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夢と目合う ※ ※モブユン
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しおりを挟む生まれついて見目麗しく聡明、そして、徳の高い両親にたっぷりと愛情を注がれて育てられた、身も心も「綺麗」な心優しい美青年――まるで誰しもが憧れて恋をしてしまうような、おとぎ話の「王子様」――月下・夜伽・曇華という人はこれまで、この俗世の「穢れ」を知らないままに育った。
しかし、「穢れ」を知らないままに育ったユンファさんはそれだからこそ、はじめはケグリという穢れた醜男におかされ、騙され、利用された。
それから幾人も幾人もの欲深な人間どもに騙され、おかされ、何度も酷薄な裏切りの羽目に合い、まるで「物」のように利用をされて……そうして今もなおユンファさんは、日々身も心も何もかもをおかされ、暴かれ、奪われ尽くして、醜悪な人間どもに「搾取」をされ続けている――その上これまで、そのような憐れな彼を助ける者もまた、誰一人としていなかった――そういった世の、人の「裏切り」によって悲惨な境遇に身を置いているユンファさんは今、およそ、この世の全てを恨んでもゆるされることであろう。
むしろそれこそが「普通」ではないだろうか。
彼こそ全てを恨んでよいのである。彼こそ全てに絶望をしてよいのである。彼こそ全てを憎んでよいのである。彼こそ全てを蔑視し、全てに嫌悪をし、全てを見捨ててよいのである。彼こそひと目で全てを見限ればよいのである。彼こそ厭世の目を全てに向け、彼こそ醜い全てに目を塞いでよいのである。
――とても人に心からの優しさを向けられるだけの余裕など、今のユンファさんの壊れかけている精神には、本当ならばひと欠片とて残されてはいないはずなのである。
それなのに――何故貴方は穢れなかった……?
…俺は嫉妬さえしそうなのだよ……ユンファさんが今、何を惜しむでもなく俺に「与えた」からである。
月下・夜伽・曇華という人は、いや、その月の男神は今、何ら惜しげもなく俺に「与えた」のである。
例えば貴方は「高潔なる騎士」……手も足もどこもかしこも傷だらけ、その蒼白い体から絶えず血を流し続け、日々新しい傷をその身に受けようと、例え敵に拷問をされようとも、それでも決して膝を折ってはならないと、ただただその痛みに耐えているような、誰が見ても憐れなる満身創痍の騎士が…――それでも自分の守りたいもののために気高く、その手に握った銀色の剣という誇りだけをよすがにして、日々満身創痍になりながらも孤軍奮闘していては、とても他人を慮る余裕などあるはずもない騎士が…――自分よりもよっぽど軽傷の俺に、ちょっと転んだだけのような俺の前に現れ、俺の傷を見留めるなりすぐさま俺の前へと跪き、「大丈夫…? 痛かったね、今すぐに手当てをしてあげる」と俺の体を撫でながら、心からやさしく微笑み、なけなしの傷薬を俺に「与えた」。
……人はこの話を聞いたなり、彼を健気とでも殊勝とでも、また神妙とでも思うことだろう。
しかし厳密にいうならば、そうであり――そうではないのである。
ユンファさんは俺が落ち込んでしまったと見るなり、俺のために心を尽くしてくださった。そればかりか彼は、「気味が悪いだなんて少しも思っていない」と、今に改めた自分の真実を俺へ告げてきたのである。
彼は先ほどのそういったセリフを言いながらも、こう考えていたのだ。
『もしかして彼…こういうお店(風俗店)の利用に慣れていない人なんじゃないか? もしかすると、初めて、だったり。…それに、そもそも僕たちは初対面だ。つまり今は、明らかに彼が緊張してしまっても当然のシチュエーションだといえるだろう。…きっと、それで彼は物凄く緊張してしまっているんだな……だから気を張りすぎて、ちょっとおかしなことを言ってしまったり、ちょっとだけ挙動不審になってしまったんだ』と――そうしてすっかりユンファさんは危なげにも、俺のことを理解しようと試みた上で、俺の醜い全てを受け入れてしまったのである。
しかもユンファさんは――『いや、そもそも緊張している人の、その緊張している姿を見ただけで“こういう人なんだ”と決め付けてしまうだなんて、僕はなんて浅はかで失礼だったんだろう』――と先ほどの、俺に対しての自分の認識を、たったこれだけのことで反省して改めてしまったのだ。
