りします」
「そうそう、それ。」

航は笑いながら、錠剤を手に取り、樹の口元に運ぶ。
一瞬躊躇うも、樹は錠剤を口に含んだ。そして、そのまま航の指に舌を絡め、舐める。親愛の情とも、誘惑ともとれるような心地良い感触。航は慌てて指を引き抜く。樹に興奮してしまいそうだった。

「樹、どうしたの?いつもに比べてずいぶんと今日はワガママだね。…俺がいない間に何かあった?」
「…いえ、何も。…申し訳ございません」

樹は謝るばかりで理由や言い訳を口にしない。航もその場で問い詰める気にはなれなかった。
そんな航の首に顔を埋め、樹は再び深呼吸をし始めた。

「航……航……航……」

何度も呟く樹の背中を航は優しく撫でる。樹も航の指に敏感に反応し、小刻みに震える。

「航…もっと…触って…いただけますか。薬が効く前に…」
「…うん」

デッサンに集中していた名残で先ほどまでは樹に欲情することはあまりなかったが、今の航は樹に魅了されてしまいそうだった。努めて冷静になろうとゆっくり呼吸をし、樹の臀部に手を伸ばした。樹の臀部を時に優しく撫でたり、時に強く揉みしだく。気まぐれに与えられる、その緩急つけた刺激に樹は喉を鳴らし、腰は震え続ける。

「航…気持ち…いい…です…もっ…と…」

樹の腕は航の背中に回り、きつく指を立てている。そのまま、もっと刺激が欲しいと言わんばかりに、樹は腰を持ち上げ、腰を大きく揺らす。その誘うかのような動きに航はつい唾を飲み込んでしまう。

航は高揚する感情を押し殺しながら、樹のアナルに再び指を押し入れた。今度は2本同時に。何度かピストンし、指で軽く性感帯を叩くと、樹の体はそのたび大きく震える。航の耳元で上擦った声も上げ始める。

ピストンを続けながらも、航は空いているもう片手で樹のペニスを優しく包み込み、上下に動かして刺激を与える。

「んっあぁあっ!!!…いぃっ!!!」

樹はたまらず声を大きく上げた。両足はカタカタと震え始め、止まらなくなる。それでも、航は躊躇することなく、アナル内の性感帯やペニスの先端などを強弱つけながら刺激し続ける。

「急いだ方がいいよね…。…樹、自分で動いて。一番気持ち良いの、自分が一番分かっているでしょ?」

微かに頷く樹。恐る恐る腰を前後に動かし始めた。

「んぅん…すご…い…」

最初はゆっくりと、動く範囲も狭かったが、腰を動かすたびに、アナル内部と樹の指、ペニス全体と樹の手のひら、それぞれが同時に擦れ合って刺激され、強い快感が生まれる。そして、ただ摩擦しているだけでなく、樹の腰の動きに合わせて、航はペニスの裏筋やアナル内部の性感帯を刺激する。

「あぁあ…いい…はぁあ…止まら…な…い」

樹はあっという間に快楽に飲み込まれ、貪欲にさらに求め始めた。腰の動きはどんどん速くなり、少しでもより気持ち良いポイントを探そうと、前後左右と乱暴に不規則に振っていた。

「わた…るぅ…あぁん…んぅ…やぁあ…もっと…欲し…」

目は虚になり、口は閉じることなく口端からは唾液が漏れ、熱のこもった息を吐き続ける。その姿はとても卑猥だった。
そして、いつもと違い、声を押し殺して我慢することもなく淫乱な姿を曝け出す樹に、航も興奮を隠しきれなくなっていた。

「…樹、キスして」

樹は小刻みに首を縦に振る。航の背中にしがみついていた両手を樹は解き、航の肩に手を置くと上半身を起こした。その間も快楽を求め、樹の腰の動きは止まることはない。

「樹、早く」

航は口を薄く開く。樹もつられたのか、目は虚なまま、口を半開きにし舌を差し出す。そのまま吸い寄せられるように航と唇を重ねた。何度も唇を重ね、何度も舌を舐め、何度も絡ませる。全身が性感帯になっているかのように、舌を絡ませるだけで樹は喉を甘く鳴らし、上擦った声が漏れる。

「はぁっ…んっ…わ…たるが…もっ…欲し…い…もぅ…足り…な…」

口づけの合間に言葉を紡ぐ樹の声、2人の唾液の絡まる音と息遣い、樹が腰を振るたびに軋むベッドの音が混じり合い、室内に薄く響く。

舌の感触に加え、耳も浸食され、航もどんどん興奮が加速してしまう。もっと淫乱な樹が見たかった。唇を重ね、深く舌を絡ませながらも、樹のアナルを責める指を3本に増やして性感帯を時々より強く刺激したり、ペニスを包む手も時々イタズラするかのように爪を立てる。

樹はその度に体を大きく震わせ喉を鳴らした。嫌がっているのか、喜んでいるのか、それともその両方なのか分からない。ただ、唇は航から離れることはなく、樹の腰の揺れはさらに加速していた。

「わた…るぅ…あん…ぅんっ…もぅ…うぅん…」

名残惜しそうに唇を離すと、樹は航の胸に抱きついた。

「うん、分かったよ」

航は下唇を舐めると、樹の腰の動きを無視して、両手の動きのスピードを早めた。絶頂へと強引に追い詰める。途端、樹の嬌声は今までになく大きな叫び声となり、全身がガタガタと震えだした。目には涙が浮かぶ。それでも航は手を止まらず、出来うる限りの早いスピードでピストンし続けた。

「やぁあっっっ!!!」

一際大きい声を上げると、樹は腰を落とした。絶頂を迎えたようだった。余韻を引きずるかのように、顔を紅潮させたまま視点は定まらず、口も閉じることはなかった。そして、腰が微かに揺れ続けている。

痴態を曝け出す樹に航の興奮は収まらず、樹の顔を強引に持ち上げると再び唇を重ねた。樹は朧げな意識の中、航の求めに必死に応え続けた。



翌日、航は隣町のスタジオにいた。個展のスケジュールや運営体制などはある程度は事前に確認済みで、個展に飾る作品決めが一番の目的だった。
しかし、航にとってはどの作品も愛着があり、甲乙をつけがたいものだった。展示の優先順位や展示順を決めることがなかなか出来ない。個展開催前にいつも悩むことだった。

「すみません。ちょっと一服します」

スタッフに断りを入れ、気分転換にスタジオの出入り口近くで煙草を吸い始める。煙草を燻らせながら、航の思考はいつのまにか個展ではなく、樹のことを考えていた。
結局、その日の朝も「ついて行きたい」と懇願してきた。航は受け入れるつもりはなく、怒ったりなだめすかしたりしたが、樹は納得せず、沈んだ表情で航を玄関で見送った。今まで無かった樹の行動に深く溜息をつく。

早く帰るためにはまず個展開催に向けて決定しないといけない。そう思いながらも、ぼんやりとガラス越しに人通りを眺めていた。タバコ2本目に手を出した時、通りを歩く人々の中、1人の人物に目が止まる。

「世の中には樹に似ている人がいるんだなあ」

つい独り言を呟いてしまっていた。それほど樹に似ていた。再び樹に想いを馳せながら、どんどん近づくその人物を何気に見ていたが、近づくほどに航の顔はどんどん険しくなる。

「なんで来るんだよっ!」

航はスタジオを飛び出した。似ている別の人物だと思いたかったが、服装はもちろん、歩き方などの立ち居振る舞いがどう考えても樹本人だった。
スタジオを探して視線を左右に揺れているものの、初めて会った時と同じく、涼しげな表情で樹は歩いていた。ただ、何があったのか、サンダルを手に持ち、裸足で歩いていた。必然的に膝下は泥だらけの状態になっている。

「樹!どうして来たんだ!」

樹の肩を掴み、つい大声を出してしまう。

「…申し訳ございません。」

航の諌める声に樹は謝罪しつつも、航に会えたことで僅かに安堵の表情を見せていた。

「それに…買っていただいたサンダルの鼻緒が切れてしまいました。…申し訳ございません。」

樹は頭を下げる。サンダルは泥にまみれ、ボロボロになっていた。よく見ると、泥だらけの足にも傷を作っている。おそらく家からスタジオまで長い時間をかけて歩いてきたのだろう。樹を外出させるつもりはなかったため、樹用の靴はサンダルだけだった。そして金銭の使用も許していなかったことが裏目に出ていた。
航は深い溜息をつく。 いろいろと言いたいことはあったが、人通りのある街中で話すことは躊躇われた。

「おいで」

樹に背中を向けて航がしゃがむ。樹は微かに微笑みながら、嬉しそうに航の肩に手をかけ、自身の体を委ねる。樹の重さを感じると、航はゆっくり立ち上がった。

「俺の匂い、…あんまり嗅いだらダメだよ」
「…かしこまりました」

そう言いながらも、樹は目を細め、航に気づかれないよう、首筋に鼻先を近づけて深呼吸し始めた。航は気づくことなく、スタジオへ直行する。

「すみません、奥の部屋を借ります」

スタッフに一言だけ言うと、真っ直ぐにスタジオの奥にある個室に向かった。こんな時でも航の中で独占欲が膨らみ、樹をスタッフに紹介する気にはなれなかった。
個室に入ると、航はソファに樹を降ろす。名残惜しそうに航から離れた樹は、室内を観察するように視線を泳がせ始めた。何年も家を出ることがなかった樹にとって見るもの全てが新鮮なようだった。

航はタオルを取り出すと、テーブルに置いてあったペットボトルの水で濡らした。樹と正対するように床へ腰を下ろすと、タオルで樹の足を丁寧に拭き始める。

「航、おやめください。自分でやります。」

樹は慌てて足を引こうとした。しかし航は強く握りしめ、離そうとしない。むしろ強引により近く引き寄せると、無言で樹の足についた泥を拭き落としていく。
無言であることでかえって航の怒りが樹にも伝わっていた。樹はもう何も言えず、ただ身を任せた。沈黙が続く。

泥を落とした樹の足を航は細かく確認する。細かい傷はあったが、大きな傷はない。ただ、裸足で長時間歩いていたためか、足裏は赤く腫れ、熱を帯びていた。自然とため息をついてしまう。新しいタオルを水で濡らし、樹の足裏に貼り付けるように巻いた。

