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月下美人はおかしな夢を見る
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しおりを挟む「…食欲はないし…、うーん…そうですねぇ、――コーヒーも所詮、ミルクや黒糖なんかじゃごまかしは効かないでしょうから、期待できませんし…」
「はあ…、では、お紅茶なんかもございますが」
注文を決めあぐねているらしい男性にケグリ氏はやや苛立った様子で、そのでっぷりと太って突き出ているお腹でブックエンドに立つ黒いメニューブックを、少しこちら側へ傾けさせながら――その左手には長方形、手帳サイズの黒いバインダーを(伝票が挟まっている)、もう片手には黒く艶のあるボールペンを握り、そのボールペンの尖った細い先はすぐに注文を書けるように、バインダーのほうへと翳している。
「……、……、…」
僕の謝罪は聞こえていなかったらしい。
あるいは無視されたのかもしれない。――それもいつものことといえば、そうだが。
ちなみに、普段このカフェで注文を取るのはいつも僕であり、マスターはよほどのことがない限り自分で注文を取ることはしないのだが…――今回はどうやら、よほどのことであるらしい。
「…困りました。…本当に、メニューは先ほどのものですべてですか」
「ええ、そりゃあもう…全部ですが」
「そうですか。…」
ふ、と顔を上げて見れば、…ケグリ氏を、この席までわざわざ呼び付けた男性はもちろんもう腕を下げていた。
そして、まだいくらも残っている先ほどの注文品、つまりその冷めてしまったホットコーヒーの、そのコーヒーカップの取っ手を右手の指で優雅につまみ持ち上げながら、「そうですね、どうしようかな…」と…高い鼻先にその白いカップを寄せつつ、――「よし、決めました。」と彼は静かな声で、こう注文をしたのだ。
「…ではマスター…今貴方のチノパンのポケットに入っている、何かのリモコンのスイッチを、ちょっと入れてみてください。」
「…はっ?」
そのギョロリとした目をさらに大きく、目を見開いて驚いたような表情をするケグリ氏は、澄ましている男性へとその黒目をやっているが、――一方の男性は素知らぬ顔をして優雅に、白いコーヒーカップをそのふっくらとした唇に軽くあてがい、少しそのカップを傾けて中のコーヒーを音もなくまた一口飲んでいる(さっきはあんなに遠慮なく彼、それを不味いと言っていたはずなのだが)。
「い、いやぁ、そんなものありません、何を…」
「…あぁなら、私がマスターのポケットに手を入れても構わないでしょうね。――ふ、無いものは無いはずなのですから…」
「…………」
慌てて嘘を言ったケグリ氏は、その薄眉をそこらへんの筋肉でばかりひそめ、鼻で彼をせせら笑った男性を睨み付けた。
しかし、余裕で男性はまた静かに白いソーサーへとカップを戻し、左手でケグリ氏のチノパン、サイドポケットあたりの長方形の膨らみへと触れた。
「あっ…おやめくださいよ、…」
「…失礼。私は目が見えないものですから…」
ビクリとしたケグリ氏は慌ててそれを避けようとし、しかし、後ろにある別の座席のテーブルにその大きなお尻をぶつけて阻まれ…――その間にも男性の、そのなめらかな象牙色をした大きな手は、何かとても優雅な手つきでそのあたりをするすると撫でたり、その指の先で、小さな長方形を黒い布の上からつまんで形を確かめているようだ。
「…おや、これはなんでしょう…? ――おやおや、何かとても硬くて四角いものが、貴方のポケットに入っていますね、マスター。…」
「いっいやぁ、これは、…」
「なるほど、七、八センチはあるかな…、タバコの箱にしては硬くて小さい…、しかし、マッチ箱にしては大きい…――なんでしょうか、これは。…」
ガタ、ガタ、とのたうつ太ったドドのように、前後のテーブルを揺らして慌てているケグリ氏と対比する、このわざとらしい余裕のある態度――この男性は、やはりただ者ではない。…また、先ほど引いたようにも見えたが、その実そうではなかったようだ。
彼はおそらく、曖昧な返事ばかりの僕を追求するだけでは物足りなくなり――いよいよケグリ氏のことを激しく追求するために、こうしてわざわざ彼を呼び寄せたらしいのだ。
「――ふっククク…まるでこれは、何かのリモコンのようだな…」
不敵な笑みをゆるゆると振る男性――ケグリ氏はおどおどしながら背後、横、男性と視線とともに焦りの顔を動かし、「いや、これは、その」としどもどしながら。
「…あっこれは、いや忘れてました、そう、これは照明のスイッチですよ、店内の照明をこれで調整してるんです、…」
と、どうせ全てが見えているこの男性に嘘をついたところで暴かれることは、今までの僕と彼の会話でもうわかっているだろうに、ケグリ氏はまたそうして見え透いた嘘をついたのだ。
そして案の定、するりと左手を引いた男性は、その手の指先をソーサーへと添え、そして涼やかに、――慌てるケグリ氏と、こうした押し問答を始めた。
「…あぁ、なるほど。でしたら、多少スイッチを入れ替えしても差し支えありませんね。――幸い、このカフェの唯一の客である私は目が見えませんので、照明が消えても驚くことはありませんから。…どうぞお気遣いなく」
「…い、いやぁ、そういうわけには…」
「そうですか? では、それをちょっと私に貸してください。その実私には、気になり始めると止まらない、困った男のサガがありましてね。」
「…いや、さすがにお客様へ店の備品をお貸しするわけには…」
「…そうですか。わかりました。では、私の父にこの店のことを、私からよろしく伝えておきましょう。――客の我儘な要望にも逐一応えてくださる、まったく大変素晴らしい店でした、とね。…もし父からのお礼状がこの店に届いたとしても、どうぞ驚かれることなく。…ご自分の素晴らしさを噛み締めながら、堂々と胸を張ってお受け取りください。…」
「……、……」
ケグリ氏と男性の押し問答は案外続かず、男性のこの言葉であっさり終わりを迎えた――。
ケグリ氏が、彼にこう言われた途端さっと顔を青ざめさせ、目を白黒させながら、その厚く横に広い口をあんぐり開いているというのに黙り込んだからだ。――いや、言葉を失ったのか。
つまりいま涼やかに、眉の一つも動かさないでまた、コーヒーを優雅に飲んでいるこの男性の、あの皮肉めいた狡猾らしい言葉は、なにかしらケグリ氏にとって脅し文句となり得るものだったのだろう。
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