それも、彼のその考えの契機となったのは、俺のたった一言――俺の「ごめんね、浮かれてしまって」というたった一言である。あまつさえユンファさんは俺のたった一言の「ごめんね」という言葉で、ここまでの俺の挙動やリアクションなど「まともではない俺」の全てを許し、むしろ自省までされてしまった。
すなわちユンファさんは、俺の過ちをすぐにゆるしてくださった。彼は俺に「ゆるし」を「与えた」のである。
のみならず、むしろ自省を踏まえた上で心を改めたユンファさんは、落ち込んで見えた俺へ、「落ち込まないで、大丈夫、貴方は何も間違っていませんでしたよ。貴方はありのままで素敵です、緊張しないで、大丈夫だから」と俺のことをそれでも理解しようと努め、俺をしとやかに鼓吹し、俺の全てを自然と認めてしまわれた。
いや、そんなの単なるちょっとした「優しさ」ではないかと、そう思う人もいるかもしれない。…それなりに良好な人間関係を保つ上では必要最低限の、「当たり前」の優しさ、単なる社交辞令だとね。
だが、普段から人の欲望のままに貪られて利用され、人の気分一つで理不尽にも面罵をされ、日々やせ細るほどの虐待をされ、さんざん醜い人間に裏切られてきた人が――俺に「心からの優しさ」を「与えた」のである。
作られた「優しさ」や、根底に損得の潜んだ「優しさ」ではなく――「心からの優しさ」を、本当ならば自分こそその「優しさ」に飢えていておかしくない壊れかけの人が、なけなしとさえ思われるような「心からの優しさ」を、俺に惜しげもなく「与えた」のである。
例えば苛々として精神的な余裕のない人に、それができるか?
例えば今にもくずおれそうなほどの絶望を抱えている人に、それができるか?
例えばいじめられっ子が、例えば日々虐待をされている、人のあたたかい優しさなど忘れるような、己への理解など到底されやしない、地獄のような環境に身を置いている人が――人に「優しくしよう」、人を「理解しよう」、少しでも人のことを「良く見よう」、人の「良いところを見よう」だなんて、そんなこと…普通、できると思うか?
しかし驚いたことに――今、彼は間違いなく俺に「神の慈愛」を「与えた」のである。
もちろんユンファさんにはそれだからといって、俺に対しても特別な好意があったわけではない。
ユンファさんの、その神聖なほどの「優しさ」には――神のそれにも近しいほどの、彼のその「神の愛」にはその実、大した理由などないのだ。
ただ落ち込んでいる人が目の前にいたからというだけ、この彼の無垢な優しさの理由とはすなわち、ただそれだけのことなのである――。
俺はやや俯き加減で、目を下げたままである。
そうして俺は自然とこの視界に映っている、ユンファさんの白いカッターシャツの胸元、開かれた襟より続くV字の谷から垣間見える白い胸板の、その硬質ななめらかさにぼんやりと見惚れている――ただし今はその胸や肌に興奮をしているというのではなく、単にぼんやりとした意識で綺麗だな、と――すなわち俺と向かい合ったままのユンファさんは、俺の両方の二の腕をゆっくりと上下に撫でさすりながら、優しく静かながらも澄明な声で、俺の気持ちを和ませよう、安堵させようという言葉をこう続けた。
「…はは…すみません、さっきから結構上から目線ですよね……でもとにかく、そんなに気を張らなくても大丈夫ですよ。…リラックス…ね、リラックスして…――ねえカナイさん? よかったら今夜は、僕に全てを任せてくださいませんか」
「…………」
ユンファさんのそのセリフの内容と何ら齟齬がなく一致しているのは、それを紡ぐ、彼の凛とした麗らかな男性の声である。…静かにやさしげでありながらもその芯の通った声には、それが決して一時しのぎの言葉ではないからこその、ちょっとした頼もしい誠意が込められているのである。
「……、これは何となくなんですが、僕…もしかしたらカナイさんは、普段から物凄く頼り甲斐のある、凄くしっかりした方なんじゃないかなと思って…――はは…でも、だからこそ貴方は、きっと物凄く努力家で、頑張り屋さんなんじゃないかな…――簡単にいうと、今夜くらいは僕、カナイさんに頑張ってほしくありません。…貴方のことを癒やしたいんです」
「……、何故そう思われるの」
俺はぼうっとしていたが、――ユンファさんのそのやわらかい笑みを含んだ言葉に、胸の中が小さく揺れた。…ツキンと甲高い小さな痛みが、この胸に起こったのである。
……だが俺は、自分が努力家、頑張り屋さん、頼り甲斐のある……とされるのを、何よりも自分で否定したい気持ちがあった。だからユンファさんに聞いたのである、「何故そう思うの」と。――彼はまたやさしく笑った。
