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77 夢幻を語らう

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 それから俺は、狼の里が雪山に囲まれている場所だ、ということも話してみた。
 冬に一番降るときは腰の位置まで積もる、その白く冷たい雪の話をしてやると――ことにユンファ様は、その目を丸くして笑った。
 
「…えぇ、雪が腰まで? ソンジュの腰まで積もるのか? それは凄い」――いわくユンファ様は、格子越しの庭に積もる雪しか見たことがないと。…そして、五蝶の雪は降っても少しで、ほとんど積もらぬのだという。
 
「…僕も格子から手を出して、雪に触れたことがあるよ。…凄く冷たかったな、でも…――近くでよく見ようと手を引いたときには、もう溶けて水になっていたんだ…」
 
 そう少しガッカリした顔をするユンファ様に、俺は何とも胸が締め付けられる思いこそあれど、また微笑んだ。
 
「…それは…ユンファ様の手のぬくもりに、雪が溶けたのでしょう。」
 
「…そう…。そうだったのか。――何でも知っているんだね、凄い。ソンジュは物知りだ。」
 
「……ふふ…、まあ狼の里では、人のぬくもりなど歯が立たぬほどの雪が降りますが…、…」
 
 無垢な少年のように微笑むユンファ様の、何と可愛らしいことか。――雪がぬくもりに溶けるということなど、いわば誰しもが知っている。俺が特別物を知っている賢者、というわけでもない。
 しかしユンファ様は、いわく文字は読めても――ほとんどが、色恋を描いた物語ばかり読まされていた。
 
 何も知らぬのは当然――世に出ている俺が、特別物知りなように見えるのもまた、当然のことだ。…だからこそ俺は、俺が物知りなわけではない、などとは言わなかった。
 それは自分の誇りのためでもなく、また、そのように言われたことが嬉しかったというよりも――そう言ってしまえばむしろ、ユンファ様を無知だと貶めるように思えたからだ。
 
 
 それから…――この夜にユンファ様から、話をしてくださることもあった。
 
「…さっきも言ったけれど…――僕はあの小屋で、たまに妄想をしていたんだ」
 
 そういたずらに笑ったユンファ様は、少し照れ臭そうに月を見上げた。
 
「…本当に、信じてもらえないかもしれないが、本当にソンジュそっくりの狼が、あの小屋に来て――小屋の格子の前に立ち、僕を見初めてくれるんだよ。…それで、あそこから僕を連れ出してくれる……、はは、というより、僕をこっそり攫ってくれて……」
 
「……ふふ…」
 
 ニコニコと無垢な横顔が、とても美しい。
 
「…その狼は、僕に、二人で逃げようって…。ユンファが好きだ、誰よりも大好きだ…、君は綺麗だ、僕にとっては誰よりも美しいよ…、僕だけは君を愛しているよ、本当に、大切に想っているよ…――それに僕は、ずっと君のことを密かに見ていたんだ。…本当は、淫蕩なんかじゃないんだろうって…言って、くれて……」
 
「……事実、そうではありませんか…」
 
 俺がそう言うと、ふふ、と困ったように眉を寄せて笑うユンファ様は、その顔を伏せ気味に――そのことについては、何も触れず。

「……それで、僕のことをあそこから連れ出して、その人は外の世界を…さまざま優しく、まるで幼子のように何も知らぬ僕に、何でも。嫌な顔せず、何でも教えてくれてね…――そう、今のソンジュみたいに。…」
 
 そこで俺に振り返るユンファ様の顔、笑みを浮かべて、その薄紫色の瞳をキラキラさせて、俺のことを見つめてくる彼は。

「僕はきっと、ソンジュと恋に落ちる運命だったんだろうね。…もしかすると、あの妄想はただの妄想ではなく、神様からのお告げだったのかもしれない」
 
「…そうかもしれません」
 
 するとこくり、「うん。」と頷くユンファ様は、更に楽しそうに言葉を継いでゆく。――俺の目を恥も何もなく、ただ嬉しそうに見つめてくるのだ。
 
「…だから僕は、僕の夢の中にいる狼と、ソンジュが同じことばかり言ってくれると、本当に不思議な気分になるんだ。…夢を見ているみたいだと、嬉しくて、幸せで…――ソンジュの側にいるだけで、僕はまるで、夢の中にいるような、そんな素敵な心地になれる…。……」
 
