ぼくはきみの目をふさぎたい

🫎藤月 こじか 春雷🦌

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夢と目合う ※ ※モブユン

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「…はぁ…寒かった……」
 
 寒空のバルコニーからスイートの室内へと戻り、そこで履いていたサンダルからホテル備え付けの茶色いスリッパに履き替えた俺は、後ろ手にガラス戸を締める。やはり外は寒かった。
 そうして俺の背後に漂っている外の冷気をガラス戸でピシャリと断ち切ると、この部屋の暑いとも寒いともない適温の空調のおかげで、こと冷えた頬と両手の指先が心地よいぬくもりに包み込まれたように感じられた。
 
 そのあと俺はユンファさんとの会話やキスに支障のないよう、脱衣場の洗面台の前で念入りに歯を磨いた。臭いの残りやすい舌磨きも忘れずに。また喉にこびりついているタバコのヤニはもちろん、歯みがき粉の味が残らないようにと念入りなうがいもした。
 
 そうして俺は再びソファに座り、自然と吸い寄せられるようローテーブルの上にあるスマホを取った。
 ……結局はそれで時間を潰そうとしたのだが、何を調べるとも鑑賞するともなく、もうひと粒チョコレートを口に含んだあと、フォルダに溜まっているメールを確認してはゴミ箱に捨て、重要なメールに関してはアーカイブフォルダに入れてと、所在なくもメールの整理をした。
 それが終わってしまった後は「MeeTubeミーチューブ」という業界最大手動画アプリを開いた。しかし、どのような動画のサムネイルも今の俺の関心を引かず、また何か調べものをしようにも、何を調べたらよいのかさえまるで思い付かなかった。
 
 結局――俺はまたバルコニーへと出ていた。
 ひとつの作業を終えると吸いたくなったタバコを、欲望のままに吸ったのである。そのあとはもちろんまた歯と舌を磨いた。念入りなうがいもした。
 
 ミニバーから取り出したフルーツウォーターの――輪切りのオレンジやミント、ローズマリー、半分に切られたいちごやブルーベリーなどさまざまなフルーツとハーブが水の中に揺蕩っている――ピッチャーから、コップに注いだそのほのかに甘い冷たい水を三杯、立ったまま一気に飲み干す(ブルーベリーが口の中に入ってきたが丸呑みしてしまった)。…喉が乾いてしょうがない。
 
 そのあと俺はまたソファに座り直した。
 そして思い出したカナイ兄さんへ追加料金の旨をスマホで連絡し、『了解。焼肉追加。』との返事をもらってからは(また高級焼肉を奢る羽目になった)、動画アプリ「MeeTube」をもはや癖のように開き、全く頭に入らない動画のサムネイルを延々とスクロールする。
 結局何を再生するでもなく、俺の指がスクロールするものは「y(旧miwitter)」というSNSの画面に変わった。
 その後エゴサをして……しかし申し訳ないが、今は俺のファンたちの叱咤激励も全く頭に入らない。どうも羅列されている文字が、俺の知らない記号に見えるのである。
 
 そのすぐ後にも俺はまたバルコニーで紫煙を吹かしていた。
 部屋の中に帰ったあとはまた念入りに歯を磨いた。ああ、そう。当たり前のように念入りなうがいもした。舌ももちろん磨いたが、もはや白い舌苔ぜったいは俺の舌からすっかり消え失せている。
 三度目ともなると、歯・舌みがきとうがいにかかる時間はおよそ二分そこそこであったろう。もはや磨きすすげる場所が極めて口内表面のヤニくらいしかなかったのである。
 
 歯みがきとうがいを済ませて部屋に戻り、ソファに座る。…前にあるローテーブルの上のスマホを取る。ぼーっと何を開くでもないズラリと並んだアプリのアイコンを眺める。時間を見る…いや、いや、時間を確認してはならない、何よりどうせ何をしたらいいのかもわからないんだろう、するとよりまた待ち時間が長く感じるだけだ――テーブルへスマホを置く。手持ち無沙汰。またタバコが吸いたくなる。
 
 そうしてバルコニーへ出てタバコを吸い(ちなみにさすがに吸いすぎてもうタバコの煙が肺に入っていかなかったため、一口二口ですぐに火を消した)、その後はユンファさんを想って胸をドキドキさせながら歯と舌を念入りに磨き(舌が痛くなってきた上に奥までブラシを突っ込み過ぎてえずいた)、ユンファさんとのキスを想ってむせながら念入りなうがいをする。
 部屋に戻る。ソファに座ってはまたスマホを、駄目だ、結局またタバコを吸いに立ち上がり、バルコニーで一口二口タバコを吸ったあとはすぐ部屋に戻り、戻ったあとは脱衣場の洗面台で歯みがきと舌みがきとうがい、ついでに髪型が乱れていないかチェックをして――また部屋に戻る。
 
