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73 幻の火の花
しおりを挟む俺はすっと立ち上がり、寝台に腰掛けたままのユンファ様へと片手を差し出した。
「…もういいだろう。――貴方様を何年も何年もあんな狭い小屋に閉じ込め、貶し、勝手に罪を着せ、迷惑がって…その挙げ句の果てにはあのジャスルと結婚させ、そのまま惨くも死ねという。…貴方様は、ただ五蝶に利用されているだけだ。…そんな五蝶のため、ユンファ様が身を切られる必要など、どこにもありませぬ。」
「……、…ふ…」
少し目を見開いて、俺を見上げていたユンファ様はふ…と幸せそうに、淡く微笑み――おもむろにまた月へと、その顔を向けた。
「…うん。それもいいね…」
「……本当でございますか?」
「…うん…、逃げて、…しまおうかな…?」
笑みを浮かべた美しい横顔…ユンファ様の声は、泣き出しそうな気持ちを喉元までで堪えたように、少しだけ震えている。
「…逃げたら…、死ぬまでに、もっといろいろなものを見られるかもしれないし…。ソンジュ様…実は僕、一度でいいから…花火が見てみたいんだ。――はは…」
笑顔で俺に振り返ったユンファ様は、やはりニコニコとして、俺を見上げる。
「…五蝶では、毎年夏に祭りをやるんだが…、そのときに、いつも花火、というのがあがっているらしい……」
「……、……」
その薄紫色の瞳をキラキラさせて、ユンファ様は俺を見ながらニコニコしている。――彼は悲しいくらいに、無垢な笑みを浮かべているのだ。
「…どーん、という大きな音が聞こえて…裏庭がぱっとさまざまな色に染まって、明るくなる…夜なのにだよ? はは、面白い。そして、またじんわりと暗くなるんだ…――ソンジュ様は…、ソンジュは、見たことがある? 花火、夜空に上がっている花火…」
「……ええ。…」
花火すら、見たことがないのか。
…俺は切なくなり、しかし、正直この胸から込み上げてくるものは――五蝶への怒りである。
俺は怒りを覚えている――だが、一方のユンファ様は決してそのように、恨み言を言っているわけではない。
ただ純粋に――花火が見てみたい、と、はしゃぐ子どものような目を、彼はまた静かな星空へと向ける。
「…そう…。僕は、見たことがないんだ。――小屋に来た人に、昨夜のあれは何? と聞いたら、花火だと教えてもらって…、そういえば、物語の中にも出てきたけれど…本物を見たことはないから……」
「…………」
ため息さえ出そうである。
あの五蝶に呆れて、だ。――確かに蝶族が持ち得る魔力、その“鱗粉”の力が強いユンファ様に、普通の生活をさせることはできなかったのかもしれない。…それこそはじめは、彼を守るという意味もあったのかもしれぬが、…だからといって、あのリベッグヤ殿のように、軽蔑の眼差しでこの無垢な人を誰しもが見ていたというのは、どう考えてもおかしい。――それどころか、嫁ぎ遅れを厄介払いできる上に利用できる、という婚姻で、国のため、好きでもない醜男の中年に犯され尽くしてから死ね。
何も知らぬ、穢れなき子供にそれを、言っているようなものではないか――。
ユンファ様は目をキラキラさせて、興奮したかすっと立ち上がると、俺へ向かい合い――軽く小首を傾げる。
「…ねえソンジュ、夜空に、火の花が咲くんだろう? 花火って綺麗かい?」
「…ええ、とても」
俺は思わず微笑み、ユンファ様に頷いて見せた。
すると、俺の返答に目をより一層輝かせ、にっこりと笑ったユンファ様は。
「そう。僕、見てみたいな。――凄く綺麗なんだろうね。…二人で見たい。ソンジュと、二人で」
「……ならば、花火…二人で見ましょう、ユンファ様。この籠から逃げ出せば、花火を見られる機会もあるかと」
「……、そう…? そうか…、…ふふ…」
ユンファ様は、逃げ出せば、という俺の言葉を聞くなり、はたと表情を失い――ややあって曖昧に笑いながら、目線を伏せた。
俺はなかば慌てて、彼の手を取り、笑いかける。
「…明日の“婚礼の儀”を迎えるまでは、ユンファ様はまだ、独身でございます。――まだ貴方様は、ジャスルと結婚したわけではない。…逃げるなら今です、ユンファ様」
「……うん…」
ほとんど愛想笑い…その顔をうつむかせ、ユンファ様はまたしおしおと、寝台に腰掛けた。――するり…俺の手から、彼の白い手があえなく逃げて行った。
「……、…、…」
俺は直感した。
この人は――俺の手を取るつもりはない。
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