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56 二人の運命に屈服す

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 俺は気が付いたら――頭がおかしくなっていた。
 
 
「……んっ…、…っ?」
 
 ユンファ様の赤い唇に、自分の唇を押し付けていたのだ。
 うなだれて伏せられたユンファ様の顔を、その赤く肉厚な唇を、下から自分の唇で掬い上げるようにした。――すると、ひ、と怯えたように小さく喉を鳴らしながらも、彼はそれでいて逃げ腰にはならなかった。
 
 俺はユンファ様の、さらりとした絹の黒髪の上から、その人のうなじを押さえた。――そしてまずは合わせるだけ、唇をふにゅりと合わせ、…ただ顔の角度を何度か変えるだけ。――それくらいの接吻でなければ、まず初心そのもののユンファ様は驚いて、善いも悪いも感じられないと思ったからだ。
 
「……んん…、…」
 
 やや苦しげな、鼻から抜けた声をもらすユンファ様に、俺は唇を離した。――至近距離で見れば彼は、困惑の弱々しい表情を浮かべていたが、…頬は真っ赤に染まり、その切れ長の目はとろりとしている。
 
「っはぁ…、…そ、ソンジュ様…?」
 
「……ユンファ様…、俺は先ほど、嘘をついたのです…」
 
「…え…?」
 
 嘘とは…――ユンファ様の、とろりとしていながら興味深そうな薄紫色の瞳を覗き込む俺は、彼の頬のそばに流れる黒髪の中に手を差し込み、その人の紅潮した頬をするりと撫でた。…そしてそのまま、あたたかく滑らかなユンファ様の頬を、我が手のひらにおさめる。
 
「…確かに俺は、妻帯者に違いありませぬ…。しかしその実、その妻のことを愛してはいないのです……」
 
「……、…? それは…どういう…」
 
 ユンファ様は、切ない顔をして俺に反問する。
 俺はじっと、彼のその不安げな薄紫色の瞳を見据えて、打ち明ける。
 
「…貴方様へしたように、妻の目を見つめたことさえなく、俺は、妻を抱いたこともありませぬ。――否、抱けぬのです。…恋い慕う相手でなければ抱けない狼の俺は、そうではない妻のことを、抱くことはできぬ」
 
「……、…、…」
 
 つまり、夜伽の話をされているとわかっているのだろうユンファ様は、はっと目を一瞬丸くして…かあっと頬を濃く赤らめると――つぅ…複雑そうにその瞳、下方横へと背けた。…なんと初心な。
 
「……ふっ…、実をいうとその妻は、ジャスル様に紹介されたひとなのでございます。…」
 
 あんまり可愛らしくて笑ってしまったが、…俺はユンファ様の頬をすり、すりと撫でつつ――「はあ…」とか細い相づちを打つその人へ、更に打ち明けてゆく。
 
「…ジャスル様のお側にいると、俺はしばしば、人に色目を使われてしまいます…。しかし、かの人はそれに嫉妬し、その妻を、俺へと宛てがってきた…――そして俺は、たびたびジャスル様のご機嫌を損ねてはたまりかねる…と、面倒に思ってしまったのです。…まあどうせもう狼の里には帰れぬのだしと、結局全てを諦め、俺は、そうしてそのひとと結婚いたしました」
 
「……、…狼の里には、もう帰れぬ…?」
 
 ついと俺を見遣ってくるユンファ様の、その美しい薄紫色の瞳――淡い色の中、確実に俺への同情が見える。
 
「…はい。…俺は三年ほど前、ジャスル・ヌン・モンスの元へ、この国にやって参りました。――それこそ五蝶の国のように、我が故郷狼の里は、その人によって侵略され……狼たちは戦いました。我ら狼は、その戦にこそ勝利を収めましたが、…しかし……」
 
「……、…、…」
 
 はた、と開かれたユンファ様の切れ長のまぶた――その中で悲痛げに揺らぐ瞳に、俺はやっと幾ばくかの癒やしを覚える。
 このノージェスでのジャスル・ヌン・モンスは、誰しもが認める英雄である。…すなわちあの殺戮行為、侵略行為は、この国のためだったからと正当化され、その人はこの国の民に、褒められこそすれ――こうして哀れな、なんて残酷な、という目をしてくれた者に俺が出会ったのは、本当にこの、ユンファ様が初めてである。
 