 しかし、それきりユンファ様はその笑顔を翳らせ、ふるりと顔を横に振り――淡く微笑んで、困り顔をする。
 
「…ごめんね、でも…本当に、一緒に逃げることは……」
 
「…わかっております、ユンファ様……」
 
「…………」
 
 すると彼は何も言わず、淡い笑顔ながらも、その目を潤ませた。――俺が「ユンファ様」と再度名を呼ぶと、彼は「ソンジュ、どうか」と言いながら、泣きそうな顔をして、また月を遠く眺めた。
 
「…もう眠れなどとは、言わないで……」
 
「言いませぬ。…――そういえば、蝶は本当に、果実や花の蜜のみを食して、生きてゆかれるのですか?」
 
 俺が、そう助け舟を出すよう話を変えるとユンファ様は、にっこりと嬉しそうに笑って俺へ振り返り、「うん」と頷いた。
 
「…蜜のみを飲み込み、果肉や、花びらは吐き出すほかないんだけれど…――しかし聞くところによると、それらは畑の肥料となっているそうだ。」
 
「へえ…、意外と、と申しましたら失礼ながら、蝶族もまた、理に適った生活をなさっているのですね。」
 
「…うん。狼は何を食べるんだい?」
 
 にこやかに首を傾げたユンファ様に、俺は怯えやしないか、と少し恐る恐るながら。
 
「…ぁ…まあさまざま、何でも食いますが…――主食は、肉、でございます。生の…」
 
「……あぁ…、肉…」
 
 目を点にした彼は、ややあって――ふふ、とまたその美しい顔を、無垢にほころばせた。
 
「そう。…生の肉が美味しいのか。僕は一度たりと食べたことはないが、きっと美味しいんだろうね。…生の肉は、どんな味?」
 
「…んん、味…でございますか。まあ血の味、その…血の味というと美味そうじゃないが、――血の旨味を、狼の舌は、よく味わえる舌なのですよ。」
 
「…舌…? 舌が僕らと違うのか。ならちょっと、舌を見せておくれ。」
 
「……はは、……」
 
 俺は何か妙に恥ずかしく思いつつも、べえっと思いっきり舌を出して、ユンファ様に見せた。――こうすると、顎の下さえ越える俺たち狼の舌は、他種族よりも長い。
 
「……はぁ…っ、長いなぁ、こんなに長いものなのか……」
 
「…ははは…、…――。」
 
 
 こうして――俺たちの夜は、明けていった。
 
 ユンファ様は、そうそう他の者と話す機会もなかったと。…そのわりに会話が流暢なのは、人物が会話する物語ばかりを嗜んできたから、だろうか。――それにしても本当に嬉しそうに、楽しそうに、俺との会話を楽しんでくださった。
 
 
 
 この夢幻の一夜が明け――俺が朝日に目覚めて、またあの扉の前に、立つまでは。
 
 
 ユンファ様に「もう行かなければ」と口付けてから立ち上がった俺に、彼は寂しそうな顔をした。――しかしふ、と儚く笑うその人は、俺を見上げ、最後にこう言ったのだ。
 
 
「……ソンジュ…明日の“婚礼の儀”で、たとえ僕がどうなってしまったとしても、何があってもソンジュは、止めになんか入らなくていいよ。――どうなっても、僕は絶対にソンジュを恨まない。…ジャスル様が言うままにして、どうか自分を守っておくれ。…ソンジュ…先に教えてくれて、本当にありがとう。」
 
 
 
 
 
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