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目覚まし草は夢を見る
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しおりを挟む俺たちは何か、レストランかカフェかの二階のテラス席に向かい合って座っていた。
丸い木製のテーブルを挟み、俺の対面に座っているユンファさんは頬杖をついて、ぼんやりと海の中へ沈みゆく赤い卵黄のような潤んだ夕陽を眺めていた。海沿いにある店らしい。店の前には広々とした浜辺と、そこに打ち寄せる波がいっぱいに広がって、とても開放感のある店だった。
そして彼の対面に座る俺もまた頬杖をついて、そのあわい橙色に染められた白く研ぎ澄まされた横顔を、うっとりと眺めている――。
ユンファさんはやはりとても美しかった。
すっと整った高い鼻、幅は狭いがぽってりと肉厚な唇は赤く妖艶で、真っ白な肌は陶器のようになめらか――凛々しい眉、涼やかな切れ長のまぶた、貴石のように美しく透き通った薄紫色の瞳。
ただ、俺が知り得る彼の容姿の中で一つ違えたところがあった。それは――ユンファさんのたおやかな黒髪が、恐ろしいほどに美しく輝く銀髪となっていたのだ。
そうだ。
ユンファさんはまさしく、清冽とした気高き銀狼というに相応しい姿となっていたのである。
ふっと見下ろした丸い木製テーブルの上には、端に立て掛けられたメニューブックの他には何もない。食事がまだなのか、あるいはもう済んだのかはわからないが。
ただ、そのテーブルの上に投げ出されたユンファさんの白い片手の甲の、柔らかく曲がったその長い指の――左手の薬指の根本に嵌った銀の結婚指輪が、夕陽の光を反射してキーンと鋭く輝いていた。
「…此処はとても綺麗なところだね、ソンジュ」
ユンファさんはぼんやりと夢見がちにそう言った。
「…そうだね。はは、気に入ってくれましたか」
俺はつい笑みをこぼしながらそう答えた。彼があんまり綺麗なのですっかり見惚れていたが、その陶然とした自分が今ハッと我にかえると、どうもおかしかったのだ。
俺は夢の中でこう思っていた。『美人は三日で飽きるとはいうが、俺は奇しくも、それが事実でないことを証明した一人の男となってしまった。俺はこれから先、どれほど時間が経とうがきっと、ユンファの美貌には敵わない。もう結婚して……ほど経つというのに、いまだ俺はふとしたとき、彼にぽうっと見惚れてしまう。一目惚れの初恋というのは恐ろしいものだ。これは抗おうにも抗えない自然、あるいは人知では到底かなわぬ魔力にも等しい魅力だ。』
「…ああ。君と結婚してよかったよ」
ユンファさんは夕陽へ顔を向けたまま、俺のことを見ないで淡々と静かにそう言う。それにはどこか無下な響きがあった。であるから俺は、ちょっとしたしっぺ返しの嫌味をいう。
「ふふ…九条ヲク家の俺と結婚したから、これほど綺麗な場所に来れたということ?」
俺が彼の左手の甲に左手を重ね――すると気が付いたが、俺の左手薬指にも、金の結婚指輪があった――からかうように聞くと、ユンファさんはチラリと切れたまなじりの横目、薄紫色の瞳で俺を見た。…彼もまたからかうような、強いての真顔である。
「本当にそれだけだと思っているなら、君の目はまた塞がれているよ」
「…はは…Darling,それはどうかな……ほら、俺の目を見つめて…? いつでも俺の目は開いているじゃないか。貴方の前でだけは、ね」
そこで俺の甘いセリフをより甘くするような、あたたかい潮風が吹いた。ここは南国かもしれない。
ふふふ、悪戯に目を細めて笑ったユンファさんの銀髪がさらさらと舞って、彼はその風に優しく釣られたよう俺へとその美しい笑みを向けた。――それからとても美しい、神妙な顔をする。
「…例え此処が安い居酒屋であったとしても、僕は今と同じことを言ったよ。これ以上の言葉が必要なら、やっぱり君の目は塞がれているね」
ふっと微笑んだユンファさんは、俺の左手を取った。
そして俺の四本指の腹に四本指を添え、彼は軽く持ち上げた俺の左手の――冴え冴えと光る金の指輪に、見惚れているような、愛を誓うような美しい伏し目を捧げている。
「…今日くらいはしっかりと目を開けて、全部一緒に見てくれないか。此処は、何もかもが本当に美しい……」
「もちろん見ているよMy Honey…今日も本当に綺麗だね。またつい見惚れてしまったよ」
「…いや毎日聞いてるよ、そのセリフ……違う、僕は僕を見ろと言ったんじゃない。僕は君に、この素晴らしい景色を……」
「当然でしょう。」
呆れて横目に目を逸らしたユンファさんはしかし、その目にキラキラした楽しげな明るい色を宿している。これが楽しい冗談の応酬だと熟知している、何ら不安のない目だ。
「何が」
