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目覚まし草は夢を見る
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しおりを挟む曇華一現――ならぬ、曇華一現。
三千年に一度、御仏がこの世に顕現するときにのみ咲くという伝説の花、曇華(あるいは優曇華)――その花はかの月下美人であるとされている。この四字熟語は、かなり稀有なことが起きたときの例えだ。なお、大概はポジティブな意味で使われる。
諸説あるが、まあいうなれば奇跡を目の当たりにしたときに、その三千年に一度しか咲かない伝説の花をお目にかかれたと――その花を依代にした御仏が目の前に現れた、御仏をこの目で見られたと――いうほど、有り得ないが素晴らしい奇跡が起こった、というような、曇華一現にはそうした驚嘆のニュアンスがある。
曇華一現とは我が意を得たり、これほどあの正夢に似合いの言葉もないことだろう。
奇跡を、運命を、美神を、夢をあの日にしかと現で見た俺は、翌日からいよいよ本格的に、底しれぬ熱意に突き動かされた衝動のまま、はりきってあの『夢見の恋人』の執筆をはじめた。
…というよりかは彼との正夢の記憶、己の夢想、そして十二のときから書き溜めていた夢日記も合わせて、その関連した一つの夢をつなぎ合わせて現の形に現し、一つの作品として整え、統合させた――とでもいうべきか。
そして俺は、その執筆と同時進行でしていたことがある。
それは、小説を執筆するための勉強だ。
まずは国語辞典を丸暗記してみた。
脳に丸ごと辞典を埋め込むようにして語彙を学んだのだ。まあそれに関しては、俺にとっては割に簡単なことである。俺は見た映像をそのまま、脳内に保存することができるからだ(ちなみに俺は人よりは記憶力も良いほうだが、強いて記憶しておきたい、あるいは殊に印象的すぎて忘れられない、というのでもない限り、日常的な記憶に関しては当然のことながら次第に忘れてゆく)。
夢を叶えるための取っ掛かりとして、そうしてまずは語彙を増やしてみたはいいものの――努めたそれが無駄になったというわけではないが――ただし俺は結局、その分厚い辞典の丸暗記ののちにやや相反した、小説家の矜持として一つ信条というか、ちょっとした一つの持論を持つようになった。
それは何か。――俺が思うに、小説にもっとも重要なのは語彙力ではなく、表現力だ。ということである。
であるから俺は、作品にあまり難しい単語を用いない。
もしくは予想される読者の年齢層に合わせたものを使う。あるいは用いたとしても、それの意味を解説する。
言葉というものは、人に理解されてこそ大いなる意義を成すものである。
ましてや、小説とは文字のみで人のイマジネーションを刺激し、楽しませなければならない娯楽である。となると直感的に伝わる単語こそ好ましいのであって、意味のわからぬ単語を流し読みされては作者の真意を伝えることが叶わない。
そして人は、わからない単語ばかりが出てくる堅苦しい小説など、まずつまらないと思うものである。
であるから読者の背伸びはできる限り、ある程度のところで留めたい(なお、ある程度というのは人によって、読書で知らない言葉を知る喜びを得たい人もいるのと、人の知り得る語彙数はさまざまなので、完全には不可能だからだ)。
例えば常に背伸びの姿勢で踵を上げたまま過ごせば、アキレス腱もふくらはぎも疲れ果てて痛むように、そしてその無理のある姿勢は長時間保つことが難しいように、少なくとも常に背伸び、というのは避けねばならない。
読んでいて疲れる作品は読者のスタミナ切れを起こさせ可読性を下げるばかりか、そうして無理を感じながら読んでいる読者では、――大概の作家が読者に望んでいる――ある種の没入ゾーンへは引き込めないものである。
そのゾーンというのは要するに、読みたいから読んでいる、読みたくてたまらないから勝手にページをめくる手が動く、読みはじめたら時間を忘れていて、気が付いたら窓外の色が変わっていた、いや、いっそ読んでいるという感覚すらない…などといった、いわゆる没入感と呼ばれるものだ。
まあ結局は、その没入感へ引き込む表現のためにも語彙力は必要になるのだが――予想される読者層に合わせ、活字慣れしている者ならわかる言葉と、そうではない者がわかる言葉を見極め、使い分けなければならない――、とにかくどれだけ読者の頭の中に、自らが描いている物語をなめらかに広げられるか……それに至るには、傍らの国語辞典など邪魔になるだけだ。
理想として読者の両手が持つべきものは、ほとんどの場合、開いた本のページのみである。
俺はそのような信条をもってして作家活動の裾野を広げ、そして今に至っているのだ。
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