「…ここまでのカナイさんを見ていての印象もありますけど、…一番は、貴方がこんなに素敵なホテルの、こんなに素敵なお部屋を取ってくださったからです。――いわゆるカナイさんのように“成功者”といわれるような人は、きっと多くの人から羨まれて、妬まれがちなんじゃないかな……でも、人が羨むようなものを得るまでに、多分カナイさんは、たくさんたくさん血の滲むような努力をなさって…そうやって貴方が必死に頑張ったからこそ、今のカナイさんの地位や名誉があるんじゃないかな、って…」
ユンファさんは冗談っぽく明るい声で「庶民が知った口をきいてすみません」と軽く謝る。――要するにユンファさんは、(実は設定ではあるが)会社を経営している社長の「カナイさん」が、まず頼もしいしっかり者でないはずがない(社長として上手くやっていけるほどのリーダーシップや頼り甲斐を、「カナイさん」が持ち合わせていないはずがない)。…そして実際に「カナイさん」は、この高級ホテルの最高級スイートルームを、「たかだか風俗遊び」のためだけに取れるほど、社会的な大成功を収めているように見て取れる。
「…そして、カナイさんは今も凄く、物凄く頑張られている…――僕なんかにはとても想像が付かないほど、きっと物凄く大変な努力をしながら…貴方はずっと、日々頑張り続けてらっしゃるんじゃないかなと……何となくですが、僕はそう思ったんです。…」
「……、…」
しかし、その社会的な大成功(地位や名誉、富)というものを世の人は羨み、人はその実績ばかりを見て妬みがちだろうが、――それら華々しい実績を得るまでに、またその実績をより伸ばしていこうと今もなお「カナイさん」は、世の人の目につかないところで日々血の滲むような努力をし、気を張り続けねばならない環境に身を置いているに違いない、と――何と思慮深き人か。
ユンファさんは「何となくそう思った」というが、その実は直感的な発想ではなく、それらはきちんと自分の頭で理屈を整理したが故の、かなり思慮深い優しい言葉であった。
もちろんユンファさんは今はまだ、俺の「本当のラベリング」を知らない。いま彼は俺のラベリングというのが、「タトゥースタジオの敏腕経営者・三十代アルファ男性・カナイ」というものだと思っている。――しかしそれであってもユンファさんは、あえて俺の「裏」を見ようとした。…あえて俺の「裏」を見ようとしてくれたのである。
「…普段、頑張られているのだろうカナイさんだからこそ…僕は今夜、僕のできる限り尽くして、カナイさんを癒せたらいいなと思うんです。――だから…もしよろしければ今夜は、全て僕に任せてくださいませんか?」
「…………」
今のユンファさんからは歴戦の風俗店のキャストらしいリード力ばかりか、優しく柔らかく爽やかながらも頼もしい、男性的な能動の意志が感じられる。
それこそ普段、そのようなリーダーシップのある男で在ろうと心掛けている俺でさえ、この頼もしさにはほっと気が緩んだなりそのまま安心を許してしまいそうな、もたれ掛かるようにして、俺の男としての能動性をすら全て彼に委ねてしまいそうな――こと今のユンファさんには、何かしら神聖なる優しくも頼もしいリーダーシップがあるように思え、また凛としたその潔い態度には、誰しもが爽やかな春にやっと芽吹いた新緑の期待感と、新緑生い茂る木の幹のような安心感を覚えることだろう。
……しかし良くも悪くも、木には「特別な存在」などないのである。あくまでも木とは分け隔てなく、求められれば何ものにも日除けの木陰を、雨宿りの豊かな茂りを、豊穣の甘い果実を分け与えるものなのだ。
「…もちろんしたいことがあれば遠慮なく仰ってほしいんですけどね。…とにかく僕、カナイさんには今夜ただ、ただただリラックスをして、今夜を楽しんでいてほしいんです。…」
「……、…」
とやさしく微笑んでいるらしいユンファさんは、俺の屈託を晴らすように、ほの明るくもやさしく静かな、まるで月明かりのような声でそう言った。
「…まあ僕なんかじゃ上手くリードできるかはわからないが、…でも、いいですかカナイさん、今夜カナイさんがするべきことは、…まあ、強いて言うとですが――はは、ただリラックスをして、楽しめるようなら、ただただ今夜を楽しんでいてください。…」
「……、……」
やや俯いたままの俺の耳の下、角張った顎の両方の付け根の下に、ひんやりとした指先を添えたユンファさんは、優美なやさしい力で俺の顔を上げさせようとする。
