ぼくはきみの目をふさぎたい

🫎藤月 こじか 春雷🦌

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夢と目合う ※ ※モブユン

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 ようやく通話を終えたユンファさんは、肩にかけていたバッグにスマホをしまうと、そのバッグを片足側面近くの床へそっと音も立てずに置き、それから改めて俺と向かい合った。
 背を正した彼はちょうどベルトのバックルあたり――下腹部――に両手を重ね、その薄紫色の瞳で俺の目を見据えるなり、申し訳なさそうに表情を曇らせる。
 
「…お待たせいたしました。こちらの不手際でお客様を長い時間お待たせしてしまうことになり、大変申し訳ございませんでした。…」
 
「いえとんでもない、そんな…むしろ俺のほうこそ、電話中に悪戯なんかして本当に申し訳無かったです」
 
(俺としては「鑑賞時間」がたっぷりあったので結果オーライではあったのだが)元はといえば、俺が電話中のユンファさんに悪戯なんかをしたせいで彼、(横恋慕)スタッフにあれほど必死の心配をされたのである。――むしろ迷惑を被ったのはよほど俺ではなく、彼のほうであろう。
 
「いえ、こちらこそとんでもありません。…改めて結果といたしましては、今夜はわたくしユエがお客様のご要望通り、お客様とのプレイを勤めさせていただけることになりました。」
 
 と表情をやわらかくするユンファさんに、俺は「それはよかった、ありがとう」と彼をねぎらう。それこそユンファさん対して「本当にお疲れ様でした」という感情が禁じ得ない(なかば俺のせいだというのに、あまりにも俺のためによく闘ってくれたろう、彼……)。
 
「はい、本当によかった…――では、改めまして……」
 
 そしてユンファさんは、俺の両目をその透き通った薄紫色の瞳で見据えながら、やさしげに微笑む。
 
「この度はご指名誠にありがとうございます。私、“DONKEY”のユエと……」
 
「…………」
 
 その上品な言葉遣いの声には鷹揚おうようとしながらも、キラリと銀に光る騎士の剣のように冴えた、真摯な硬い響きがある。例えば高級ホテルのホテリエのように、その声色にしても、あまりにも完璧だ。
 そして俺の目を見て微笑むユンファさんの顔もまた、やはりあたかも美しい――しかし……これは何か、どうも陶磁器で作られた球体関節人形かのような、どこかしかに無機質さのある微笑みである。
 
 まるで人に作られたかのような、初めから人に定められていたかのような微笑である。
 ふくよかな桃色の唇の両端は完璧なシンメトリーの角度につり上げられ、動きにしても端正な、なめらかな、小さい動きである。――その切れ長の両目は寸分違わずわずかに下まぶたを上げて細められ、すると元からぷっくりとしている彼の涙袋は、より盛り上がって人好きするような目元と見える。
 
 その両目はあたかも「やわらかい好意的な微笑み」の完璧な形を成しているが、ユンファさんの薄紫色の瞳はガラスのように透き通ってはいながらも、何かしら暗く翳って見える。
 
 どことなく端正な美しい人形のように、人らしからぬほど完璧な美しさを感じさせるユンファさんの微笑は、確かに美麗ではあるが、冷淡なほど血は通っていない。――まるで熟練の人形造形作家が丹精を込めて創り上げた、耽美な美貌の球体関節人形が唇を動かして喋り、人間の真似をして微笑んでいるかのような、今のユンファさんの微笑にはそういった、少し虚しくなるような悲しい硬質性がある。
 但し、もちろん俺はユンファさんのことをゆめゆめ「人形」などとは思っておらず、彼が人であるとは言うまでもなくわかっていることだ。であるからこそあくまでも不気味なのではなく、あまりにもユンファさんが「完璧」であるが故に、彼が遠く見えるといった感じである。
 
 そう、ユンファさんは完璧なのである。
 そもそも完璧な美貌なのである。
 ――そうであるからこそ、彼の「感情のない微笑」が、そのような美しい人形のようにしか見えないのである。
 