 正直にいうと、(執筆中無性に吸いたくなるタバコはともかくとしても)この短時間にここまで数え切れないほどの回数歯を磨き舌を磨き、その上これほどまでにうがいをした経験は、さすがの俺も人生で初めてのことである。
 まああえてそれのポジティブな点をあげれば、緊張に乾いていた口内が、うがいによってさっぱりとしながらもサラサラの水でよく潤ってきた点だ(Tryをするときの人はいつしもポジティブであるべきなのである)。
 
 俺は結局この待ち時間の間静心しずごころ無く、そわそわとどこにも腰を落ち着けられないでいる。
 バルコニーに出れば肌が刺されるように寒い、寒空から部屋に戻れば寒暖差におかしくなりそうなほどぬくい、寒い、ぬくい、寒い、ぬくい、寒い、ぬくいを繰り返し、さながら強迫観念に駆られた人のように同じ行動を繰り返している俺は、――なるほど。
 
 俺はもはやソファに座ることを諦めてそれの側に佇み、自分の顎を人差し指と親指で摘んでなるほどと頷く。
 
「…こんな経験をしたのは、初めてのことだ…」
 
 俺は首を傾げながら驚き、そう独りでに呟いた。
 ……なるほど俺は、普段から一刻千金と思っている時間というものを一見あだにしたようだ。しかし畢竟月下ツキシタ夜伽ヤガキ曇華ユンファがお相手ならば、俺は大いに大いに損をさせられて全くやぶさかではないらしい。――人に損をさせられてこれほどまでに嬉しくなれるとは、初めての経験だ。
 
 むしろ俺にもっと大損をさせてくれ、ユンファ――嬉しいよ、会う前から貴方に支配してもらえるだなんて……。
 
「…まさかこの俺が…人に会うというだけのことで、こんなにも緊張しているだなんて…ね。…ふクク……」
 
 ましてやこの緊張も初経験――何と滑稽な反復行動か?
 ……興奮してきた。俺は思いのほか良い経験をしているではないか!
 俺のこの滑稽な反復行動はいわば人生の縮図である。
 このさして意味もない反復行動こそ人生のおおよそを占める時間、毎日毎日朝起きて飯を食い仕事をして家に帰る、飯を食う、風呂に入る、寝る、また朝起きて……しかし大した意味を持たないこの反復行動は、まるで必要とも思わない居酒屋の「お通し」のように、その実思うほどには徒ではない。
 
 むしろこの積み重なる苦悩と虚しくなるような無意味さこそが人生、そしてその人生の反復されてゆく苦悩の中でこそ、これから訪れる「至上の幸福」は奇跡の青白い光を放って目映まばゆく輝く。
 
 その積み重ねられた苦悩が報われるときを刮目かつもくせよ!
 人生を変えるほどの強大なる幸福を得る前の前座――例えば辛く長い仕事終わりに飲む一杯のビールこそがユンファさんだ、例えばくしの歯をくように訪れる長年の苦悩からの解放こそがユンファさんだ、人知れず積み重ねてきた努力が大きく実り花開く瞬間の喜びこそがユンファさんだ、被虐的な自己犠牲と奉仕の果てに得られる甘いご褒美こそがユンファさんだ、大いに焦らされた長い前戯、挿入、根元から根気を入れて堪える射精、堪える、耐える、絶えぬ、耐える、堪える、堪える、堪える、必死に堪えたのちに絶える……あの激しい強い解放と悦楽の瞬間こそが、これから俺の元に訪れる美貌の男神、月下ツキシタ夜伽ヤガキ曇華ユンファなのだ!
 
 これこそが生の喜び、緊張に首を締められる俺の余裕、あぁ胸が苦しい、――射精しそう――このドクドクと激しく速まる心臓の苦しさはいっそ我が心臓よ止まれと願うほどだ、息もできない、月下ツキシタ夜伽ヤガキ曇華ユンファに俺の肉体や精神や魂のみならず、俺の人生の時間までもを支配していただいている……なるほど、この苦しみさえも貴方が俺に下さったエロスそのものである!

 
「うん、いいね」
 
 
 この経験は作品にも活かせそうだ…――。
 
 
「……、おや…?」
 
 ――いつの間に?
 俺が立ったまま見下ろしたローテーブルの上に、チョコレートの銀紙が散らばっている。要するに俺は、持ってきた六つのチョコレートの全てをもう既に食べ終えてしまっている! 
 