「…そのあと、ジャスル軍によって里の民家に火をつけられ――老若男女、女子どもから病人まで、多くの狼たちが殺戮された、その挙げ句の果てに……結局我が狼の里の長は、その人に降伏いたしました。…そしてその際…訳あって長の長子であった俺の身柄を、ジャスル様は要求したのでございます。」
 
「……、なんて惨い……」
 
 ユンファ様は、狼の俺に悲痛なお心を寄せて、そう眉を顰めてくださった。――俺はそのお心に、我が心を擦り寄せる。…ユンファ様をこの腕に抱き、その人の細い体を抱き締めて、彼の肩の上――そっと、このまぶたを下ろす。
 
「…はじめこそ客人扱いであった俺は、それこそ、この屋敷の部屋に監禁され…しかし次第に、働かざる者食うべからずと、ジャスル様の護衛として使役されるようになりました。――里の長には、結局俺の弟が成ったと聞いております。もう帰る場所すら俺にはありませぬ、何もかも、もう全てを諦めたように思っておりました……」
 
「……っ、ソンジュ様…、どれほどのご心痛か、僕などにはとても、計り知れません……」
 
 ユンファ様は、薄く息を呑むと――俺のことを抱き締め返し、そして俺の背を、慰めるようにゆっくりと撫でさすってくださる。…俺は我知らぬところできっと、ずっとこのユンファ様に出逢いたかったのだろう。
 よほどご自分こそが泣きそうに…純粋で優しい彼のその全ては、まるでこの心の傷に、優しく塗られてゆく妙薬だ。――それほどに今、泣きそうなほどにこの心、じんわりと傷に滲みながらも癒やされていっているのを感じる。
 
「しかし…しかし俺は、今日まで自分の全てすらも諦めておりましたが――ある意味ではもはや、これもまた一つ、諦めているのやもしれませぬが……」
 
「……はい…」
 
 俺はユンファ様を、固く抱き締めた。
 …甘く完熟した桃の、このうっとりとするような香り。ユンファ様のさらさらとした黒髪から、その人のお体から香るこの桃の香は、俺の鼻腔を満たし――俺の全身を満たして浸し、熱くさせる。
 
「…先ほどの無礼を、まさか許してほしいというつもりは毛頭ございません。…しかし、あれほどユンファ様を貶め、許されぬほどに酷く貴方様を傷付けるようなことを言った俺は、その実、貴方様に強く惹かれていた…――だがユンファ様のお気持ちに応じてしまえば、あわや貴方様のお命さえ危ないと、…本当のところは、貴方様に嫌われようとしていただけなのです……」
 
「……、はぁ…」
 
 ユンファ様は泣きそうに震えたため息を吐くなり、ぎゅうっと俺を固く抱き締め返してきた。
 
「…そして、妻一筋だ、男には魅了を感じないだなどというのも、あわや、ユンファ様のお心に期待など宿らぬように、と……」
 
「……ソンジュ様…」
 
 俺たちは固く抱き合う。――そして俺は、この二つの身が、一つになっているかのような錯覚を覚えている。
 
「…しかし、この際本当のことを言いましょう。俺もまた、初めてユンファ様にお会いしたとき…――たった一目で、ユンファ様のことをお慕いしてしまいました…。貴方様の美しさに見惚れ、今日にも貴方様の無垢なお気持ちに、この胸を何度ときめかせたことか……」
 
 
 
『 狼と蝶、見つめあう。
 ただそれだけで、蝶と狼、つがいあう。
 
 神が認めた蝶と狼、離れられない蝶と狼、運命さだめの決まった蝶と狼、永久とわのつがいの蝶と狼――強く惹かれて蝶と狼、僕らはもう、永恋えいれんのつがい。 』
 
 
 
「……お慕い申し上げておりまする、ユンファ様…。思えば我らは蝶と狼……もはや端から我らは、惹かれ合う運命さだめにあったのやもしれませぬ…――。」
 
 
 
 
 
 
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