「本日はどうぞよろしくお願いいたします、カナイ様。」
 
 ユンファさんは人形的に美しく微笑みながら目を伏せ、下腹部に両手を重ねたまま、俺へと恭しい態度でゆっくりと深々頭を下げてくる。そうした彼のお辞儀は腰を丸めるのではなく、しゃんと背を伸ばしたままに腰から折るようである。
 またユンファさんがそうして深々と頭を下げると、彼の左耳についた、十センチないほどの十字架の銀のピアスがキラリと小さく光り、俺の目にそのまばゆい光が小さく揺蕩った。
 そして彼の両頬に触れていた黒い前髪が、頭を下げたその動きに、さらりと彼の痩せた頬を撫でて下へと垂れる。

「…はい、こちらこそ……」
 
 ましてや、こうして俺にお辞儀をしているユンファさんのその美貌は、この俯瞰に近い角度から見ても欠点など何一つとしてなく、恐ろしいほどに完璧だ。
 白肌により際立つ濃い黒眉の凛々しさ、深い眉骨の下、伏せられた切れ長のまぶたのふちに密に生え揃った黒いまつ毛、上から見る高い逆三角の鼻梁、すっきりとした輪郭…――美しい。世にも美しい。美しいが…――完璧な美貌である。しかし、その「完璧」こそが冷ややかなようである。
 ややあってまた背を正す彼は、つぅとゆっくり切れ長の上まぶたを頭とともに上げると、おぼろげな薄紫色の瞳で俺の目を見据えてくる。
 
「…では、堅苦しいご挨拶はこれくらいにして……」
 
「……、…」
 
 俺は初恋の人であるユンファさんの、俺があの日に惚れ込んだ美しい薄紫色の目を見つめているというのに、どうも虚しくて堪らない。――例えば、球体関節人形の美しく透き通るガラスの瞳を人間が見つめようとも、見つめ合っているという実感など湧くはずがない。
 心から愛している球体関節人形の瞳を見ているというのに、一見は見つめ合っているというのに、一向「目が合っていない」という感覚……俺は今、まさにそういった虚しさを覚えている。
 
「…今夜はカナイさんが僕の恋人です。今夜が……」
 
「……、…」
 
 衝動、俺はユンファさんへ向けて踏み出していた。
 五、六歩の距離ではすぐ、俺は飛び付くようにユンファさんに抱き着けた。
 
「…素敵な夜に…っ、……?」
 
 すると驚いたユンファさんは、俺に抱き着かれたその衝撃に言葉を詰まらせ、それ以降彼はマニュアル的なセリフを続けなかった。――先ほどは緊張が激しくそうわからなかったのだが、ユンファさんの硬い体は冷えていた。ひんやりと冷たく硬いその体にまで、「せい」というものがなく思えて虚しい。…ふと俺の「生」であたためてあげたいと願ったが、……今すぐにはとても無理だろう。

「……、俺……」
 
 わかっているのだが、どうしても虚しい。
 ――ユンファさんの微笑に「感情がない」理由とは、接客における業務的な愛想笑いであるから、というばかりではない。――風俗店のキャストとして、たかだか一晩を共にするだけの客相手に大層な感情など抱きようもない、ましてや挨拶の際に目立った感情など湧き起こるものではないと、人はそう思うかもしれないが、――誰しもが平常時の自分の感情など、いちいち相手になどしていないものではあるが、――だからといっても、まるで感情の無い人形のような「無感情」というのは、まず人としてあることではない。
 
 いうなればユンファさんのそれは、耽美な球体関節人形の造形をもって作られた、リアルなラブドール――人間に犯されるためだけに作られた人形の、何をされても作られた笑顔を一ミリたりと崩さない人形の、例え揺さぶられようともまさぐられようとも、はたかれようとも「何も感じない人形」、なぜならラブドールは人間が欲望を満たすためだけに存在しているから、人間は人形にならば何をしても許される、相手は人ではないから……「痛みも苦しみも何も感じないラブドール」――の諦観を帯びた「無感情」と、そのラブドール同然の「完璧なる微笑」なのである。
 
「…俺はね、……」
 
 貴方が好きだ。――貴方を、助けてあげたい。
 …俺の前でだけで構わないから、「人形のような何でもない顔」をしないでほしい。辛くないわけがないだろう。貴方は辛いからこそ、「僕は大丈夫だ」と平気なふりをするのである。――貴方はただ「僕は大丈夫だ」と思い込んでいる、ただそれだけなのだ。
 そうして美しい球体関節人形ラブドールにでもならなければ、とても耐えられない――それは間違いなく、「大丈夫」じゃない。
 