「…それで何があったの」

泥だらけになったタオルと鼻緒が切れたサンダルをゴミ箱に捨てながら、航はようやく口を開いた。声は低く、不機嫌さが伝わってくる。樹はうなだれた。

「申し訳ございません。…どうしてもおそばにいたくて仕方ありませんでした。」

いらだたしげに航は髪をかきあげる。

「俺は…何があったのか、聞いているよ」
「…何もありません。…申し訳ございません」

航は足早に樹に近づくと肩を掴み、上半身を持ち上げた。

「今までこんなこと一度だってなかったじゃないか!
この2週間であったこと!今、考えていること!言って!」

航は我慢できずに声を荒げた。部屋の外まで響こうが構わなかった。樹は大きく目を見開き、一瞬の後、目を伏せた。涙が溢れ出す。

「どうしても…航と一緒にいたかったのです。申し訳ございません」

航は眉をひそめる。理由もなく、ただ感情のまま動くことがあまりにも唐突すぎた。
ただ、樹に自覚はなくとも、航がいなかったこの2週間に変化のキッカケがあったかもしれない。航は手がかりが欲しかった。樹の横に腰掛ける。

「謝ってばかりじゃ何も分からないでしょ。この2週間にあったこと、全部教えて」

出来る限り優しく話しかける。樹は俯いたまま訥々と語り出したが、樹自身が言う通り、変化は何もなかった。家事をし、サクラに餌をあげて遊び相手をする。その繰り返し。樹が意図的に嘘をつくとも航は思えなかった。航は何度目か分からないため息をついた。

「樹、この部屋で待ってて。…すぐに戻ってくるから」

両手を強く握りしめ、黙って頷く樹を横目に航は部屋を出た。スタッフの元へ行くと、待たせたことを謝罪し、そして、展示作品の選定を全て任せられないか相談し始めた。

スタッフと話し合いをしながらも、頭の片隅では、樹とちゃんと話して、最悪の場合、精密検査を受けさせなければいけないかもしれないと考えていた。もし精密検査を受けさせた場合、期間や副作用など気になることを考え出したらキリがない。航は早く帰って調べたかった。

スタッフと話し合った結果、選定や展示方法などを一任出来ることになった。航は感謝の言葉を述べ、個室に戻り始めた。すると、航にとって信じられない光景があった。樹が部屋を出て、物陰から航を見つめていた。

「樹!」

反射的に航が駆け出す。その姿を見て、樹は慌てて部屋に戻ろうとした。しかし、傷だらけの足で歩く樹が走る航に勝るわけもない。すぐに航が追いつき、強引に樹の肩を掴んだ。

「どうして、俺の言うことを聞けないの!?信用していないの!?」
「違います…!…ただ、航のそばにいたいのです」

樹の目から再び涙をこぼれ始めた。止まらない。
もう問い詰める気にもなれず、航は樹を強く抱きしめた。

「ずっとそばにいるから。…一緒に、家に帰ろう」

樹は黙って頷き、航のシャツを握りしめた。

航は自分の荷物を持ち、樹を背負うと、再びスタッフの元へと行く。選定などの仕事を全て任せた身として、流石に挨拶しないままスタジオを出るのは非礼だと感じていた。

「展示作品の選定、すみませんが、よろしくお願いします。」
「構いませんよ。…あ、この方は?」

流石に背負っている樹に気づかれた。

「絵のモデルをしている樹です。…樹、挨拶して」

航の背中に抱きついていた樹は顔を上げた。笑顔をどうにか作ると会釈する。

「初めまして。…航の個展、よろしくお願いします。」

挨拶をすると、再び視線を落とし、航の肩に顔を埋めた。スタッフはやや驚きつつも笑顔を絶やさない。

「実際に見ても綺麗ですね。…そうだ、1番好きな作品はどれですか?
モデルが選んだ作品をピックアップして飾っても面白いかもしれない」

スタッフの思いつきの案だったが、今まで航すら思いつきもしなかったことだった。飾るかどうかは別として、樹がどの作品を選ぶか気になる。僅かに振り向き、声をかけた。

「1番好きな作品、ある?」

樹はしばらく考え込むと顔を上げた。

「全て素晴らしいですが…強いて言えば、航の寝室に飾ってある絵です」

手短にそう言うと、もう話したくないと言わんばかりに航の背中に樹は顔を深く埋めてしまった。そして、深呼吸をし出した。スタッフは苦笑してしまう。

「ご自宅に飾ってらっしゃるんですね」
「…あぁ。初めて樹を描いた絵です。…初めて描いたから下手すぎて…誰にもお見せできないんですよ」
「それは…見てみたいですが…残念ですね」

航はスタッフに会釈するとスタジオを後にした。タクシーを手配し、帰路につく。歩き疲れたのか、樹は窓に寄りかかり、瞼を閉じていた。

航はぼんやりと流れる風景を眺め、先程のことを思い出していた。初めて描いた絵を樹が選んだことは航にとって意外だった。実際、樹をモデルに何度もデッサンの練習をして、初めて描きあげたという思い入れはあるものの、どうにも全体的にアンバランスで、上手いとはお世辞にも言えない作品だった。だから、樹に渡すことが出来ず、2人で初めてヤマザクラを見に行った時に描いた樹の絵を完成させて渡していた。
ただ、下手な絵でもどうしても捨てられず航が飾っているように、樹にも何かしら思い入れがあるのかもしれない。そういえば、樹が満面の笑顔で絵を褒めてくれたのはあの頃の絵だけだった。



そんなことを考えていたら、自宅へ到着した。

「樹、起きて」

樹は瞼を薄く開き、どうにか体を起こそうとするが体が思うように動いていない。そんな樹の手を引き、航が抱き上げた。樹は薄く笑い、手を航の首にまとわりつかせる。

航はそのまま家へと入る。一旦、リビングのソファに樹を下ろすと、煙草を取り出し一服する。煙草の煙が室内を漂う。その煙をぼんやりと眺め、これからどうするか考えなければいけないと思うのに、感情が拒否する。そして、昨日からの出来事が走馬灯のように頭の中をめぐる。

そんな時、サクラがどこからともなく現れて樹の膝の上に乗った。そして、甘えるように顔を擦り付けている。樹は気だるそうにしながらも、サクラを撫で始めた。

「あぁ、そうだ。樹に土産があったんだ」

サクラの瞳を見て航は思い出した。寝室に置いていたボストンバッグの奥底から取り出しリビングに戻る。

「樹に似合うと思うよ」

航の土産は、ペンダントトップに石が付いているペンダントだった。サクラの瞳と同じ、明るい青色に輝く石。

「海で拾って、すごく綺麗だったから。」

航が樹の首につけると、嬉しそうに樹はペンダントを手に取る。

「とても…綺麗…ですね…大変…嬉しい…」

どうにか聞き取れるほどの小さい声。言い終わらないうちにバランスを崩し、ソファへと倒れ込んだ。サクラは驚き、床へと逃げる。

「…樹?」

樹を抱き上げようと、航が手を伸ばした。しかし、樹に触れる前にその手が止まった。
樹の瞼は薄く開いたまま固まり、瞬きをしていなかった。手足も不自然に硬直している。呼吸もかろうじて確認できるほどに小さかった。

「樹!!!」

航は慌てて抱き上げ、何度も声をかけた。しかし樹が返事をすることはなかった。





樹が再び目覚めた時、まず視界に入ってきたのは白い天井だった。
状況を把握するため、ゆっくりと視線を泳がせるが、知らない場所。しかし、どこなのか分かった。見渡す限りに様々な医療機材や生物実験機器などが並べられた無機質な部屋。薬品の匂いが漂い、白衣を着た人々が歩く。ヒューマノイドのラボだった。

体中に様々なチューブや機材が取り付けられていた。それでも樹はどうにか起き上がろうとしたが、麻酔ガスがまだ僅かに残っているのか、思考と身体が連動していないかのように動きは緩慢でもたつく。

「おはよう、樹。気分はどう?」

聞きなれた、安心する声が耳に届く。自然と笑顔をつくり、樹は振り返った。

「自分の名前が分かるなら、…俺が誰か分かるよね?」
「…航、です」

航がラボのスタッフと共に歩み寄ってきた。航は微笑みつつ、樹の髪を優しく撫でる。

「どうせ分かることだから言うけど、樹は3ヶ月寝ていたよ」

その言葉で樹の顔から笑顔が無くなり、俯いた。

「…故障した、ということでしょうか」
「…まぁ、そういうことになるね」

ラボにいるということは、何かしら修理されたのだろうとは樹は察していたが、数日程度だと思っていた。それが3か月もの間稼働していなかったという事実に言葉を失う。航も言葉が見つからないのか、声をかけようとしない。2人の間に沈黙が流れる。
その間もラボのスタッフは手際よく、樹の全身についていた管などを取り外していく。全ての作業が終わるとスタッフはタブレットPCを航に差し出した。

「再起動後の数値も問題ありませんし、このままお持ち帰りいただいても構いません。」
「分かりました」

タブレットPCに航が承認作業をすると、ラボスタッフはすぐに去っていく。
2人きりになり、沈黙を破ったのは航だった。笑顔を作り、手を差し伸べる。

「樹、うちに帰ろう。おいで」
「…ありがとうございます」

航の手を樹が取ると、航は力強く握りしめ、引き上げた。上半身を起こした樹の体に傷などの変化がなく、航の頬が緩む。

「新しい服を買ったよ」

航はカバンから樹の服を取り出した。全て真新しく、服を手に取った樹は嬉しそうに薄く笑う。

「ありがとうございます」

すぐに樹は皺一つない新しい衣類に袖を通し始めた。航は自然と微笑む。

「…靴も買ったよ」

腰を下ろすと樹の足を手に取った。

「航、自分で履けます。」

航の意図に気づき、樹が足を引こうとした。しかし、航が足を握りしめ離さない。

「俺にさせてよ」

樹の足裏に傷がないか優しく触れて確認していた。航から微かに安堵のため息が漏れる。それからようやく片足ずつ靴を履かせた。

「さあ行こう」

樹の手を引き、立ち上がらせると、航は出口へと向かう。
数歩後ろを歩きながら、樹は口を開いた。確認せずにはいられなかった。

「航、私は…」
「やめよっか」

歩みを止めることもなく、振り返ることもなく、樹の言葉を明るい口調のまま遮る。まるで樹が何を言いたいのか分かっているような口ぶりだった。

「…はい。…ただ、…これから…」

航は足を止めて振り向き、樹の顔を覗き込む。

「今は、やめよう」

口元はやや緩んでいるものの、諭すような、低い声。樹は頷くしかなかった。再び歩き出した航に手を引かれながら黙って歩く。


それから電車と車を乗り継ぎ、自宅へと向かう。その間、航はぼんやりと風景を眺め、樹はじっと俯いていた。何も話そうとしない。ただ、航は樹の手をずっと握りしめたまま離そうとしなかったし、樹も手を離すことが怖くて握り続けていた。

