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目覚まし草は夢を見る
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しおりを挟む俺の腿の上にのったピンク色のキャンディ、俺はそれのギザギザとした端を指で摘んで目線の位置まで持ち上げた。――このチェリー味のキャンディは、俺が好きなキャンディである。
モグスさんは信号待ちのタイミングで、丸いハンドルの上に両腕を重ね、そこに顎をのせると、隣の俺のことを横目に見た。車内には控えめな音量で、彼の好きなロックバンドの洋楽が流れていた。彼はそのアーティストが来日すると、必ずライブチケットを申し込むのである。
「もしかしたらソンジュの書いた物語が、誰かのそのひと粒になれるかもしんねえんだぞ。…結構夢があるだろ? なあ娯楽を舐めちゃいけねえよソンジュ、…あ、でもキャンディは舐めな。ははは…」
「……は…?」
しかし俺は娯楽を舐めているのではない(あとキャンディはガリガリ噛み砕いてしまうタイプだ)。
そもそもあの『夢見の恋人』だけは、自分だけのものにしておきたいと考えていたのである。キャンディに例えるのならとっておき、誰かとシェアするための大容量パックではなく、一日のご褒美に夜一つだけ口にするためものである。――しかしモグスさんは、俺のそのような保守的な考えなど知る由もないので、前の信号をその透き通った鳶色の目で見ながら、乾いて皮向けのした薄い唇をにっこりと笑みの形に弛ませていた。
「娯楽ってのはよ、なぁんだかまあ、優先順位が低く見られがちだよな。下手したら服より安いし? 本ならヤギしか食えないし? 自分の体を飾れるもんでもなきゃ、腹が満たされるもんでもない。有っても無くても困らないが、有るほうがまあ豊かだよな…なんてもんだと思われてる」
「…………」
俺は大人しくモグスさんの話を聞いておこうと思った。
実はのちに感銘は受けるのだがしかし、このときの俺はただ彼と水掛け論になるのを敬遠していただけである。
とりあえずキャンディの包装のギザギザを裂いてそれを開け、やや歪な球体の濃いピンク色のキャンディを口に含んだ。――このキャンディ、口に入れてすぐは人工的なチェリーの香りに思えるが、舐めてゆくと次第にみずみずしい、本物のチェリーのような香りになる。固形にするための砂糖や水あめの他に、本物のチェリー果汁をたっぷり使っているキャンディなのだ。
それを上あごに押し付けて、舌で丸い表面を舐める。どことなく水っぽいくらいの味は甘酸っぱい。バリがあって少しザラつきがある。まだ歯は立てなかった。
「でもよぉ…人ってのは、感情が満たされたときに、やあっと幸せを感じられるもんなんだ。例えば心が満たされないからって服をしこたま買っちまう人は、結局ああ見えて幸せじゃない。だから要らない服でも買っちまう。例えばストレスがあるからってドカ食いしちまう人も、結局は心が満たされないから、心のスキマを埋めよう埋めようって美味いもんをとにかく食っちまうんだ。つまり、うちっかわにある感情ってもんを満たそうとして、そういう風になっちまう人もいるわけだ。……」
そこで段階なく車が再び動き出す。
揺れもほとんどなくなめらかに動き出した車の中は、初冬の夕方ともあってもう蒼く暗い。
「そういう人のことを餓鬼っつーのよ。生きながらにして地獄にいるようなもん。…可哀想だろ? でも娯楽ってのは、そんな人の感情でも満たせる可能性のあるもんだ。服よりも安くて、飯よりも身にならない――そうだとしても娯楽は、人の役に立つもんなんだぜ。…下手すりゃ、飯食うより服買うより人を幸せにできるポテンシャルがあるわけだ。やー、コスパ最高っ」
「……、…」
ぴゅぅ、とモグスさんが楽しげな口笛を吹く。