「……? はい…」
 
「……、…、…」
 
 俺はユンファさんの体を強く抱き締める。
 俺は今さら――ユンファさんが性奴隷とされてしまったことは知っている、ましてや風俗店のキャストであるユンファさんを指名しておいて、今さら――初恋の人であるユンファさんが、そのような憂き目に合っているということに怒りとも、悲哀とも虚しさとも悔しさともいえない、何か酷く感傷的な涙がこの双眼に浮かんでいる。
 
「…俺は、貴方を……」
 
「…はい…」
 
「……、…――。」
 
 貴方を……今は、まだ。
 俺は力いっぱいまぶたを閉ざし、息を止めた。
 
 ――俺は決めている。
 これまでにさんざん陵辱され、蹂躙され、侮辱され、虐待され続けてきたユンファさんの、その目を背けたくなるような悲しく残酷な過去を――今を――俺は、としようと。
 
 悲劇――物語ならば、むごたらしい場面にも何かしらの意味があるだろう。悲劇に無意味は無い。
 例え悲劇が悲劇のまま終わろうとも、それを見た者の心には、その物語が伝えたがっていた「意味」が多かれ少なかれ、宿される。――悲劇にはそうして「生きている意味」がある。
 
 悲劇――俺は決してユンファさんの過去を心からは悲観せず、また決して、その凄惨な過去からこの目を背けない。…極めてこの心から共感的に悲観してしまえば、俺は、その当事者であり被害者であるユンファさんの悲哀をすべて見留め、受け留められなくなってしまうかもしれない。
 
 俺はユンファさんの「全て」が欲しい。
 俺に貴方の「全て」を見せてほしい。――俺は決して貴方に目を塞がない。俺は絶対に貴方を見捨てたり、鬱陶しいと蔑視したり、裏切りや利用を目論んだり、そんなことは絶対にしない。
 
 俺はユンファさんがこの世にある何よりも、誰よりも、彼が自分よりも大切な人であるからこそ、俺はユンファさんの悲しみの受け留め方を決して間違えたくはない。
 
 辛くとも取り乱しちゃいけない。
 彼の悲痛を受け留める俺が辛いのではない。
 きっと死にたくなるほどに辛いのは、その悲痛に苦しんでいるユンファさんなのだ。
 
 ――俺の共感的な苦しみが一体なんだろう?
 夢にさえ出てくるような凄惨なドキュメンタリーを見て辛いと感じる人より、そのドキュメンタリーの中で実際に凄惨な目に合っている人のほうが辛いに決まっている。
 見ているだけの俺よりもっと辛く苦しいのは、絶対にユンファさんなのだ。
 
 だから俺はユンファさんの悲しみに相応しい、冷静でありながらも慈愛と慈悲の心で、悲しんでいるユンファさんに相応しい態度と言葉で彼に寄り添い、じっくりと時間をかけて彼のことを癒やしてあげたい。
 
 俺はユンファさんの全てを優しく包み込み、その人の何もかもをありのまま受け容れてあげたい。
 優しくやわらかい底なしの海、静かであたたかい深海、ゴポゴポと水の音しか聞こえないような場所、彼の全身が俺の中に沈み込み、彼の全てがすっぽりと俺に包み込まれ、俺という海の中で守られているユンファさんとじっくり二人きり、彼の「悲しみ」と真っ正面から向かい合えるような――彼が自分自身の悲しみというものに安心して集中し、浸ることができる――場所に、俺はなりたいのである。
 
 となれば俺は、努めて冷静でいなければならない。
 取り乱している人の悲しみや不安を包み込むためには、まず、自分自身に落ち着いた余裕がなければそうはできないのだ。
 
 だからこそ俺は、ユンファさんの悲しい過去を「悲劇」とすることに決めたのである――。

 だが、もちろん悲劇では終わらせない。
 まずはそのために、俺は強いて馬鹿みたいなoptimist楽天主義者になろう。
 
 ユンファさんは性奴隷となっても美しいままだった。
 いや、むしろそれによって、元の美貌が更に磨き立てられたようである。むしろ色気が増して、彼は以前よりとても妖艶な人になったようである。――彼は美しい。本当に綺麗だ。きっと以前よりも綺麗になった。いよいよ愛さずにはいられない、成熟した妖艶な、あたかも満開の月下美人というような人になった。
 