数時間後に自宅に帰り着いた。寒い時期だったからまだ良かったものの、樹がいない間、庭の草木は放置されていたのだろう。枯れ葉がいたるところに散乱し、庭が管理されていないことがすぐに見てとれた。
その庭を横目に家に入ると、サクラが奥から現れた。サクラの出迎えに樹はうっすら微笑んだが、すぐに異変を感じた。今まであれば、すぐに樹の元へサクラは駆け寄るのに、樹を警戒し様子を伺っている。動かない。3ヶ月という時間の流れを感じ、樹は自然と下唇を噛む。

サクラにゆっくり近寄くと、樹は指を出した。警戒しながらも、何度か樹の指先を嗅ぐとようやく擦り寄ってきた。樹だと思い出したようだった。それでもまだ不安が残る樹は、恐る恐るサクラに触れた。すると、嫌がりもせず、サクラは甘えるように喉を鳴らし始める。存在を認められたことに安心し、そして安心するとサクラの毛並みの感触がより一層心地よく感じてしまい、何度も撫でてしまっていた。
その様子を見ていた航が声をかける。

「あぁ、そうだ。サクラに餌をあげて。」
「かしこまりました」
「…終わったら、俺の寝室に来て」
「…かしこまりました」

樹は柔らかな笑顔を見せる。しかし、内心は穏やかではなかった。これから大事な話があることは容易に想像できた。どうしても最悪な場合を想像してしまい、体が震える。それでも航が今後のことをどう考えているか知りたかった。

足早にペットフードを棚から取り出し与えると、サクラはすぐに食べ始めた。勢いよく食べるサクラに頬を緩め、優しく撫でる。しかし、それも一瞬で、早く航の考えを知りたいと気持ちが急いている樹は最後まで見届けることなく、すぐに寝室へ向かった。

「失礼します。」

樹が寝室に入ると、ベッドの上に座っていた航は笑顔で両手を差し出した。

「おいで」

航の目前まで歩み寄るが、そこで樹は止まってしまう。薄く笑ってはいるものの、目を伏せて動かない。

「…樹、おいで」

航が半ば強引に樹の手を引くと、倒れこむように腕の中に収まった。樹は慌てて上半身を持ち上げる。

「どうしたの?」

不思議そうな顔をしながらも航の口元は微微笑んでいる。樹は視線を逸らし俯いた。

「…あまり近づくと興奮してしまいますので」

航は一瞬驚いた表情を見せ、そして笑い出す。

「3ヶ月前の樹はワガママで、すぐに泣いて、俺の側にずっといたいって離れるの嫌がっていたのに。」
「…あの時は申し訳ございません」

消え入りそうなほど小さい声の樹。航は笑うと、再び樹の腕を引き寄せ、抱きしめる。
自制しようとしても、やはり、樹にとって航の腕の中の心地よさがたまらなかった。もう逆らうこともできず身を委ねてしまう。

「謝って欲しいわけじゃないよ。むしろ、…俺こそ…ごめん。
ワガママ言って泣き続けて、そうやって樹が警告音を出していたことに気づけなかった。」
「いえ、ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした」

樹にとって昨日のような3ヶ月前を思い出していた。何かがあったわけでもないのに、ただただ不安で怖くて航の近くにいたくて。そして航のそばにいるのに、それでも不安が止まらなくて。思い出すだけで樹の手が不安で震え、自然とその手で航のシャツを握りしめていた。
そんな樹を宥めるように、航は背中を優しく撫でる。

「こうやって樹にまた触れられるか不安で、ずっと寝られなかったよ。」

樹の背中を何度も撫でると、腕や肩を撫で始めた。樹という存在を確認するかのように。

「3ヶ月も樹に触れられないなんて初めてだから…本当に今日が待ち遠しかった」

髪を撫で、頬を撫でる。

「家に帰る途中も、こうやって抱きしめたくて…我慢するの大変だった」

唇を何度も撫でる。

「樹は意識なかったから、久しぶりって感覚はないのかな?」

航に触れられた場所から生まれる、気持ち良い刺激に樹の全身は包まれていた。そして、蓄積された気持ち良さはやがて快感に代わり、その快楽に酔ってしまう。頬を染め、呼吸が少し早くなり、シャツを握りしめる指にも力が入る。

「記憶はそうですが、…体は、久しぶりのせいか、…反応が早いです。とても…変な感覚です」
「…そう」

"変"という言葉に航の手が止まる。記憶と感覚がアンバランスなままでいることにより、樹の神経がまた傷つくことを恐れた。しかし航にはどうすれば良いか分からない。名残惜しそうに手が離れる。

航の手が離れたことに樹は気づいたものの、樹は自分のしがみつく指を振りほどけない。シャツ越しに感じる航の僅かな体温が心地よく、そしてシャツの襟首から漂う航の僅かな体臭に惹かれていたことは分かっていたが、体は正直で、誘惑に勝てなかった。もっと航を感じたいと体が叫んでいるようだった。
そんな樹に気づくことなく、どこか遠くを見るように航は話し始めた。

「気になるだろうから先に言っておくよ。樹が停止した要因が2つあって、そのうち1つは俺のせい。
…ラボの人に、俺、すごく注意されたよ。樹の扱い方がひどいって。」

樹の視線に気づき微笑みかけると、航の視線は再び宙を舞う。

「デッサンの時さ、いっつも泣かせていたでしょ。あと、最後まで、…セックスしなかったでしょ。
樹は愛玩タイプだから…あれが神経に相当な負荷をかけていたみたい。」

航は目を伏せ、重苦しい表情を見せた。

「傷つけたくないと言いながら、俺はずっと樹を傷つけ続けた。…本当にごめん」

樹は何度も首を横に振った。何か言いたげに口が僅かに動くが、言葉にならない。
そんな樹の背後では航の指が宙を舞っていた。躊躇った後、手のひらは空を切ってきつく握りしめられる。

「樹を失いたくないんだ。」

無理やり笑顔を作り、樹を見つめた。

「それでさ、罪滅ぼしでもあるけど、樹が望むことを何でもしたい。」

航は気まずさを誤魔化すためか、先程と打って変わって明るい口調で話す。

"失いたくない"という航の言葉は、樹にとって天にも昇る心地だった。"廃棄処理"という言葉がずっと頭から離れなかったから尚更だった。涙を必死に堪え、笑顔を作る。
しかし、愉悦に浸る間もなく、航の問いにどう答えることが最も良いのか悩む。樹の望みは以前から変わることなく決まってはいたが、その望みが身分不相応でおこがましいことは分かっていた。一瞬の間をおき、笑顔で航の目をまっすぐ見る。

「航の望みに沿うことが私の望みです」

航に喜んでもらえるはずだ、そう樹は思っていた。しかし、航の表情は沈み、寂しげに笑う。

「…そう言うかもしれないと思っていたよ。でも、その言葉に俺は甘えて、樹を傷つけていたんだよ」

稼働停止したことは事実だった。航の言葉を訂正する言葉が樹には見つからない。小さく首を横に振り、視線を逸らすことしかできなかった。
航は軽くため息をつくと、樹の顔を覗き込む。

「…俺に気を遣わなくていいから。樹がしたいこと、何かあるでしょ?
…例えば…その…セックス…でもいいけど。」

樹が目の前で稼働停止した時、これは悪い夢だと何度も叫んだし、両親が死んでから全く信じていなかった神にさえ樹を返して欲しいと願い続けた。それでも現実は変わらず、樹を抱えて駆け込んだラボでは「諦めた方がいい」と何度も言われ、ケースの中で眠る樹を見続けることしかできなかった。航は自分の未来に絶望し、何も手につかず、この5年間の自分を恨んだ。
だから、"画風の変化が怖い"や"樹がヒューマイド以上の存在になって溺れそうで怖い"なんて、どうでも良かった。むしろ、肉体関係をもつことで樹がずっとそばにいるのであれば、自分の絵が否定されようと、世間からなんと言われようと喜んで受け入れるつもりだった。

しかし、樹の表情は冴えること無く、ただ視線が揺らめく。もちろん樹からすれば航と繋がりたかった。何年も思い続けてきていたことだ。想像するだけで体が熱くなる。しかし、同時に別の様々な思いが浮かんでは消えていく。

「…分かりません」

下唇を噛んだ。そんな樹を見て、取り成すように航が笑顔を見せる。

「いきなり言われても困るよね…あぁ、そうだ」

胸ポケットから青い石のペンダントを取り出した。

「3ヶ月前のお土産。」

樹が停止する直前に渡したものだった。再び樹の首に飾る。

「覚えている?」
「はい。ありがとうございます。とても嬉しいです。」

樹は薄く笑い、ペンダントトップの石を手に取る。つられて航も微笑んでしまう。

「良かった」

航の手が無意識に樹の髪を撫でていた。しかし、我にかえり慌てて手を引く。

「…それじゃあ、明日までに考えておいてよ。…他にも話があるけど、…今日はもういいや。」

航が樹から離れようとした。しかし、樹の手が航のシャツから離れない。

「…樹?」
「私の望み、ですが、その…まだ…もう少し…一緒に…いたいです」
「いいよ」

屈託なく笑う航。

「ただ、さっきも言ったけど、ずっと寝れなかったんだ。だから今すごく眠くて。…少し寝ていい?」

樹が自宅に戻ってきたことにより緊張感が解け、航には強烈な睡魔が襲っていた。
樹は静かに首を縦に振る。

「良かった」

航は悪戯っぽく笑うと、樹の手を引き、ベッドに倒れ込んだ。驚いた樹は反射的に航の腕にしがみつくしかない。そのまま2人は音を立て、ベッドへ倒れ込んだ。仰向けに寝る航に樹が添い寝するように重なる。

「…あ、でも、樹、興奮しない?大丈夫?」

航の問いかけに、「自信がない」と樹は素直に答えるべきだろう。しかし、そう答えれば航が寝ないことは容易に想像できた。睡眠妨害したくはないという思いと、まだそばにいたい思いが樹の中で交錯していた。

…きっと上手く我慢できる

そう自分に言い聞かせ、航に薄く笑う。
樹の笑顔に航は軽く頷き、瞼を閉じた。樹が戻ってきた安心感からか、すぐに規則正しい呼吸が始まる。

樹は添い寝をしながら、触れるか触れないかの力で航の体を何度も撫でる。ゆっくりと肩から胸に撫で下ろし、円を描くように手の甲で胸を撫でると、胸から腹部へと撫で下ろす。飽きることはなく、何度も繰り返す。
繰り返すうちに、少しずつ、だが確実に樹の中で興奮が昂まる。歯止めがかからなくなる前に自室に戻り、自己処理して落ち着かせないといけないことは分かっていた。しかし止まらない。