しかしいつ言い出したものかと俺は、機会には耳聡くなりながらも仏頂面で、シートの背もたれに後ろ頭をトンとぶつけた。――すなわち俺は、自信がないだ勇気がないだという意志薄弱な理由であの『夢見の恋人』を、作家としての取っ掛かりにしようという気がないのだ。…と、モグスさんには勘違いされていたのである。
彼は元来から闊達な人なのだ。であるからこのときの彼は、根暗な俺がそうして意気地なく躊躇っていると勘違いをして、ひとつ俺の背中を押してやろうとしていた。
しかし一方の俺は、とりあえず今のところ胸に畳んではいたものの折を見て、そうじゃないんだ、という話をしたかったわけである。野望がないのではなく、勇気が出ないんでもなく、聖書とも思うほど神聖なあの作品だけは、その俗世的な自らの野望で穢したくはないのだと。
「人を変えようとなんかしなくていい。別にお前の小説で、その人の人生が変わらなくたっていいんだ。娯楽ってのは別に、ひと粒のキャンディでいいんだよ。その人のおやつ、人生のひと時の彩り、それで十分なんだ。――音楽だってそうだろ? ノリノリの気分のときはロック。かなち~気分のときは、バラードってな具合よ。彩りだ彩り。」
「…………」
おやつね。これで俺を煙に巻くつもりなんだろうか。
俺は苛立ち、口の中のキャンディを奥歯で噛み砕いた。
ガリッと力強く俺に噛み締められたキャンディを、ガリガリと更に細かく噛み砕くと、それは床に落とされたガラス細工の破片のように、俺の舌の上にバラバラと広がった。
俺はあの作品を人のおやつになどする気はない。意固地な執着なのかもわからないが、聖書に頓着のない信者のほうがどうかしているだろう。
「んで、そのキャンディでちょっとだけ潤った誰かの心ってのは、ほんのちょびっとだけやさーしくなってる。――すると今度はその誰かが、また別の誰かの心を癒やす言葉を言ったり、やさぁ~しい行動をするかもしれない。」
「……、…」
しかし、事実俺の気持ちはこのキャンディに満たされていた。まるで俺はこの冬である。本当は色など褪せて寂れた灰色のくせに、エゴでイルミネーションを飾っている。
学校帰りのひと粒――勉強のみならず、人疲れの避けられない集団生活に疲弊している俺の体――まやかしの砕けたガラスでキラキラ光る言葉を紡いだ俺の舌は、消耗していた。だから口数が少なくなる。
しかし、同じガラスの破片のようでも似て非なるもの、甘酸っぱいキャンディという潤いは、疲れた俺を少し慰めて癒やし、確かに俺を甘く満たしている。
嘘の言葉も使いようか。
作品となれば、真実を満たせる何かがある――。
モグスさんはしたりと自信ありげに口角を上げ、オーディオの音量のつまみを回して少し上げた。ちょうど彼の好きなバンドの曲の、ギターソロが猛々しく車内に広がった。
「連鎖していくんだ。誰か一人でもお前の作品で心が潤えば、その誰かもまた、誰かの心を潤すかもしれない。で、その誰かもまた誰かを潤して…――幸せの循環ってのはよ、ちっちゃなひと粒のキャンディから始まることもあるんだ。情けは人の為ならずってね。」
「……なるほど」
すると突然俺は、屈託なくひらめくように、モグスさんのその言葉に感銘を受けた。
彼の言葉にもまた何かしら俺の見ていたい夢があった。俺の心に漂っている光に近い夢が、彼の言葉に後押しを受けて光を強めた。
「人生の生き甲斐ってのは、そうやって見つけてくもんだぜ、なあ坊ちゃん。ライスワークとは別に、ライフワークがあったっていいじゃないの。…大きなことなんか無理してやらなくたっていい。身近で小さな幸せを、狭い範囲でも人に与えりゃ十分いいんだ。そうすると巡り巡って、ソンジュも幸せになれる。――なあソンジュ、小説家になりたいんだろ?」
「…まあ…うん……」
モグスさんはよほど両親より俺の側にいてくれる人である。まして、この頃は下校途中に本屋へ寄ってもらうことも頻繁だった。――そして、その上であの『夢見の恋人』を執筆に熱中していたわけだから、モグスさんにはすっかり俺のその夢は見抜かれていたのだ。
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