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「ふぅ……」

 ハラリと水面に浮かぶ彼女の長い銀髪は癖が無く、立っているなら腰の丈を優に超えていたであろう。
 浴室の中に充満した湯気は天井に上り、冷されて雫となりしたたる。
 その水滴が風呂桶の中の湯に落ちて音を立てる。
 このかすかな音にサヤは目を閉じ、己の内側に集中し始めた。
 閉じた目からは微かな光も入らず、心にいつも映る、ある人物が現れる。
 その男は己の手を見て泣いている。声を押し漏らし、血にまみれた手を嘆いているのだった。その手に滴る血と同じ色の鮮血を両の目から涙として流しながら。


 うぅ……
 サヤ……

 助けてくれ……
 助けておくれ……

 もう、嫌なんだ……


 男の悲痛な言葉に、サヤは心を荒縄で締め付けられる思いで耳をふさぐ。

「待ってて――今に、今にきっと助けてあげるからッ!」

 サヤの声は果たして、男に届いているのだろうか。男の声は遠くなり、血の涙を流しながら闇に消えていった。

「――ッッ!」

 男の姿が闇に溶け切った時、サヤは男の名前を口にして意識が現実に戻った。
 温かい湯につかっていたはずなのに、水面から上に出ていた顔には冷や汗と思しき水滴がびっしりとついていた。
 サヤは湯を手ですくい、顔に浴びせる。
 どれくらいの時間がたっていたのだろう。湯は温度が下がり、ぬるくなっていた。

「おーい、お湯がぬるいよ。火を焚いてくれ」

 外の風呂番に声を掛け、お湯を熱するように伝える。声が届くように浴室の上部に設けられた格子戸からは了解の声が返ってきた。

「ハイヨー」

 再び、顔の半分をぬるま湯に沈めた時点で、外の声に耳が向いた。

「……駄目ですってば…… ヤメテください……」
「ダイジョウブダイジョウブ。すぐに終わるから……」
 格子戸越しに聞こえてくる、少女の必死の抵抗を現す声、我に返ったサヤは壁に向かって大きく腕を振りぬいた。

 ――カシュンッッ!

 濡れた浴室に乾いた音が響く。
 すっかり熱の逃げた湯につかっていた右足と、風呂桶の縁に乗せた左足。彼女はそのうちの湯につかっていない方の足を抱え上げ、壁を蹴る。木の板だった壁にはひし型の穴が空き、サヤは臨戦態勢に入っていた。

「ボクの目の前で女の子を襲おうなんて、イイ根性してるなァ! 観念しな!」
「!?!?」

 突然目の前の壁が開け、中から雫しか纏っていない少女が現れたのだ、驚くのも無理はないだろう。だが、その場で目を見張っていたのはサヤも知っている二人、イオリとオユリであった。

「…………」

 三人の間ではそれぞれ、異なった思惑が交錯していた。
 状況の飲みこめないサヤ。自分の職場の壁に一瞬にして風穴の空いたオユリに、サヤの肢体に目じりを下げているイオリ。
 そう、情報収集から帰ったイオリが風呂に入っているサヤを覗こうとしていたのである。そしてソレをオユリが必死に制止しようとしていたのだ。
 幻影の中の男。彼の悲痛な叫びとぬるま湯で心身ともに冷えていたサヤの体は、怒りと羞恥で頭から熱を帯び、声にならない叫びをあげた。
 そばにあった桶でお湯をぶちまけたサヤ。外にいたオユリはこれをモロに被り、イオリに至ってはどこに隠し持っていたのか、サヤから苦無の2~3本も投擲されていた。
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