静かに起き上がると、航の体に跨り、四つん這いになった。航が起きる気配はない。微かな寝息だけが聞こえる。後ろめたさからくる緊張で全身が震え、何度も躊躇うが、それでもこの3ヶ月で航がどう変化したか、少しでも知って自室に戻りたかった。
両手でゆっくりと優しく航の体に触れると、以前と変わらず、筋肉質の感触が布ごしに伝わってくる。ただ、腕に触れた瞬間、動きが止まった。

…細くなっている

この3ヶ月、あまり体を動かしていなかったのかもしれない。いや、きちんとした食事をとっていなかったのかもしれない。自分が壊れることなく、毎日食事を提供していれば少しは違ったかもしれない。樹は自分の脆さを悔やみ、目に涙が滲む。そのまま涙がこぼれそうになるが、航を起こすわけにはいかなかった。深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを必死に落ち着ける。

息が落ち着くと、ゆっくりと顔を航の体に近づけた。他に変化がないか、じっくりと見るが、手や顔に傷などはない。ただ、航の静かな吐息だけが耳に入ってくる。
少しだけ安堵し、ゆっくりと航の頬に触れた。そのまま自然と唇に触れる。航の柔らかい唇の感触、そして背徳感から樹の感情が昂る。

「航は変わらずお優しい方ですね。
…これからもずっと、死ぬまで、私を捨てずにおそばに置いていただけますか?」

小さく呟く。先ほどの航からの問いに樹は素直に答えることが出来なかった。しかし今は違う。深く眠る航を前にして、樹の思いが口から漏れてしまう。

感情の昂りは止まらず、ゆっくり顔を近づけた。もう少しで触れそうなほどの近さで止まる。航の呼吸が樹の顔にかかり、樹の呼吸と混じり合う。息の混じり合いから、航との口づけを思い出す。互いを求め合い、大事な存在だと確認するかのような、樹にとって幸せな一瞬。思い出すだけで興奮を覚え、頭の奥が熱くなる。

無意識に、唇を重ねるように顔を近づけた。しかし、あともう少しで触れそうな時、樹の動きが止まる。もし航が起きて気付いたら。今までの関係性をこの一瞬で壊してしまったら。そして、もしも自分が廃棄処分になったら。考えるだけで恐ろしかった。航が欲しい気持ちを必死に抑え、上半身を起こすと、自室まで戻れる平常心を保つよう深呼吸を繰り返した。"今まで通り"に戻るために。

「…ん…暑…い…」

突然響く航の声。樹は驚き、危うく声を上げそうになった。息をひそめ、身をすくめる。この状況の言い訳を必死に考える。
しかし、航の瞼は開くことはない。ただ、シャツの襟に手をかけ、強引に広げようとしていた。襟が詰まって寝苦しく、声を上げたようだった。航の指をかいくぐり、シャツのボタンを外した。慌てていたため、ボタンを多めに外してしまっていたが、その分襟ぐりが大きく広がった。息苦しさがなくなったため、航は再び、規則正しい寝息を立て始めた。

航が目を覚まさなかったことに安堵したものの、はだけたシャツの合間に見える、航の肌から目が離せない。樹にとって航の裸を見る機会なんて今までほとんど無かった。こんな機会はめったに無い。何年も待ち望んでいた状況に平常心はかき消えて、誘惑が樹を突き動かしていた。自然と息が荒くなる。

「…少し、見るだけだから」

自分に言い聞かせるように独り言を呟きながら、震える指で航のシャツのボタンを全て外し、はだけさせる。露わになった、細身だが筋肉質の体。胸は呼吸に合わせて規則正しく上下し、少し汗ばんでいる。樹からすれば、誘惑しているように見えた。自然と手が動く。

「…少し、触るだけだから」

恐る恐る、震える手で優しく触れる。筋肉の弾力は硬く、しかし若者らしく張りがあって肌触りは心地良い。汗がうっすらと光を反射していることも樹にとって魅力的だった。

…これ以上はダメだ。止まらなくなる。

そう分かっていながらも、衝動に樹は勝てなかった。

「…少し、嗅ぐだけだから」

自分に言い訳し、ゆっくりと航の胸に顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。シャツなど遮るものがなく、航の濃厚な匂いが樹の嗅覚を直撃した。重く深く頭の芯に響き、快感が膨れ始めた。下半身も疼き出し始める。

「…少しだけ」

肌の感触や弾力などを指先で感じながら、航の胸にゆっくりと唇を落とした。微かに唇へ伝わってく航の肌の感触、指先に伝わってくる航の体温。全てが愛しい。

「もう少しだけ…」

やめないといけないと分かっているつもりなのに止まらない。航の胸や腹部にゆっくりと何度も口付けを落とし続けた。唇に移る航の汗さえも樹の興奮材料になり、それは快感へと繋がっていく。そうやって、何度も繰り返すことで、樹の思考は快楽にどんどん侵されていき、やがて呆けたかのように顔は火照り、夢中になって口付けを繰り返していた。

少しずつ下半身へと下がっていき、樹の手が航のボトムスにかかる。一瞬躊躇うが、やはり誘惑に勝てなかった。

「見るだけ、それだけ。見たら終わり…」

自分に言い聞かせながら、震える指でベルトを外し、ゆっくりとボトムスを下ろす。航のペニスが現れると、震える手でゆっくりと触れた。初めて目にし、初めて触れることの興奮に加え、目の前にあることで航と繋がることを想像してしまう。何年もずっとずっと願っていたこと。息はさらに荒くなり、樹の口は閉じることはない。欲しくてたまらない。

「1回だけ…」

押し寄せる欲情に逆らえず、樹は航のペニスに震える唇で口付けをした。

「あと1回だけ…」

そう何度も呟き、何度も繰り返す。繰り返すうちに感覚は麻痺し、下半身の疼きがどんどん強くなる。ひと目でわかるほど腰が揺れ出した。

…欲しい。航が欲しい。

欲望がとどまることなく溢れ続け、もう航と繋がることしか考えられなかった。口付けと同時に吸うように舌を這わせていたが、やがて舌全体を使い、絡ませるようになっていた。丁寧に根元から先端までゆっくりと何度も舐め上げる。やがて航のペニスを口に含み、ゆっくりと顔を上下させ始めた。熱い吐息を口端から漏らし、腰の揺れがひと際大きくなる。
航の手足が動いたが、快感に支配され、欲望に忠実になってしまった樹には気づく余裕はなかった。



「ん…はぁ…」

体の異変に、航は深い眠りから覚めた。最初は何が起きている分からなかったが、股間にうずくまる樹、そして強い快感。すぐに悟った。快感に苛まれながらも、暴走したことによる樹の神経のダメージが気になる。が、今さら止めるつもりもなかった。

「…い…つき…」

声をかけるが、樹は夢中で気づかない。航は上半身を起こし、強引に樹の顔を持ち上げた。視線は焦点が定まらず、口は半開きにし、甘く喉を鳴らしている。

「樹!」

語気を強めて再度呼びかけると、ようやく瞳に理性の色が戻った。状況を把握した樹は途端に激しく動揺し、後退りすると土下座するように顔をベッドに伏せた。全身がガタガタと震えている。

「お許しください…!この罰は…どのようなことでも受けます!ですから、私の処分だけは…」

出来る限り、優しい声で航が問いただす。

「っ…どうして…さっき…言わなかったの」
「…申し訳ございません…お許しください…」

樹は謝罪の言葉を繰り返すばかり。航がため息をつく。

「遠慮した?…俺の言い方が…悪かったね」
「いえ、私の責任です…申し訳…」

樹の言葉を制するように、航は強引に上半身を持ち上げた。樹の目には涙を浮かんでいる。
怒っていないとでも言いたげに航は微笑むと、樹と唇を重ねた。そのまま唇を何度も甘噛みし、樹が口を薄く開くと舌を差し入れた。舌を舐め、歯列や口腔内を舐める。航との口付けに酔いしれ、気持ちよさそうに樹が喉を鳴らし始めると、航は唇を離した。物欲しげに見つめる樹の頬を優しく撫でる。

「服、脱いで」

樹の返事を聞かないまま、航は再び唇を重ねた。樹の後頭部に手を回し、より深く舌を差し込む。喉奥まで届きそうな快感に樹は嬉しそうに目を細めた。そして、もっと欲しくて堪らなかった。航に呼応し舌を絡めながらも、樹は慌ただしくシャツのボタンを外し脱ぎ捨てた。すぐさま、樹の滑らかな肌の上を航の両手が滑り出す。背筋や脇腹など、樹の感じやすい部分を集中的に刺激していた。樹は快感で体を震わせ、喉を鳴らす。

ただ、集中的に刺激されたことで意識が飛びそうになったのか、樹はたまらず頭を引いて唇を離してしまう。そのまま崩れるように航の胸に頭を預けてしまった。しかし、目の前には航の首筋。航の匂いが樹を追い詰めるようにさらに刺激してくる。樹の肌の上を滑る航の手も止まることはない。与え続けられる快感に何も考えられなくなった樹の嬌声が部屋に響き出す。

航の手が樹の臀部へと移る。ボトムスの隙間から指を差し入れると、臀部の割れ目を何度も往復し、刺激し続ける。一番触って欲しいところなのに、あと少しなのに、触ってくれないもどかしさ。樹の目は虚ろになり、口を閉じることなく喘ぎ続け、もっと快感が欲しいと腰を振る。

「樹、…早く…脱いで」
「あぁ…っんぅ…はっ…い…」

震える指でボトムスに指をかけると、一気に膝まで下ろした。臀部が露わになり、航の指はさらに割れ目に食い込む。より深く刺激し始めた。樹の足がガタガタと震え出すが、どうにか両足を前後に動かして脱ぎ捨てる。

「…わ…た…るぅ…」

名を呼ぶことで言いつけを守ったことを告げる。航は微笑むと、樹の体を引き寄せ、押し倒した。仰向けになった樹は潤んだ瞳で航を見上げる。

「わた…る…セックス…した…い…です」

何年も待ち焦がれたこの瞬間を逃したくない思いと、またいつ自分が停止するかもしれないという不安に押され、航が欲しい気持ちを素直に伝えた。そして自分の両膝を抱える。アナルが丸見えとなり、誘うかのようにひくついている。
航は頷くと、樹の腰を少し持ち上げ、自身のペニスを押し当てた。そのままゆっくりと、樹の足を押し広げるかのように前方へ体重をかけた。慣らしていなかったが、樹のアナルは抵抗なく飲み込んでいく。樹も、背を反らしながらも、歓喜するかのように全身を震わせた。そして、離れたくないと言わんばかりに両足を樹の腰へと回す。