その「力」には決して強制力などないのだが、俺は何かしら強力な強制力を感じる――その指先に込められているやさしい力にstrengthの行使はない、しかし、俺の顔を上げさせるだけのcharmは十二分にあるのである。
「それこそ今夜は、僕が貴方の本当の恋人なんですから。ね、カナイさん…今夜は僕に全部任せて。」
「……、…」
俺はやおら、優しい月明かりに導かれるまま顔と目を上げたのだ。そして真っ向からユンファさんの目を見た。やわく清潔な月光を灯しているその薄紫色の瞳が、俺のことをただ優しい気持ちで見ている。
俺はそれが、たったそれだけのことが、今にも泣き出しそうなほどに嬉しい。――貴方の本当の恋人……仮初めであったとしても、俺なんかが貴方の本当の恋人になれるだなんて、今にも泣きそうだ。
「はは、大好きな貴方が安心して今夜を楽しめるように僕、一生懸命頑張りますね。というか…とにかく僕たち、何が何でも今夜を二人で楽しみ尽くしちゃいましょう。――あと正直いうと……実は緊張しているカナイさんも、とっても可愛いですよ。」
「……、…、…」
あぁ、かねがね同意だよ。
楽しむ――そう、今夜を二人で気楽に楽しまないとね。
可愛い――そうだ、俺は凄く可愛い男だよ。
…………ムカつく、――
「…だから、もし緊張をしてしまっても……」
「…悪いが俺頑張りたいんだ、…貴方は…――。」
ユンファさんは優しい微笑をその美しい顔にたたえたまま、「え…?」と切れ長の目をやさしく細めて小首をかしげた。――俺はユンファさんの、その優しい切れ長の両目を見つめながら、こう言った。
「――っ俺悔しいよ、何故、…何故貴方は、…何故貴方はそんなにもお綺麗なんだ、…」
「……へ…?」
ユンファさんは目を丸くして驚いた。
俺が感極まって涙目になりながら嗚咽に近い声でそう、彼にとっては何ら脈絡もなくそう、彼のことを「綺麗だ」とそう言ったためである。――ユンファさんが首を傾げるなり、彼の左耳で瞬いた銀の十字架が、今の俺にはあまりにも眩しく神々しい。
今は咽び泣いているだけであるが――俺は今に気を緩めたなり、無我のうちに、たちまち慟哭しながらユンファさんの足下へと跪くことだろう。そして彼の足の甲に「ゆるし」を乞う涙とキスを、幾つも幾つも落としてしまうことだろう。
しかし、辛うじてそのような大仰な真似はしないまでも俺は、あまりにもあたたかいユンファさんの「神の愛」に深く俯いた。
「…貴方は綺麗だ、あまりにも綺麗すぎる、…誰よりも貴方は、…あまりにも、あまりにも貴方はお綺麗だ、…」
「……ぁ…はは、ぁ、ありがとうございます、でもそんな…そんなこと、…いやあの、だ、大丈夫ですか…?」
しかし、涙が出るほどに本気であった俺の言葉はにわかに、ユンファさんの自我に否定をされた。彼は『そんなまさか、彼、なぜ突然そんなことを思われたのだろうか』とは思いつつ、『いや、そんなことより……』
「…カナイさん…? 大丈夫…?」
「……、…」
やさしく俺の仮面の両頬を包み込むユンファさんの両手、しかし俺の頬は今、彼のぬくもりを感じられない。…俺は彼の心配げな視線を受けながらも俯いたまま、また畏れ多くなっては、目を上げることさえできず――しかしただただ悲しくなり、仮面の下で眉を顰めながら、ゆるゆると首を小さく横に振った。
「……俗世離れしているほどだな、貴方の酷いほどの優しさは…、ねえ、何故貴方はそこまで、人に優しくしようと思えるの…?」
俺の両目からは堪えようにもそれはかなわず、ポタポタと光る涙の粒が、下へ落ちていった。――俺の両目から落ちていった涙の雫は、俺が今履いている茶色い綿のスリッパのつま先と甲に、それぞれ小さな濃茶の丸を二つ作る。
「……え…? い、いえそんな…あの、優しくとはいっても別に、僕、別に今そんなに大したことは……」
「いけません…。どうぞ今だけは…どうぞ、しばしご沈黙ください……」
俺は祈るように目を瞑りながら、仮面の唇に人差し指を当てて示した。するとユンファさんは黙った。
「……貴方は随分慈悲深く、お優しい方なのですね…。だけれどそれでいて貴方は、実は誰よりも、残酷な方なのかもしれません…、……」
薄目を開けた俺は彼の白い片手を取り、祈るようにその手を両手で握った。…ポタ、彼の白い指の背に俺の涙が落ちたのを見て、俺はまた目を瞑る。
「……え…?」
「……、…――。」
――ユンファさんは本当に、誰よりもお綺麗だ。
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