「…こんなに美しい我が夫を前にしては、どれほど美しい景色も、いや、どれほど美しい何ものであっても、所詮貴方の美貌に添えられては全て……」
「はぁ……」
もうそれ以上は言うなとため息をつき、ユンファさんは上目遣いに俺を見た。大変愛らしいのだが、その目には冷めた呆れと、燃える恋心が混合して結果、赤紫色になっている。
「…僕はいつになったら慣れるんだろうか…? 不思議なことに、僕はまだ君のロマンチックなセリフに慣れていないんだ。なあ、こんなのは妙だと思わないか」
ユンファさんの凛々しい眉がはにかんで少し寄り、彼はふぅと高い鼻先からため息をついて、また伏し目がちとなった。
「妙…? というか、最近はあしらわれてばかりだ。寂しいよ俺は……ふ、クク…でも、今日くらいは素直に受け取ってくれないかな。今日は俺も目を塞がない代わりに」
「…ああ、善処はする」
にべもなき初恋の人の低い声に、俺はため息をついた。
「残念なことに貴方の善処は、大概反故と同義だ」
「世の政治家と同じ手口だとでもいいたいのか、君は」
俺はユンファさんの鋭い目付きに目を伏せた。
「そこまで悪しざまに捉えられては心外だな」
そしてこう思った。『もとより彼が外連味のない人だということはよくよく理解している。だが、ユンファがあえて俺を甘やかさず「善処はする」と答えるときは、大概「いや僕は努力はしたよ? でも結果が君のお望み通りとはならなかっただけだ」という屁理屈を添えられてあしらわれるパターンなのだ。』と――。
「…だが、以前の貴方の善処は、結果も伴っていたのだけれどね……、俺のこと、もう愛していないの?」
「…ダーリン。ふふ…愛してるよ、もちろん。」――拗ねてみればそこで誤魔化し、狡いほど美しい笑みを浮かべたユンファさんは、伏し目がちに顔を沈め、軽く上げた俺の左手の指輪に、ちゅっとかろやかなキスをした。
優雅な王子様然とした彼はまた、俺の金の指輪に目線を落とす。
ユンファさんの暗く深くなった赤紫色の瞳に、金の光がチラチラと映りこんでいる。
「…まあ、今日くらいはね…月は太陽の光に染められて、やっと輝けるものだから…。太陽と向き合っているときのほうが、月は月らしいのかもしれない。」
「おやおや、早速ロマンチックな俺の色に染まってくれたの…? 俺の色に染まっているユンファはいつも綺麗だ。You’re being naughty…ホテルに帰っても、その泰然自若を崩したらいけないよ、My king.」
「…………」
本意なげな伏し目がちで、ユンファさんは興醒めしたように口を閉ざした。
「……この夕陽くらい赤く染まるのだろうね。今夜は絶対にロマンチックなBlood Moonが見られるよ、ユンファ。ベッドの中、二人で見ようね。――だけれど、あまりに熱い時間のせいでLunaticになったら申し訳ない。それも全て美しい貴方のせいだ。」
と言う俺は、己の横顔に触れてくる橙色の光の根源を見ない。夕陽などよりそれに染まった月が見たいためだ。
「…今日は一人で布団の中に隠れてしまおうかな」
可愛らしく拗ねたユンファさんの唇がやや尖る。
しかし俺は冗談をこう返した。なかばは本音で。
「クク、新月の貴方が目覚めるのを待つこともまた、俺はやぶさかではないよ。もちろんその宇宙という布団に俺も潜り込むけれどね。もちろん待つよ、いつまでも…いや、ふふふ…――申し訳ない、一日が限界だ。」
「…全く……ふ、…そういえば君、今日は癇癪を起こさないで、随分いい子じゃないか」
ユンファさんはなめらかに話題を変えようと、ふっとからかう笑顔を上げて、ニヤニヤしながら俺を見る。これでも彼、ロマンチックな応酬では分が悪いと思っているらしいのだ。
俺はそのからかいを、ロマンチックで返す。
「ふっ…なぜ貴方との幸せなデートに、癇癪を起こしている暇があると思うのかな…? これでも俺は今朝からずっと忙しいのだよ……なぜなら俺は、隣のユンファの美貌に見惚れなければならな…」
「見惚れる見惚れないなんていうのは、別に義務でも仕事でも何でもないだろ。…ふぅ、まあいいけど。…ねえ……」
ユンファさんはキツく言い返すも、結局俺と目が合うなり目をとろんとさせ、美しい微笑を浮かべた。夕陽に火照ったような肌がとても艶っぽかった。
「…我が金狼よ…僕なんかと結婚して、君は本当によかったのか」
気高き銀狼のその髪が、そよ風に揺れて輝いていた。
その切れ長の目…その薄紫色の瞳にはその実質問などなく、確信と自信のみが芯を持ち、力強かった。
俺は鏡合わせに確信の余裕で微笑みながら、こう当然のこととして答えたのだ。
「聞くまでもないことだろう、我が銀狼よ――。」
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