航もまた気持ち良さに体を震わせ、荒い呼吸を繰り返していた。樹の髪を優しく撫で、優しく口付けすると、樹を抱きしめたまま腰をゆっくり動かし始めた。
ピストンするたびに、前立腺を擦られ、樹は喉を甘く鳴らす。ただ、下唇を噛み、できるだけ声を出さないように耐えていた。

「樹?…声…我慢…しないで」

なぜ声を殺しているか分からなかったが、航は樹に精神的負荷をかけたくなかった。腰の動きを止めることなく、再び口付けを落とす。そして、口を開けるよう、唇を舐めて促す。その誘いに樹は一瞬躊躇いつつも、唇を解いた。上擦った声と荒い呼吸が大きくなり、部屋に響く。

航は満足げに笑うと、深く口付けをした。少しでもより深く舌を差し入れる。しかし、それは僅かな時間だった。唇を離すと、樹の肩に顔を埋めた。そして、片方の手は樹の肩、もう片方の手は樹の背中に回し、抱きしめる。そのまま、腰の動きを少しずつ早めた。リズミカルに規則正しく肌がぶつかりあう音が響き出す。

それ以上に樹の嬌声が大きく、止まらない。下半身の快感が強くなったこともあるが、耳元で聞こえる航の熱い吐息が樹の頭の中で渦巻き、頭の芯をより熱くさせていた。航の吐息と興奮が伝わることで、樹はさらに興奮し、そして否応無く快感に溺れてしまう。溺れて、気が狂いそうになる。溺れたくないのか、流されたくないのか。それとも、もっと溺れたいのか。航に強く抱きつき、背中に指を立てた。嬌声がさらに大きくなる。

そんな樹を落ち着かせるかのように、突き上げながらも、航は樹の肩や背中を撫で続け、気まぐれに顔を持ち上げては深く口付けをし、首筋や鎖骨に唇を落とす。

「気持ち…いい?」

耳元で囁かれる航の声と吹き込まれる航の熱い吐息。ゾクゾクとした快感が樹の耳から脳内を駆け巡る。喘ぎながら、樹は何度も大きく頷く。全身が快楽と喜びで満ちていく。

「…良かった…樹…今まで…ごめん…」

樹を抱きしめる航の腕に力が入る。

「…っあん…よし…と…っん…おね…がい…です…んぅ…
もっと…乱暴に…あぁん…私を…ただの…物の…ように…っやぁっ…扱って…くだ…
んあっ勘…違いっ…ぁあっ…するっ…」

樹の言葉で、航の動きが突然緩慢になった。顔を持ち上げ、樹の目を捉える。

「…んっ…勘違いって…はぁ…何?」

樹は目を大きく見開くと、顔を背けた。視線が揺らぎ、一瞬、冷静さが瞳に宿る。

「…っやぁ…間違え…っはぁ…ました…あぁ…どうか…お忘れ…ください」

樹の望みを航は全て受け入れるつもりだった。しかし、発言を取り消し、無かったことにしたい樹の頼みを聞き入れるつもりはなかった。もし航にも考えつかない思いを持ち、そしてそれが原因で再び稼働停止のようなことになることは避けたかった。樹の顎を持つと、強引に視線を合わせた。

「…何?…言って…」

樹の視線は左右に揺らめく。航には言い訳を探しているようにしか見えなかった。

「樹…言って…早く…」

語気が強くなり、動きはより緩慢となる。樹は観念したかのように目を伏せた。航にしがみつく指に力が入る。

「…これからも…私の…ことを…はぁっ…大切に…していただける…んっ…のではないかと…思って…しまいます」

熱い吐息の中、航は安堵のため息をつく。

「なんだ…そういう…こと…」

樹の首に再び顔を埋め、抱きしめた。緩慢だった腰の動きが再び早くなる。ただ、先ほどとは違い、より奥深くへと、抉るかのように、腰を強く打ちつける。樹の中でも再び強い快楽が生まれ始める。

「樹、…安心していいよ。…それ、…勘違いじゃないから」

樹の耳元で囁く。

「はぁ…俺が死ぬ時…樹に…看取ってもらう…つもりだから。だから、…それまで…ずっと大事にするよ」

航に突き上げられ、快感を味わいながらも樹は大きく目を見開いた。涙が溢れる。

「…んぅ…ありがとう…ぁあっ…ございます」

航に抱きつく腕が震える。そのことに気づいた航は微かに口元を緩ませた。
樹の足をさらに押し広げると、緩急つけながら樹をさらに深く突き上げ始めた。まるで少しでもより密着し、一つになりたいかのようだった。呼応するように樹は上擦った声は大きくなり、2人で快楽を貪る。言葉もなく、ただ互いを求め合う。やがて、航は絶頂を迎えようとしていた。

「…はぁっ…俺、…もう…イキたいっ…いいよね?」

甘く喉を鳴らしながらも樹は何度も小さく頷き、航の腰に絡みつく足にも力が入る。樹の髪を力強く撫でると、航は腰のピストンするスピードを早くした。

「樹、…キス…しようよ」

荒い呼吸を繰り返しながらも樹に笑顔を見せる。つられるように樹も笑顔を僅かに見せ、航の顔に両手を添えた。そして、互いの唇を飲み込むかのように重ねた。そのまま舌を舐め合い、互いの荒い呼吸や唾液が混じり合う。共に快楽を貪ることで、2人の快楽も混じり合っているように思えた。もっと1つになりたくて、離れられないよう、航の首に樹はきつく抱きついた。

そのまま航は絶頂に達した。何度も腰を震わせて、樹の中に放つ。合わせるかのように、航は樹のペニスを手の平に包みピストンしたり、先端を指で刺激する。その刺激をキッカケに、樹は腰を震わせ達したようだった。樹の喉から上擦った声が漏れる。

ただ、2人とも絶頂に達する時も、そして達したあとも、深い口付けをやめようとしなかった。樹の腕も航の首に抱きついたまま離れない。息継ぐ間を惜しみ、何度も唇を重ね、何度も舌を舐め合い、何度も舌を絡ませる。互いを求め合うかのように喉を鳴らし、まるで離ればなれになったら生きていけないかのようだった。

互いの息が落ち着く頃。航は樹の顎を持ち、引き離した。樹は抵抗しないものの、名残惜しそうな表情をし、抱きついた腕を解こうともしない。口も半開きのまま、舌が見え隠れする。
まだ快感に酔っている樹に航が微笑む。

「樹、一緒に風呂入ろう」

航の言葉に黙って頷くと、樹は航により一層抱きついた。航は苦笑しつつ、黙ってそのまま抱き上げ、バスルームに向かう。



バスルーム自体はそこまで広くはなかったが、大きなガラス窓があり、山並みや空を入浴しながら眺めることができる。また、バスタブは3~4人が同時に入れるほどの大きさで、1人であれば足を伸ばしてゆったりと入浴できる広さがある。窓からの眺望とバスタブの広さで、開放感を感じることが出来、何か考え事をする時にうってつけだった。そのため、航にとってバスルームはお気に入りの場所の一つだった。
バスタブの中、航がぼんやりと煙草を燻らせていると、体を洗い終わった樹が近寄ってきた。

「失礼します」

バスタブにゆっくりと入ってきたが、航が座っている場所とは正反対の場所に座ろうとした。途端、航が笑い出す。

「樹、どうしたの。さっきまで俺にべったりだったのに」
「…先ほどは…申し訳ございませんでした」

バスルームまで樹を抱き抱えてきたのは良かったものの、航からなかなか離れようとせず、なだめすかした経緯があった。ようやく快楽の酔いが覚めたようで、恥ずかしそうに顔を背ける。

「おいで」

煙草を灰皿に置き、航が手を差し伸べた。

「…かしこまりました」

強張った笑顔で戸惑いがちに近寄ってきた樹の手を引き、航は腕の中へと誘導した。樹は航に背を預けるように座る。

「樹が停止した、もう1つの理由、だけどさ。…樹は前の持ち主、覚えてる?」

樹の体は一瞬硬直する。

「…以前の記憶はあまり思い出せません」
「そっか。」

航は小さく安堵のため息をつく。

「今回、分かったことだけど、前の持ち主は樹を随分と長く保有していたみたいなんだ。
だから…樹が動ける時間はかなり少ないみたい」

樹は目を伏せ、両手を握りしめる。

「他のヒューマノイドと比べて、稼働時間が残り少ないことは聞いていました」
「初めて会った時、そう言っていたよね。
…ただ、樹は初期型だから不確定要素が多すぎて、いつ止まるかラボの人にも分からないみたい。
1ヶ月後なのか、 数年後なのか」

思っていた以上に短く、樹の目に涙が滲む。

「…1ヶ月、ですか。」
「そう。停止した理由の1つだろうって言われた。」

突然、航が明るく笑いだす。

「そうそう。いつまで動けるか分からないから、樹は安かったみたいだよ。
だから、叔父さんが購入できた唯一のヒューマノイドみたいだけど…」

航は樹を強く抱きしめ、樹の肩に顔を埋める。

「皮肉だね。残り時間が僅かじゃなければ、こうやって樹とは出会えなかった。
…出会えて本当に良かった。」

樹も薄く笑い、航の手にすがりついた。

「ありがとうございます…私も航に出会えて幸せです」

その言葉に航は微笑む。誰が主人でもそう思うようにプログラミングされているのかもしれないが、それでも航にとっては嬉しかった。重ねられた樹の手を取った。

「それでさ、どうやったら動ける時間の延ばせるか調べたんだ。…でも今の技術では、無理みたい。」
「…はい、…覚悟しています」

その言葉を聞き、航の顔から笑顔が消えた。樹の顔を覗きこむ。

「俺は嫌だよ。樹を失いたくない。…樹はどう思っているの?」

航の真っ直ぐな瞳から樹は目をそらすことが出来ない。

「…私も…できれば…航の側にずっといたいです」

樹の瞳から涙が溢れる。稼働停止の不安もあったが、それよりも航の気持ちが嬉しかった。
航の顔に再び笑顔が浮かぶ。

「良かった。…今は無理だけど、未来はどうなるか分からないだろ?
叔父さんの知り合いに、ヒューマノイドの寿命を研究をしている人がいるんだ。
その人に樹のことを相談しようと思っている。」

