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 真夏の太陽でジリジリと熱せられたアスファルト、そこに突然降り始めた夏の雨。雨水が蒸発することによって気化熱で周りの気温が下がっていく。
 それこそ、白い湯気が立つような雨の中、傘を持っているにもかかわらず、ワキミズは打たれるがままに雨粒を頭から浴びていた。
 屋敷でのセンセイからの指摘に思考が止まったままなのであった。

「そんな……オレが、バケモノ……?」

 思い当るところはあった。部長との試合や墓場でタキシードの美人との立ち会いの時、頭に血が上り発揮した人間離れした膂力。

「たしかに、そう言えば――」

 そしてバイクの少年が頭突きをしてきた時、額に感じた固い感触。実際に、雨にぬれた前髪を掻きあげ、その場所に手を触れてみる。

「なんだろう、肉の盛りあがった感じがするけど……」

 そんなことを考えながら、ワキミズの足は学園を後にし、自然と商店街のほうへ向かっていた。
 虚ろな心に雨として降り注ぐ水滴がいくらでも吸いこまれて行きそうだった。そんな虚構と現実の狭間にいるワキミズの耳に叫び声が届く。

「ひったくりよ!
 だれか、その男を捕まえてぇっ!」

 数メートル先で老婆のハンドバッグを強奪した男。ワキミズが彼を視界に捕えたときには、そのひったくり犯がニット帽に鼻ピアスをしているという身体的特徴まで把握することのできる距離にいた。

「だれかぁ!
 だれか、そいつをぉお――」

 それまで宙空をさまよっていたワキミズの精神は、あくまで一般人のレベルで善の意識が頭をもたげた。カッと燃え上がったその意識は、以前にユキシロから部活の一環で学んだ捕りモノ術を思い出させた。

「イイカ?
 人間の足の構造上、走ってるやつの足元。
 そうだなぁ、膝のあたりに棒を投げ込んでやれ。
 それだけで足がもつれてすっ転ぶってもんだ」

 ワキミズは己の左手に持っていた傘を盗人の足元に投げつけた。

 ズドンッ――。

 鈍い音とともに盗人はその場に倒れ込んだ。

「~~~~~~~っっっ」

 盗人は声にならない悲鳴を上げている。
 そう、傘は足をもつれさせ、ころばせたなどというレベルではなかった。
 常人ならざる力で投擲された傘は足を「貫通」し、ふくらはぎの肉どころか骨すら断ち、ざっくりと突き刺さっていた。

 雨と混じりながら辺りに立ちこめる鮮血の匂いにワキミズの精神が高揚する。
 悲鳴を上げ、のたうち回る盗人と、息をのんで立ち尽くすしか出来ないその場に居合わせたニンゲン。
 そしてそのうちの一人が口にした言葉。

「バケモノ……」

 その言葉にワキミズは吐き気を覚え、口に手をあてたまま走り去ってしまった。

 夏の雨が降り注ぐ中、ワキミズがたどり着いたのは学園の敷地内、屋敷の裏にある桜の木の下。春には花見をしたほどの見事な花を咲かせていたが、今の時期には花はとっくに散り、青々とした葉だけが残っている。枝の下で腰をおろし膝の間に頭を埋める形で涙を流しているワキミズ。口からは嗚咽の音が漏れていた。
 どのくらいそこでそうしていただろうか。葉や枝の間から垂れてくる雨粒は彼の頭と言わず全身を露に濡らしている。

「ボクは、ボクは――
 バケモノなのか……」

 自身の言葉を反芻する。その度に、己の手が、記憶に残る鏡で見た己の顔が異形の相貌を湛える。どれだけその場で過ごしただろう。流石に雨も其の粒を落とし切り、西の山にかかる夕日が赤く染まり始めたころだった。

「どうしましたか、ワキミズさん?」

 その場に現れたのはエミィだった。一時帰国したはずの彼女はワキミズの目の前にいた。
 その純粋な心配が、ワキミズがそれまで己の内に留めていたモノを吐き出させた。

「ボクはバケモノだったんだよ!
 あの人間離れしたチカラも!
 この額の角も!
 人の血の匂いで興奮するこの性分も!
 ボクは、ニンゲンでいたかったよ……」

 全てを聞き、それでもなお、彼女はこう言ってのけた。

「あなたはあなた。問題ないのです」

 その言葉とともに、エミィはワキミズを抱きしめた。
 言葉にならない嗚咽。ワキミズは一層声を上げる。夕日によって生じた桜の木の影が二人を包み込んでいた。
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