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翳目 ※
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しおりを挟む「――? おい、な、なんだ、…なんか変だぞユンファさん、本当に大丈夫かい…?」
モグスさんは僕の異変にか、慌てた様子でそう僕のことを心配し、確かめてくださる。――が、僕は俯いたままに浅く、何度もコクコクと頷くしかできない。
「…あっ…ああごめんね…? まだ爪が長くなっていることに慣れていなくて…俺、今“狼化”しているんだったよ…――ごめんねユンファさん…? 痛かったですか…」
そしてわざとらしく、今気が付いた、というふうに反応しているソンジュさんは、今しがたまで爪を突き立てていた僕の腰を、やはり優しく撫でさすり続けてくる。
「…大、丈夫…です……」
それが余計に怖い。――それこそ今の“狼化”したソンジュさんならば、もはや道具など必要ないことだろう。
大きくなったその体と強い力で僕のことをねじ伏せ、鋭利になったその爪で容易く肉を切り裂き、大きく尖ったその牙で骨を噛み砕き…僕を殺すことくらい、それこそ今のソンジュさんにとっては赤子の手をひねる程度のことだ。
――目を喰らうのだって先ほどのように、ただ僕に噛み付けばそうできたのだろう。
“「…自分でも恐ろしいんだ…。突然激しく湧き起こってくる衝動が、どうしても抑え切れないときがあって…――いや、被害者面するつもりなんかないんだ、…でも…いつか俺、あるいはユンファさんを……」”
あるいは…殺されて、しまうかもしれない――。
「…以後気を付けますね…?」
「……、…、…」
僕の目がくらくらと揺らぎ、つー…と嫌な冷や汗が、僕の強張ったこめかみから頬へと伝ってゆく。
「いやユンファさん、正直大丈夫には見えねえよ、…顔真っ青だぞ、体調悪いんじゃないの? もう話し合いなんて明日にしてよ、とりあえず今日はもう、ゆっくり休んだらどうだい……」
モグスさんがそう心配してくださり、彼は続けて、「今日はいろいろあってドッと疲れただろうしな、無理したっていいこたないからよ」と、僕を優しく諭した。――あ。
「……、…」
そう…か。
そうだ、部屋。――休む。
それだ…僕ははたと気が付き、ふっと顔を上げた。
「……そう、ですね…、ちょっと、もう休ませていただいてもよろしいでしょうか…」
「おお、おぉそうしな。」
するとモグスさんは、頼もしく微笑みながらコクリと頷いてくれた。…よかった…僕は顔を伏せながらできる限り、さりげなく確かめてみようと思っている。
鍵がかけられ、一人になれる部屋はないだろうか。
もしそのような部屋がある場合は、その部屋を一晩お借りしてもいいか。
上手くいけば僕は今夜ばかりでも、比較的安全に過ごせるかもしれない。――それにもし、仮にモグスさんがその部屋へ何か…たとえば食事なんかを持ってきてくださる、ということが起きたら更にいい。
そうしたらモグスさんと二人きりになれる。
そうなれば僕は、ソンジュさんの癇癪のことをモグスさんに話し、相談することもできるからだ。
「…ただ…あの、できれば一人で、ゆっくりしたいんですが……」
いや、僕はもちろん、ソンジュさんと話し合いはするつもりだ。…そして、もう逃げるつもりなど毛頭ない。
だが、正直今のソンジュさんと二人きりになることは、どうしても怖い。…何より彼もまた、少し一人で落ち着いた時間を取ったほうがよさそうな気がするのだ。
そもそもどのみち話し合いは、明日にするべきだとも思う。――というのは、
「あとすみません…よ、抑制薬をいただけませんか…? その、皆さんにご迷惑をおかけしてしまいますので……」
今はまだ、ある程度思考能力も失われていない僕だ。
それでもやはり、オメガ排卵期の症状は今夜から明日にかけて、どんどん悪化してゆくことだろう。――そして、抑制薬を飲まないまま明日を迎えてしまえば、僕はいよいよ馬鹿そのものになってしまうことだろう。
が…逆に、今夜のうちに抑制薬さえ飲めれば、明日には何事もなかったようになる。――ソンジュさんの今の状態と、僕自身の今の状態を鑑みれば、やっぱり話し合いは明日にするべきだ。
いや、しかし明日には、レディさんたちが来るのか――彼女たちが何時に来るかはわからないが――、まあ何にしても、とりあえずは身の安全の確保が先決だろう。
「おーそりゃそうだよな。オッケわかった、それもすぐ持ってきてやるよ。…いやー実はさ、ユンファさんの部屋もちゃんと用意して……」
「駄目だよ。」
ここまで何も言わなかったソンジュさんが、低く威圧的な声でそう、モグスさんのおちゃらけた声を断じた。
「…今彼、かなり精神的に不安定なんだ…――今ユンファさんを一人にしてしまったら…万が一、ということあるかもしれませんでしょう…?」
ソンジュさんのそれはかなり冷ややかな声であるが、聞きようによっては、かなり冷静な意見を言っているようにも聞こえる。
「…あ…? あぁ、まあ…それもそっか、…うつ病ってのは、ちょっとした時間に何すっかわからねえからな…ふっとこう、魔が差すっつーの…?」
「…まだうつ病かどうかはわからないけれどね…、だけどしばらくは、安牌を取るべきかと」
「……、……」
やっぱりソンジュさんのほうが上手だ。
どうしたって僕は、ソンジュさんと二人きりになるしかないのだろうか――頭を使え、頭を、…いや…そもそも馬鹿な僕なんかが、ソンジュさんの頭に敵うはずがないだろ…。
僕は何をどう言ったらよいのかもわからず――どうすれば思い通りの展開へと持っていけるかなんて、自信喪失の後じゃ尚わからない――ソンジュさんとモグスさんのこの、相談の形で続いてゆく会話を聞いているだけになっている。
「…あーじゃあ、…どうするよ…?」
「大丈夫、俺が側にいるよ…。もちろんユンファさんに無理はさせない…、このベッドで休めばいいじゃないか…? 何も、わざわざ別室に移動するほうが辛いだろうし……」
「…いや、なあソンジュ、まあそりゃあいいんだがよ、…ま、間違っても、変なことはすんな…?」
「…変なこと…? それは、一体何のことを指しているのです…?」
「なん、つーか、…あーなあソンジュ。やっぱリビングで話したらどうだ? そのーほら、体調悪いなら飯も食ったほうがいいだろうし、二人になったら結局話ししちまうんだろうし…まーお互いに? 不安定なんじゃないのかい、今は……」
モグスさんはきっと、せめて自分の目の届く場所で…というふうに、僕のことを案じてくださっている。――いやチャンスかもしれない、僕はさっと顔を上げ、「リビング…」と言いかけた。
「……ッ!」
だが…――また、今度は僕の片方の尻たぶを、ぎゅうっと強く握り締めてきたソンジュさんに、僕は深くうなだれる。
「…駄目だよ…、ユリメさんの茶々が入っても困るからね…。今から話し合うかもしれない内容は、とてもセンシティヴなことなんだ。――ユンファさんだってきっと、モグスさんたちにその内容を聞かれたくはないだろうし……何より、ユリメさんがいたらユンファさんは、休むも何もなくなってしまうだろう…?」
「…あぁ…そ…。まあ、そりゃ確かにそうか…いや、ただ変なことすんなよほんとに……なあユンファさん、最悪は逃げなさい。――この部屋出て大声出してくれたら、俺たち気が付けるからよ…」
「…は、はい……」
僕は果たしてこのソンジュさんから、逃げ、られるのだろうか…――。
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