しかし、突然、航の顔から笑顔が消えた。樹の手を強く握りしめる。

「それでさ、頼みというか、絶対にやって欲しいことだけど、
…延命方法が見つかるまで、樹の起きている時間を減らしたいんだ」

航の提案に樹は驚き、振り返った。体液を低温状態にして保管するなど、確かに稼働時間を意図的に変える方法はあった。しかし樹は喜べなかった。

「航のお気持ちはとても有難いのですが、…ご迷惑をかけることはできません。」

維持費などが高いうえに、航の世話をしないヒューマノイドに存在意義はないと樹は感じていた。

「高額な費用をかけていただくほど私に価値はありません。…お気持ちだけいただきたいです」

航に向かって頭を下げようとした。しかし、樹の肩を航が掴み、止めた。

「樹、さっき言ったよね?俺の側にいたいって。あれは嘘?」
「嘘ではありません」
「…それなら、どうして何もしないうちに諦めるんだよ!!!」

つい声を荒げてしまう。バスルーム内で声が反響した。気まずそうに航の視線が揺らぐ。

「…大声出してごめん。…でも樹は俺の気持ちを考えてないよね?
自分に価値がないと言うけどさ、…さっきもベッドで言ったけど、…俺は樹に看取って欲しいと思っているよ。
俺には樹が必要だけど、俺の希望を少しは叶えようとも思えない?」

樹は何も言えず俯いてしまう。

「10年後20年後、俺が泣いていたら一緒に泣いてもくれないし、慰めてもくれない?
嬉しいことがあっても一緒に笑ってくれない?
…自分に価値がないって言うなら、俺のそばにいるのは誰でもいいってこと?」

樹の呼吸がどんどん荒くなっていく。自分がいない航の未来を想像するだけで辛かった。

「…どうしても嫌なら…樹に無理強いをして傷つけたくないから…それじゃあ…俺が樹を看取るよ」

とうとうたまらず、声を上げてボロボロに樹が泣き出した。航の優しさ、稼働停止することへの不安や悲しみ、そして航の側にい続けたい欲求、いろんな感情が混ざり合い、樹は自分の感情をコントロール出来なかった。どうにか泣き止もうとするが、涙が止まらず両手で顔を覆う。

ここまで泣く樹を見ることは航にとって初めてだった。どうすれば良いか分からず戸惑うが、結局、普段通りにすることしか思いつかなかった。

「ごめん」

航は樹を引き寄せ抱きしめた。あやすように何度も背中を軽く叩く。

「いろいろ言い過ぎたと思っている。…でも、俺の本当の気持ちだよ」

航の優しい語り口調に樹の感情は少しずつ落ち着く。恐る恐る顔を上げた。

「ありがとうございます。…航と…出来る限り長く…一緒にいたいです」

航は笑みを浮かべる。

「…うん。…嫌になったら止めればいいし。やってみよう」

樹は静かに頷いた。樹の瞳にまだ涙が滲んでいるが、口元は微笑んでいる。

「樹、ありがとう。…そして、ごめん。」

樹の涙を指でふき取り、宥めるように軽く口付けをした。





それから10年後。

その日は樹が目覚める日だった。自宅に設置した冷蔵保存ケース中で樹は眠りについている。そのケースの横では専門スタッフが立ち上げ準備をしていた。タッチパネルで計器を確認したり、入力作業をしているが、航にはどのような作業をしているか何一つ分からない。ただ、後方で静かに見守っている。

もう何回も見てきた光景だったが、それでも待ち遠しい。焦れる気持ちを抑えて眺めていた。やがてケースのドアがゆっくりと開く。ひんやりとした空気がケースから流れ出し、航の足元を冷やした。ドアが完全に開くと、様々なチューブや機材が取り付けられた樹を確認できると同時に航の鼓動が跳ねる。樹の胸も僅かに上下に動き、生存していることが分かる。専門スタッフは手際よくチューブ類を外していき、最後に口元を覆っていた麻酔マスクが外された。

「数値類に問題はありません。しばらくしたら目覚めます。こちらにサインを」

事務的な説明の後、スタッフから手渡されたタブレットPCに航は手慣れた様子で認証作業を行った。

「それでは、明日、また伺います」
「分かりました」

専門スタッフは早々に退出した。部屋には航と寝ている樹のみ。航は薄い毛布を準備し、樹の目覚めを待った。しかし、自然に目覚めるまで待とうと思うものの、つい樹に手が伸びてしまう。久しぶりに触れる緊張と興奮が入り混じり、指が震える。
優しく樹の頬に触れると、肌はひんやりと冷たかったが、少しずつ血色が戻ってきているように見て取れた。航は口元を緩め、同じように血色が戻ってきている樹の唇に触れた。柔らかく、ずっと触っていても飽きない。つい弄んでしまう。その刺激がキッカケになったのか、樹がゆっくりと瞼を開いた。反射的に航の指が離れる。

「…ん」

状況を把握しようとしているのか、樹の視線が左右に揺れ、そして瞳が航を捉えた。視線が絡み合う。
航はわざとらしいほどの笑顔を見せた。

「おはよう、眠り姫。…じゃなくて、眠り王子か。」

明るい口調で、茶化すように声をかける。しかし、まだ思考回路が回らないのか、樹はぎこちない笑顔を見せるだけだった。

「おはようございます。…あの、今日は…」
「…1年ぶりだよ…今まで通り、変わらない。」

樹の冷蔵保存は、当初1ヶ月~数ヶ月サイクルを予定していた。数年以内には、ヒューマノイドの延命に関する研究成果が何かしら出る予測だったからだ。しかし、ヒューマノイドの寿命を延ばすことは人間へ危害を及ぼす可能性があると問題視され、研究開始数ヶ月後にはヒューマノイド延命の研究を国から実質的に凍結されていた。そのため、残された方法は稼働停止期間を延長することでの延命しかなかった。航は悩み、そして決めた一時稼働のサイクルは1年に1回。それが航の我慢出来るギリギリの期間だった。

ただ、その事実を知った時、樹は即時での稼働停止を強く求めて泣き叫んだ。自分に存在価値はないと。
それでもどうにか説得して冷蔵保存の眠りにつかせても、一時稼働するたびに泣き、航はなだめすかしていた。しかし何年も繰り返すうちに、樹は自分の中で折り合いをつけたのか、諦めたのか。近年は何も言わなくなっていた。

10年目のその日も樹は泣くことはなかった。一瞬視線を落とすが、航に視線を戻すと笑顔を作る。

「誕生日、おめでとうございます」
「…ありがとう」

一時稼働のサイクル期間を決めた時、誕生日が近かったため、"分かりやすい"と深く考えずに航の誕生日を一時稼働の日にしていた。数年後に後悔することになったが、今さら変更する気にもなれなかった。
そのうえ30歳となり、老いを知らない樹とは身体的な差がどんどん開いていく。正直、歳をとることへの嬉しさは少なかった。しかし、それでも。樹と言葉を交わし、祝ってもらえることはやはり嬉しかった。

樹は起き上がって外に出ようとする。しかし、薬がまだ残っているのか、筋肉が強張っているのか、動きがぎこちない。

「慌てなくても良いよ」

微笑みつつ、手伝おうと腕を伸ばそうとした時。航よりも早く、樹の片手が航に向かって伸びていた。今にも泣きそうな顔をして。まるで助けを求めるように。

衝動的に航の動きは機敏になり、すぐさま樹の手を取った。そして、力任せに引き寄せて抱きしめる。樹の存在を確かめ、自分の存在を伝えるかのように。

「樹にとって、1年前は昨日のような感覚だろうから、冷静になろうって毎年思うのにダメだな…」

航は自嘲的に笑いながら、抱きしめる腕に力を込める。この1年で体験した、嬉しいことや悲しかったこと、寂しかったこと、その他にも樹に伝えたいことを色々と考えていたのに言葉に出来ない。ただ嬉しい。触れることが出来、他愛のない言葉を交わせることが嬉しかった。

航は樹の全身をゆっくりと確かめるように撫でる。何も変わらない、滑らかな肌。いつまでも触っていたい。航がきつく抱きしめるあまり、樹が苦しげな声を上げたが止めることができない。
ただ、きつく抱きしめると、樹の肌に残っている冷たさが航にも伝わってくる。その冷たさから、泣き叫ぶ樹、そして己の意志の弱さがフラッシュバックし、罪悪感を感じてしまっていた。自然と腕が緩み、手の動きが止まる。

「ごめん」

航は小さく呟く。自分のエゴで、無意味に樹を延命しているのではないかと自己嫌悪することもあった。会えない辛さから、「ただのヒューマノイドだ」と自暴自棄になり、樹のことを忘れようと、距離を置いたことは何度もあった。

しかし距離を置いても、一緒に過ごした日々を毎日のように思い出し、情が冷めることはなく、忘れることも出来ず、最後は樹を失うことを恐れ、結局は戻ってきてしまっていた。

そうやって戻ってきても、眠り続ける樹は何も変わらない。眠り続ける樹を見て、泣き叫ぶ姿を思い出し、航の思いは揺れる。冷蔵保存などせずに、ひと夏の花火のように、樹が停止するまで思う存分好きなように過ごしたいとも思ってしまう。

それでも、延命技術がいつか出来ることを信じて、自分の人生に少しでも長く樹を付き合わせたくて、己のエゴだとしても押し通すしかないと自分に言い聞かせ続けていた。

いろんな思いが溢れかえり、涙がこぼれそうだった。樹の肩に顔を押し付け堪える。

「…航?」

樹は航の背中に手を回し、ゆっくりと撫でた。航にとって心地良い感触、しかしその感触で我に返る。軽く頭を振ると、樹の背中と腰に手を回し、ケースから抱き上げた。そのまま床へと座り、毛布を肩からかける。

「ありがとうございます」

薄く笑う樹。そして毛布の端を掴んで引き寄せると体を温める。ただ、樹の視線は航から離れることはなく、顔や体の隅々を観察するように泳いでいた。航は寂しげに笑う。

「樹、いいよ」
「…ありがとうございます」

樹の震える指が航の胸をゆっくりと撫でる。そのまま指は肩に移り、腕を撫で、そして足に触れる。

樹は目覚めるたびに、航の肉体的変化を確認することが習慣になっていた。自分がいない間に航がどう変化したのか、些細なことでも見落としたくないようで、真剣な眼差しで航の体に触れて確認していた。
そして、そんな樹を見ていると航は再び罪悪感を感じてしまう。自分の気持ちを誤魔化すように微笑むしかなかった。その航の顔を樹の指が撫でる。