「…ククク…ユンファ、貴方という人は……」
 
 この甘党の俺が大好物のチョコレートを食べた記憶さえも失うとはね……ユンファ、この世で貴方だけだ…。
 気慰みにタバコを何本も吸ったというのに、それでも駄目だなんて信じられない……大変。とても興奮しちゃう。
 この俺の精神の均衡をさえもそうやって掻き乱せるのは、そう、ユンファ…この広い広い世界中の何処どこを探しても貴方ただお一人だけ……この一人の時間にも貴方をこんなに愛してしまう…もっと、ね。
 
「……貴方って本当…悪い人。んふふふ……」
 
 ゾクゾクしちゃうよ……思えば触らないと決めておいて、どうして俺はローテーブルの上なんかにスマホを置いたのか?
 いやあのときは却って、柔らかいスウェット生地のポケットにスマホを入れておいては、そのほうが硬いスマホを腿に感じてよっぽど気になってしまうような気がしたのである。
 
「んふ…ククク…――俺から正常な判断能力さえも奪うだなんて、本当にいけない人」
 
 どうやら俺は自分の意思の固さを過信していたようだ。
 しかし、それも月下ツキシタ夜伽ヤガキ曇華ユンファに侵された精神では所詮脆弱なもの、所詮人間たる俺などでは、あの美貌の男神の力には到底勝てない、抗い切れない、いや、もはや抗うことさえも決して許されないのである――それはまるで神に定められた運命かのように――。…今考えてみればわかる、わかるじゃないか、目につく場所に置いておくほうがよっぽど
 
「…んふ、…あぁいけない、片付けておかなければね…、……」
 
 とりあえず散らかっているローテーブルの上の銀紙などゴミは、ローテーブル近くに置かれたゴミ箱に捨てるが、そこで俺はハッとした。
 
「…っ大変だ、……」
 
 自分の髪や体がタバコ臭いのではないかと。
 それで俺は出掛けにも浴びてきたが、念のためスマホと仮面を持って脱衣場まで行き――あるいはがどのタイミングで来るかもわからないからだ――、浴室で簡単にシャワーを浴びた(いやシャワー中に気が付いたが、パーカに臭いがついていたらシャワーを浴びたところで無駄なあがきである)。ついでにおいた。すぐであった。
 
 そのあと俺はパーカなど衣服をすべて着直したあと、改めて脱衣場の洗面台の前に立っていた。鏡の中の自分は、タオルドライ後の濡れて褪せた金髪の前髪の下、その目尻の垂れた切れ長のまぶたの下で水色の瞳を暗く翳らせている。またこの朱色のふくよかな唇には、ニヒルな笑みを浮かべている。
 
「…うん…今日もいいね。キマってる」
 
 いや我ながら愛らしい顔だ(恋をする人は自信家であるべきである)。
 あのカエル顔もこと不細工な中年イボハゲデブケグリなんか、到底俺のこの狼らしいシュッとした顔には及ばない(なおカエル顔の人でも可愛い顔の人はいるので、あくまでもカエル顔が不細工なのではなく、なのである)。
 
 思えば仮面で顔を隠さねばならないとは少し残念である。俺の186センチのスタイルの良い体はともかくとしても、この武器になり得る(イケている)顔を隠さねばならないとは……ハンディキャップといえば、そうだね。
 
 それこそこの顔ならユンファさんに(も)一目惚れをされたり、なんかしちゃったり…そんなことも十分あり得たのだが。
 まあそれ以外も俺は素晴らしいので、きっと大丈夫。
 きっとユンファさんからは、大なり小なりの好感を得られることであろう。
 
「……全くユンファ…愛してる…、貴方は俺の行動までこうやって操り、支配するというの…? ふふっ…、……」
 
 俺はそう独りごちながら前髪をかきあげ、もう片手に持つドライヤーで濡れ髪を乾かそうとした――そのとき、
 
 洗面台に置いていた俺のスマホが、独りでに電源を入れた。
 
 ――電話の着信である。
 見知らぬ「050」から始まる番号ではあったが、普遍的に仕事用としてよく用いられているその番号であったからこそ、俺の鼓動は急き立てられたように激しくなった。
 
 俺に電話をかけてきたその人が誰なのか、それは予想するまでもないことである。俺はドライヤーを慌てて手放し、床にガコンッとそれを落とした。――目の冴えるような鼓動に操られながら、俺は震えた手で強くスマホを取り、すぐさまその着信に応じる。
 
 
 
 
「ハッはイ、…っんん…はい、もしもし…――。」
 
 
 
 
   
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