 ……あえてポジティブに考えよう。――俺のためにユンファさんは、性奴隷になったのかもしれないと。
 
 それにきっとユンファさんは、俺のためにこのような辛い経験してくれたのである。まあ極めて自分勝手な考えには違いないが――俺の心の傷はその実、この度彼が負ってしまった傷に似通った点がある。俺はユンファさんの心の痛みがよくわかる。…俺もきっと、調教された「性奴隷」だった。
 きっと俺だけがユンファさんの全てを受け容れ、彼の全てを理解してあげることが叶うだろう。
 
 そのことを裏返せば、きっとこの経験をしたユンファさんだけが、俺のことをきちんと理解してくれると思う。
 恐らくあの日のままのユンファさんであったなら、酷い癇癪持ちの俺の狂気は理解できなかったことだろう。
 
 
 お互いに経験した悲しい過去は、悲劇は、二人で生きてゆくための試練だった――だからそれらはいずれ過ぎ去る、決して辛いことは永遠には続かないのだと――俺はそう思いたい。
 
 
 そのほうが宵闇に光り輝く希望となる。
 ――だから「悲劇」としようじゃないか。
 
 
 もちろん俺は、ともすれば「悲劇」などとユンファさんの不幸な境遇を軽んじ、揶揄したかのような、まるで綺麗事のようなものとしたことに責任を持つ。――しかし俺は揶揄などと馬鹿にしたわけではなく、彼の不幸を軽んじたわけでも、ましてや、流すような綺麗事で軽く終わらせようとしているわけでもない。
 
 俺が責任を取ろう。この俺が決してユンファさんの人生を、二人の人生を「悲劇」では終わらせない。
 ユンファさんが性奴隷となったということもまた、俺は背負っていくつもりである。――俺はユンファさんと結婚をするのだ。
 ならば俺はすべからく、月下ツキシタ夜伽ヤガキ曇華ユンファのその全て、彼がこれまでに背負ってきたその全て、そして、彼の人生のその全ての責任を負い、保証するべきなのである。――もちろん、喜んで。
 
 
 災い転じて福と成す――よくそういうじゃないか。
 
 
 俺は目を開けた。
 貴方の前でだけは、俺は決して目を塞がない。
 ……そう覚悟をして、俺は此処へと来たのである。
 
 俺は抱き締めていたユンファさんからやや離れ、笑いながら彼の顔を見る。
 
「……? あの…」
 
「…はは、何でもないよ。――こちらこそ今夜はよろしくね。…今からユエさんは、俺の本当の恋人だ。」
 
「……、はい、よろしくお願いします」
 
 ユンファさんは先ほど俺が言いかけていたことがやや気になったようだが、すぐにまた表向き完璧な笑みを浮かべた。しかし、やはり彼の目にあるその人の「感情」は凍り付き、何ら微動だにしていない。――だけれどこれはこれで、まるでガラスのように透き通って見えて、とても美しいね。
 
「…うん、今夜が素敵な夜になるといいね」
 
 夢ではない。――“夢見の恋人”ではない。
 今現実に、俺の目の前に――初恋の人がいる。
 俺の目の前にユンファさんがいるのだ。
 夢の中ではなく、また俺の過去の記憶の中にでもなく、今夜は俺の目の前に――月下ツキシタ夜伽ヤガキ曇華ユンファという俺の初恋の人が、俺の現実目の前に存在しているのだ。
 
 
 十一年も前から俺は、ずっと貴方に会いたかった――ならば今夜が運命的な、奇跡的な、素敵な一夜にならないはずがない。
 
 
「そうですね、素敵な夜にしましょう」
 
「…うん…はは、いやぁ嬉しいな、貴方に会えて。やっと貴方に会えたよ…実は貴方に会えるまでに俺、三ヶ月も待ったんだ。……」
 
 
 だから、
 やっとまた逢えたね――ユンファさん。
 ……貴方の凍り付いた薄紫色の瞳を見つめながら、目に浮かんだ涙に、嘘をついて笑う。
 
 
 
 
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