「…顔が大人びましたね。それに、ずいぶんと体を鍛えられて…」

樹が寂しげな笑みを浮かべた。年を追うごとに、航の筋肉は鍛え上げられ、服の上から触っても分かるほどだった。

「…あぁ、樹とどんどん差が開いて衰えていくから。釣り合うように、少しでも鍛えておかないと。」

冗談と分かるように、明るい口調で航は言ったつもりだった。しかし、樹の顔は途端に暗くなる。目を伏せ唇を噛み締めたかと思うと、強い視線を航に向けた。

「私は…!」
「樹、言わなくていいから。分かってるよ。」

樹の言葉を遮ると、髪を優しく撫でる。老いを気にしないことは分かっていた。

「俺の自己満足だから。」

…それに、俺のエゴに付き合わせているんだし。

そう言おうとしてやめた。再び目を伏せ、寂しげな顔を見せる樹が目に入ったからだ。
航の衰えを気にしないが、歳を重ねる日々を共に過ごしたい。その樹の気持ちは伝わっていたし、だからこそ、少しでもその時間を埋めたくて、目覚めてすぐに航の体を触れて確認行為をしているということも理解していた。そして、それでもまだ物足りていないことも知っていた。
航は小さくため息をつくと立ち上がり、樹に手を差し伸べる。

「樹、おいで」

樹の気持ちにわざと気づかないふりをして、出来る限り明るい口調で言葉をかけた。樹もぎこちないながら笑顔を見せて、航の手を取って立ち上がる。

10年間何も変わっていない家の中、樹の手を引いて航は廊下を歩く。ただ、まだ足の筋肉が強張っているのか、樹の足取りはやや重い。樹を気遣うように、航の歩調はゆっくりだった。

「…航、サクラはどこですか?」

いつもだったら、様子を窺うようにサクラが樹へ近寄ってきていた。それなのにまだ姿を見せていない。そう訝しむ樹も無理はない。航は一瞬、樹に視線を投げると再び前方へ視線を戻す。

「…あとで会えるよ。」

そう言い終わると同時に辿り着いた部屋には、いくつものキャンバスが壁にかけられ、埋め尽くされていた。壁にかけられない絵は、立てかけるように床に置かれている。
部屋に入るなり樹の表情は明るくなる。手身近な絵から一つ一つ大事そうに見ていく。そんな樹を見て航は安堵のため息をついた。

「気に入ってくれるといいけど。」

樹の横に立ち、航は制作過程の話やその時の思いなどを語る。樹はキャンバスを眺めながらも、航の言葉に笑ったり驚いたり恥ずかしそうにしながら聴き入った。

全てのキャンパスには樹が描かれていた。樹と触れ合うことが出来ない苛立ちや寂しさ、悲しさ、そして僅かな希望など、全ての感情を昇華し、創造へと転換して絵を描くようになっていた。
当然10年前とは画風がガラリと変わる。以前は重苦しいほどリアルさを追求していたが、全ての絵が空想になったためか、一転してリアリティは無くなり、抽象的なイメージが強くなった。しかし、キャンバスの中は常に寂しさを帯び、そして樹はどこか瑞々しさがあった。描かれた空想の世界の中で絶妙なバランスを保ち、不思議な魅力を放っていた。

「航の絵は素晴らしい…」

独り言を呟く樹の顔には、満面の笑みが戻って来ていた。どのキャンパスを眺めてもいつまでも変わることなく嬉しそうだった。その横顔が綺麗で、愛おしくて。航の手が樹の頬を撫でる。

「絵を描き出してからしばらくはなかなか褒めてくれなかったけど、今は褒めてくれるから嬉しいよ。
やっと樹に満足してもらえる絵が描けるようになったのだろうな。」
「そんなつもりは…以前から…」

慌てて釈明しようとする樹の口を航の指が優しく塞ぐ。航の顔には笑みが浮かんでいた。

「いいんだよ。…褒めてくれて、ありがとう。」

恐縮するように樹は小さく首を振ったが、微かに口元は緩んでいる。
航は目を細め、樹をゆっくりと抱きしめた。耳元に口を寄せる。

「この1年にあったこと全てを共有できないけど…。
この1年も、俺がずっと樹のことを考えていたって分かるよね?
そうじゃないと、これだけの絵を描けないよ。」

樹の手が航のシャツに絡みつく。そして、小刻みに何度も首を縦に振る。航は再び安堵のため息をつくと、面白がるように囁いた。

「ご満足ですか?眠り王子」
「また、そのような言い方をされて…」

諌めるような独り言を呟きつつも樹の首が縦に揺れた。それでも、航の中には一抹の不安があった。樹が少しでも不安を残していれば、その不安は火種として燻り続ける。気がかりで、樹の顎を持ち上げた。

すると、目に涙を滲ませながらも、樹は笑顔を見せる。いつもの涼しげな笑顔。航の中から不安が無くなり、笑みがこぼれた。そのまま航の指が樹の唇に触れようとしたが、突然止まる。所在なさげに微かに動くと、頬を撫でた。

「俺、ちょっと一服するから、ゆっくり見てて」
「…かしこまりました」

樹の手が名残惜しそうに航のシャツから手が離れた。航は胸ポケットから煙草を取り出すと、部屋の真ん中に鎮座するソファへ深く座る。
そんな航を見て樹は少し寂しそうな表情を見せたが、再びキャンパスへと視線を戻した。意識もキャンバスへと移り、しばらくすると表情を明るくして眺め始めた。

航は何度目かの、いや、違う意味での安堵のため息をつく。1年ぶりのためか、樹の潤んだ瞳を見ただけでずいぶんと欲情していた。無意識に樹に口付けしようとしていた。危なかった。
いつもだったら、このままベッドの上で1日過ごしても良かったが、今回は樹にどうしても報告をしなければいけないことがあった。気は重くなるが、それでも言わなければいけない。そのためにも自分の情欲を抑えるため、煙草を深く吸って肺を満たす。そしてぼんやりと天井を見つめる。

煙草1本吸い終わる頃にはずいぶんと落ち着いていた。煙草の煙を目で追い、そして樹を目で探すと、しゃがみ込み、一つの絵を見続けていた。それはラフに近い絵で、小さな浜辺に座る樹の絵だった。

「その絵、気に入った?」

ゆっくり立ち上がり近づきながら声をかけるが、樹は絵から目を離さない。

「えぇ。…なんだか懐かしいです…不思議です」
「…そう。夢に出てきたんだよね…」

樹と並ぶように横に座る。

「その絵が今回一番高く売れるかもしれないな」

10年近く前、樹の描かれた絵を個展で販売した際、購入者が偶然にも著名人だったことがあった。そこからトントン拍子に航の知名度は上がり、今では絵画の世界では多くの人が知るような存在になっていた。結果、航の絵は高額で売れるようになり、皮肉なことに画風が変わったことで売れっ子画家になっていた。

そして、1年かけて描いた絵のほぼ全てを売るようになっていた。絵を売って得た金銭は最低限の生活費と、樹の延命費用に充てられていた。この生活は続き、売り払う前に樹に見せることが習慣になっていた。

「なぜか樹が気に入った絵は毎年高く売れるんだよ」

今回も樹が再び眠りに入ったあとに売る算段は整っていた。樹は複雑な表情を浮かべながらも何も言わない。今まで散々話し合って納得したことだったからだ。名残惜しそうにキャンパスの縁を撫でる。

「あのさ、"高く売れる"で思い出したけど、樹に報告があるんだ」
「はい」

樹の視線が航に向けられる。航も視線を合わせて微笑む。

「大したことじゃないけどさ。…結婚した」

突然の告白に樹の目に動揺の色が浮かぶ。視線は泳ぎ、でもそんな顔を見られたくないのか、慌てて俯いた。

「おめでとう…ございます…」

樹の体が小さく震えている。ある程度は予想していた反応だったが、それでもやはり航の心の奥が痛む。だからこそ、殊更明るい口調で話を続けた。

「だから大したことじゃないって。俺と樹の生活は何にも変わらないから」

樹を落ち着かせるため、肩を抱き寄せ、何度も優しく撫でる。

「結婚相手にとって俺の名前が必要だったんだ。
…俺も結婚することで、絵がさらに高く売れることが分かっていたから。
ギブアンドテイク、の契約結婚だよ」

ビジネスライクだと、あっけらかんと話し続ける。

「いつ延命の研究が可能になるか分からないだろ?その時のために出来る限り資金を貯めておきたいんだ」

航はヒューマノイドの延命技術の開発を諦めていなかった。世論の情勢が変わり、研究の許可が公に認められるようになれば、いつでもすぐに研究開発へ費やせるように、優先的に樹に適用されるように、少しでも貯蓄を増やしたかった。
しかし、その話をしても樹の顔は冴えない。

「…私のために…そこまでしていただかなくても…」

今にも泣きそうな樹の声に航は内心動揺する。理由を話せば、すぐに理解し受け入れるだろうと思っていたからだ。しかし、言うタイミングが悪かったかもしれないが、もう無かったことには出来ない。航は大袈裟に笑う。

「何言ってるんだよ」

強引に樹を腕の中に抱き寄せた。

「俺にとって、樹はそこまでしても苦にならない存在だよ。…まだ気付いていなかった?」

安心させようと明るく言い放つ。そして、樹の顔を持ち上げ視線を合わせる。

「気づいている?もう俺の人生の半分は樹のことばかり考えていることになるんだよ。」

冗談めかして笑う航だったが、樹は視線を落とし、目に見えるほど体が震え始めた。

「そんな…航…私には…もったいない…」

樹の声も震えている。その震えを抑えるため、いや、震えを吸収するかのように、航がきつく抱きしめる。

「突然どうした?何が怖くなった?」
「私のような者に…」

ヒューマノイドの自分には不釣り合いな、身に余る行為だと言葉を続けそうだった。そしてその流れで謝ることは容易に想像できた。あやすように航の手が樹の背中を何度も軽く叩く。

「謝らないでよ。樹が自分を否定して、俺に謝ったら、俺が否定されているみたいだ」

出来る限り優しい口調で語りかけた。
樹は慌てて口をつぐみ、自分を卑下する言葉を継ぐことをやめた。体の震えを抑えるため規則的な呼吸を繰り返す。そして、樹が落ち着くまで航はただ黙って、背中を軽く叩き続けた。

「…樹、落ち着いた?」

航の声に反応するかのように、恐る恐る航の背中に樹の手が回る。

「航はお優しい方ですね…。ありがとうございます」

何度も何度も感謝の言葉を呟く樹。その樹の髪を航は撫で続ける。

「…うん。…これからも、だよ。安心して。」

樹の手が一際、力強く握りしめられた。意を決して顔を上げ、航と視線を合わせる。

「私は幸せです」
「…俺もだよ」

樹は自然と瞼を閉じ、口は半開きになっていた。航も自然に、無意識に、樹の顎に触れようとした。
しかし、航は我にかえり、再びグッと堪えた。1年ぶりになる樹の柔らかい唇、誘うように絡まってくる舌を味わってしまえば、己を止めることができず、このまま押し倒すことは確実だった。航の手は宙を舞うと、樹の肩を大袈裟に叩く。

