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愛する瞳
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しおりを挟む「……、…、…」
「………、…」
ソンジュさんは何も言わず、…す…とゆっくり、僕の肩から手を浮かせて、引いてゆく。
「…おぃソンジュぅ、なぁに泣かせてんの?」
するとカーテン越し、運転席からモグスさんが、どこかおどけながらもソンジュさんを責めるように言った。――彼、ソンジュさんの執事というわりに、かなりフランクな呼び捨てにそういったタメ口だ。
「…イチャイチャしてると思ったら、全く…なあボク、好きな人泣かせるなよ」
「…もっモグスさん…あの、余計なことを言わないでくれないか…」
ソンジュさんはどこか焦った声を出すが、モグスさんはまるで、彼を叱るお父さんのような態度で続ける。
「なに? 余計なこと? ――お前ねぇ、…まーったく、下ッ手くそなアプローチしたんじゃない? なに、まぁた…なんだっけ? 恋人契約だなんだっつって……でも今回だけは、ちょっとボク的にいつもと違うんだろ。」
「っおい、やめてくれって本当に、おっ俺にも、…いろいろ事情が、…あるんだから……」
「………、…」
事情。――僕はふっと隣を見る。
ソンジュさんの横顔は前のカーテンに向けられ、恥ずかしそうにしかめられていた。――そのなめらかな痩せた頬がはにかんだ少年のようにじゅわりと、赤くなっている。
「…………」
いや、だからといって僕は、これで彼らを信じられるわけじゃない。…モグスさんはソンジュさんの執事だ。なら、これも彼らのその、何かしらの計画のうちの一つなのだろうとも考えられるだろう。――いやに手の込んだ計画のようだから、これくらいの会話や表情で信じようなんて、それこそ馬鹿だ。
「…なぁんだよっとにぃ~、なぁにが事情だよお前。…ボクちゃんはただ素直に。シンプルに。貴方が好きなんです、恋人になりたいんです、とも言えないってのか。…おいおい~俺ゃそんな子に育てた覚えは…」
「っお、俺なんかが、…というか、…そ、それは……」
「何? ほんっと…本気と書いて、本気で好きなんだろ?」
「……だからっそれ、それは、だから…、ぃ、いきなりそんなこと言っても、…混乱させて……」
僕の隣でソンジュさんが、前にかかったカーテンの向こうでモグスさんが、…まだそんな僕をそそのかそう、ほだそう、騙そうという会話を続けている。――演技に決まっている。…あんなに狡猾で、頭がよく余裕たっぷりな大人のソンジュさんが、これほどうろたえるはずがないだろう。色恋ごときでうろたえる、三十代がいるか?
「…………」
いいや――。
僕は猜疑心によって心を完全に閉ざし、俯いている。
別に、そんなあたかも本当に僕に惚れているようなことを匂わせる会話をしたって、僕はもう騙されない。――たしかに僕は大馬鹿者で頭は悪いが、…経験という知恵くらいはある。……モウラに騙され、もてあそばれた経験は、ある意味で僕を少しだけ賢くしたのだ。
「…も~。四の五の言わずに、言っちゃえよソンジュ。ユンファさんに、シンプルに――好きだ、愛してる、結婚してくれって。…そっちのほうが上手くいくと思うけどねぇ~おじさんは……」
「やめっ! なに、…何を言ってるんだよ! ほんと、やめろって…、も、もう黙れよモグスさん、…」
「……、…?」
何…いや、――いや…聞き間違いというか、…モグスさんが大げさに言っただけだろうか。…これも僕を信じさせようという演技に違いない。け…結婚。なんて、まさか。
「別にさぁ、交際ゼロ日婚とか結構よくあるじゃん。…案外上手くいくかもよ?」
「い、いくわけないだろ…、ていうかそんなのほとんどない、かなりイレギュラーな…」
「…じゃあなんで婚姻届なんて俺に用意させたの? 少なくとも一週間以内に、ユンファさんに本気のプロポーズするためなんだろ、ソンジュ。…お前なぁ~一週間もゼロ日もほっとんど同じようなもんだぞ。」
「……、…、…」
婚姻…届。
婚姻届…? 婚姻届――って、…結婚するときに役所へ出す、…婚姻届か?
いや、…ちょっと、――正直、着いていけない。
もちろん疑いたい気持ちはまだ全然あるのだが、衝撃を受けてこんがらがった今の僕の頭では、その疑う気持ちの理由を理路整然と構築することができない。
「…じゃああの結婚指輪は?」
「あああぁ! 言わないでくれ、…」
「……ッ、…、…」
吹き出しそうになってしまった、けっ…結婚、指輪。
ちょっと…ちょっと、――もう本当に、頭がパンクしそうだ。…嬉しいとかそうではなく、…シンプルにこの会話が理解できず、分析もできず、分解して飲み込むこともできない。
「あれ高かったよなぁ~ソンジュぅ。…いやーシンプルなデザインのわりに、素材にこだわったからか…」
「おい、っほんっといい加減にしろよモグスさん、…」
「…………」
しかもた、高い…結婚、指輪。
いや、いや、――お金持ちのソンジュさんに、高級な結婚指輪というのが必ずしも特別なものかどうかは、わからないだろ。…というか、本当にそんなものを用意したのかどうかも怪しい。
「…じゃあどうすんだソンジュ。――一週間で、ユンファさんがじゃあ契約は終わりなんでって帰っちゃったら? バイバ~イ。そうなったらさみちいねえ~ボクは。」
「かっ帰さないよ、なんで…かえ、帰すわけないだろ、あんな変態のとこになんか、…もう絶対、二度と帰さない…」
「……、…」
か…帰すわけ、ない?
一週間で…帰すわけない――僕を、ケグリ氏のところへ返さない。…一週間じゃ返さない?
いや…――二度と、返さない。
「…ところで坊っちゃん、今日はどこにつける?」
「駐車場に決まってんだろ。…そんなこともわかんねえのかよボケジジイ。」
「…えぇえ~、そぉんなキツい言い方する必要ないだろぉ、まぁったくぅ……」
「…ふんっ…」
「…、……、…」
婚姻届。結婚指輪。一週間じゃ返さない、…二度ともう、ケグリ氏のところへ僕を、帰さない。
「……~~ッ」
駄目だ、ちょっと、本当に、…――もう僕は、何が本当のことで、何が彼らの嘘や冗談の類なのか、…本当にもう、よくわからない。……僕って本当、馬鹿だよな、…混乱してしまって、何もこの状況を論理的に処理できないのだ。
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