「楽しみは夜にとっておこう」

そう笑うしかなった。自分にも言い聞かせるように。しかし、樹の手は航のシャツから離れない。むしろさらに深く食い込む。

「航…ベッドに行きませんか?…デッサンしていただきたいです」

おそらく自分の存在価値を確かめたいということもあるのだろう。樹の気持ちが航にも分からなくはなかった。

「樹はワガママだな。…俺、甘やかしすぎた?」

そうやって誤魔化すことが精一杯だった。樹の背中を軽く叩きながら笑い飛ばすと、樹の手は静かに離れた。しかし、俯いた顔には辛そうな表情が浮かんでいる。涙を堪えているようだった。
自分のエゴに付き合わさせている、その負い目が見過ごすことを許さなかった。

「…やっぱり甘やかしちゃうな」

困ったように笑うと、樹の顎に指を添えて持ち上げた。

「軽く、ね」

樹の唇を指でなぞると、ゆっくり唇を重ねた。しかし、柔らかい感触が伝わった瞬間、慌てて唇を離した。思っていた以上に早く、体の芯が熱くなりそうだったからだ。樹の顔を見ると、物欲しげそうだが、それでも口元が緩み、嬉しそうな表情を見せている。航は安堵し、笑顔を見せた。

「今日は行きたいところがあるんだ。…いい?」
「はい」

樹は笑顔で頷いた。



それから数時間後。2人はヤマザクラの木の下にいた。ただ、季節外れのため、花は咲いていない。紅葉した枝が風に揺れていた。

「樹は久しぶりだよね」
「…はい」

久しぶりではあったが、老木ながら生命力を感じさせる枝振りは相変わらずで見事だった。樹は静かに樹木に触れ、目を閉じる。木漏れ日や枝を揺らすように吹く風、微かに聞こえる沢の流水音、遠くから聞こえる鳥の声に包まれる。穏やかな時間のようにも思えたが、見守っていた航が口を開く。

「もう薄々気づいていると思うけどさ、…サクラ死んだよ。…半年前に」

一瞬大きく目を見開くと樹は項垂れた。何も言葉を発しない。
航は静かに言葉を続ける。

「いきなりいなくなってさ、ようやく見つけた時はもう息もほとんどしてなくて。
樹を起こしたかったけど間に合わなかった。…ごめん」

項垂れたまま樹が首を横に振る。

「もうだいぶ…長生きしていましたから。…寿命だったと思います」

拾った時から15年。大往生ではあった。しかし、樹にとってサクラと過ごした期間は5年と少し。
あっという間に逝ってしまった感覚が強く、悲しみがあるのだろう。樹の声は震えていた。

「樹、おいで」

樹の手を引き、少し離れた場所へと連れて行く。

「サクラを見つけた場所が山の入る道の入り口だったんだ。
それがまるでさ、サクラを見つけた、この場所に戻りたいように思えて。
…だから、分骨してここに埋めている」

明らかに一度掘り返したような跡があり、石が積み上げられていた。
膝を折りしゃがんだ樹は手を合わせる。感謝の言葉などを小さく呟いていたが、やがて涙が溢れ出してきた。

「…おいで」

航にとって想定の範囲内だった。手を引き立ち上がらせ、抱きしめた。すると、堰を切ったかのように声に出して泣き始めた。
航は何も言葉をかけない。ただ、子供をあやすように背中を軽く叩き続けた。

やがて泣き声が少しずつ小さくなるが、ほぼ同時に樹の手が航の体を這い出した。樹が何を考えているか、航には容易に推測できた。軽くため息をつくと、耳元で囁く。

「樹、俺はまだ死なないよ」

樹の手が止まる。

「少なくとも、あと20年は生きるつもりだから」

そう笑いながら言うと、樹の髪を優しく撫でる。
10年前のラボの検査で分かった樹の残り稼働は、長くて数年、最低で1か月だった。もし残り1か月だとすれば、既に10日間稼働し、残りは20日間。このまま1年に1日稼働するとなれば、あと20年。航はどんなことがあっても生きるつもりだった。
そのことが分かっているのか、樹は再び声を上げて泣き出した。

「どうか…1人に…しないで…ください…また…主人を…失うのは…辛いです…」
「うん、分かってる。俺が死にそうになったら、ちゃんと起こすから。…その時、選んでいいよ。」

航の笑顔も、優しい語り口調も変わらない。

「離れたく…ない…です」
「うん、分かってる。出来る限り長生きするから。」

航はヤマザクラを遠くに見る。

「桜が満開な時に樹をまた連れて来たいしね。…あぁそうだ」

樹の髪を撫でていた航の手の動きが止まった。胸ポケットから煙草ケースを取り出すと、残っていた煙草数本全てを取り出し、胸ポケットに入れる。

「樹、持ってて」

航の優しい口調に促され、涙を流しながらも樹は顔を上げて煙草ケースを受け取った。
航は変わらず笑顔のまま、今までずっと肌身離さずつけていたペンダントを外す。あの、白と赤がまだらに輝く石がついたペンダント。煙草ケースの中に入れると、乾いた金属音が響く。

「この石もこの沢でサクラと一緒に拾ったからさ。一度、ここに返すよ。
それで…そうだな…とりあえず10年後にまた一緒に取りに来よう」

10年後のタイムカプセル。それは少なくともこれから10年間は生きるという約束だった。樹は小さく何度も頷く。涙も止まっていた。

「サクラの近くがいいかな」

太い枝を拾うと、削るように航が土を掘り始める。鍛え上げた航にとって大した苦労ではなかった。しかし、樹もただ黙って見ていることも出来ず、煙草ケースをポケットに入れると慌てて手伝う。やがて30cmほどの深さの穴が広がった。

「樹、ケースを」

航が樹に向かって手を差し出す。しかし、ポケットから取り出しものの、煙草ケースを手放そうとしない。

「樹?」
「私のペンダントも…入れてよいでしょうか?私も目標が欲しいです」

真っ直ぐで真剣な表情の見せる樹。樹自身が意図的にどうにかすることはできないが、それでも寿命を延ばしたい強い意志が航には感じ取れた。航は驚き、一瞬目を丸くするが、すぐに笑い出す。

「うん、いいよ。…そうだな…樹が10年間、…俺を信用して、ワガママ言わなくなると助かるな」

樹の気持ちは嬉しかったが、樹の精神的な負担を増やしたくなかった。航は笑い話に転化した。ただ、信用して欲しいという願いは本当だったが。
そんな航に樹は何も言えず、口をつぐんでしまっていた。航は笑ったまま、樹の首からペンダントを取り外すと、煙草ケースに落とした。ケースの中から、2つの石と鎖が擦れる音が聞こえてくる。

樹の手から煙草ケースを取り上げると、穴に入れ、土をかける。最後に、航は沢から大きな石を数個運んでくると置いた。

「これで分からなくなることはないでしょ」
「はい」
「10年後が楽しみだ」

航が微笑み、その航につられて樹がようやく微笑む。
その時、突然、強い風が吹き、紅葉した葉が樹を包むように舞った。途端、哀愁を帯びた雰囲気が樹の周りに生まれ、桜の花びらとはまた違う魅力を放つ。

「…ここで少しデッサンしてもいい?」

航の中で樹を描きたい欲求が沸いてしまう。一緒に過ごせる残り時間は減っていくが、どうしても目覚めている樹を描きたかった。

「はい、喜んで」

樹はすずしげな笑みを見せた。いつまでも変わらない笑顔。
ヤマザクラの元に戻ると、風が吹くたびに枯れ葉が舞い散る中、樹は近くの石に腰を下ろした。そのまま、航も離れた場所に座ろうとしたが、動きが止まった。少し悩ましい表情を見せると、樹の横に座る。

「あのさ、さっき、"また"って言っていたけど、本当は以前の持ち主のことを覚えているでしょ?」

途端、樹の顔が強張った。
以前、"覚えていない"と樹は言っていたが、主人を失う怖さを知っているということは、記憶があるのではないかと航は感じ取っていた。
2人の間に一瞬の沈黙が流れ、そして樹が口を開く。

「…申し訳ございません。…少しだけ…記憶があります。…ただ、あまり良い思い出ではありません」

それ以上、樹は何も言わなくなった。話したくないようだったし、航も根掘り葉掘り聞く気はなかった。樹の肩を抱き寄せる。

「ごめん。樹の過去を詳しく知りたいわけじゃないんだ。
…ただ、…おそらく…前の持ち主はあえて記憶を残したんだろうと思ったんだ」

樹は目を見張り、航と視線を合わせる。

「…たぶん…樹の中に…生きた証を残したかったんだろうなって」
「…そうでしょうか」

そう言って視線を落とす樹を航が抱きしめた。

「樹にとっては前の持ち主との記憶は辛いかもしれないけど。
俺との思い出は絶対に良い思い出になるようにするから。そのために長生きして、樹を大事にするからさ。」

航は樹の頬に優しい口づけを落とすと、笑顔を見せた。

「それだけ、言いたかったんだ」

航は立ち上がると、少し離れた場所へ陣取る。小さなスケッチブックを開き、樹を描き始めた。
樹は何も言わず、微笑み続けた。目に涙を滲ませて。

沢を吹き下ろす風が2人を包みこみ、穏やかな日差しと相まって心地良さが広がる。2人の視線が絡むたびに互いに笑みが自然と浮かぶ。明日にはまた樹が眠りにつくことも忘れ、この瞬間を楽しんだ。



「もう帰りましょう」

空の端がオレンジ色に染まり出していた。
樹の顔には笑みはなく、航の返事も聞かないまま立ち上がる。

「私の夕食を食べていただきたいです。…それに、一緒に…寝たいです。」

歩み寄り、膝を折って腰を落とすと恐る恐る航の手を取る。そして、手の甲に口づけを落とし、上目遣いに見上げた。樹にとって精一杯の機嫌取りだろうが、航を誘惑するには十分だった。

「…樹をずいぶんと甘やかしちゃったなあ。」

そう困ったように笑いつつも航が立ち上がった。
途端、樹の表情が明るくなり、笑みが戻る。

「ありがとうございます!…もう一度、サクラに挨拶をしてきます」

急いで立ち上がると、小走りでサクラの墓へと樹が向かう。
見送りつつ、その間に航はスケッチブックや鉛筆を片付け始めた。

「…しかし、さっきは良い思い出を作りたいとは言ったけど。
…そのために樹を泣かせないようにするのは大変だな」

航の老いや病気、そして迫りくる死を見て、樹が平常でいられるとは思えなかった。
航の口から独り言が漏れ、そしてその独り言は風に流された。

それでも、スケッチブックの中の樹は微笑んでいる。航は静かに撫でた。
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