胡蝶の夢に耽溺す【完結】

🫎藤月 こじか 春雷🦌

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42 初心な貴方に、せめてもの抱擁を

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「…なっ何をおっしゃるんだ、そんなこと、…」
 
 できるはずがない、と言おうとする俺の言葉にかぶせるユンファ殿は、…いよいよ俺の体に抱き着いてきた。
 
「…ったった一度きりで構いません、貴方様の唇を、僕の唇に、ほんの少し触れさせるだけで結構です、…お願い、どうかお願いいたします、――一度だけ接吻をしてくださったらもう、…もうこれ以上、ソンジュ様を困らせるような我儘は決してもう、……」
 
「っなりませぬそのようなこと、…」
 
 俺はユンファ殿を押し返そう、引き剥がそうと――その人の肩を掴むのに、……できぬ。手が震え、胸が震えて、この手にどうも力が込められないのだ。
 
「…っ僕はまだ未婚です、今宵の内はまだ、まだ僕はジャスル様のものではありません、…まだ…」――泣いているように小さく震えた声でそう言い募るユンファ殿は、徐々にしおしおと、その威勢を失い。
 
「…きっと、今宵の内ならばまだ、きっと…僕はまだ、きっと、きっと…ソンジュ様と口付けをすることだって…きっと、許される……」
 
「…ゆ、ゆる、許されませぬ、まさか、貴殿は今宵、姦淫たる行為は何もなさってはならぬという……」
 
「お願い…、…貴方様に、愛する奥方様がいらっしゃることは、これでも重々わかっております、しかし…、どうか……」
 
 俺に抱き着いて泣いているユンファ殿は、ひ、ひ、と小さくしゃくり上げ――「一夜の夢が、見たいのです…」俺の耳元で、震えたか細い声がそう言う。
 
「…ごめんなさい…、勝手な我儘を申していることは、わかっております…――しかし僕は、もしソンジュ様が、僕に接吻をしてくださったなら…、きっとこれから先、ずっとその接吻を想い、幸せに生きてゆけるから……」
 
「……、…、…」
 
 この胸の内の全てが、切なく疼く。
 …ならぬ、ならぬと俺の頭が、厳しい声を轟かせる。
 それでいて俺の体は、おいで、もっとこっちへおいでとユンファ殿を、抱き締めようとひくついて、じんわりと俺の目を熱く潤ませる。
 その人の声はか細く、切実な願いを俺に――星にも月にも、たとえ神でも叶えられぬ――俺にしか叶えられぬ願いをそっと、俺へ、祈るように。
 
「淫乱で、淫蕩だと思われても、もはや構いません…。それでも僕は、…どうしても僕は…――僕はソンジュ様と、一度だけ、接吻がしとうございます……」
 
「……、ユンファ殿…、…」
 
 俺は、迷う。
 俺の迷い、震えて彷徨う両腕は――結局、俺に抱き着いてくるその人をふわりと遠慮がちに、そっと抱き締めた。
 もちろん淫らな意味合いはない。もちろん情を絡ませたということでもない。――ただ、ただユンファ殿の、悲痛なまでの切実なお気持ちへ向け、ほんの些細な慰めに。

「…これで、どうかご勘弁を……」
 
「……、…、…」
 
 俺の腕に抱かれたユンファ殿は、は…と小さく、息を呑んだ。…そしてぎゅう、と――俺を抱き締め返し、彼は。
 
「…はぁ…、……」
 
 薄く幸せそうなため息をつき、俺の脇の下から回した腕で、俺の肩を背中からきゅっと、掴んでくる。
 
「……ソンジュ、様…、嬉しい……」
 
 たかだか抱擁ごときで俺の名を嬉しそうに呼び、至極幸せそうに、嬉しい…ともらしたユンファ殿に――しかし俺は、勘違いのないように、と。
 
「…いえ、私のこの抱擁は、決して…」
 
「わかっております…、でも僕は、ソンジュ様が大好きだから…、嬉しくて……」
 
 俺の腕の中で、まるでさなぎから出でた蝶の羽のように小さく震えているユンファ殿は、…そう柔らかく、幸せそうな声で言うのだ。――俺はつい、しかとその人を抱き締めた。…「ぁ…」少し驚き、俺の腕の中でわずかたじろぐユンファ殿…これほどの厚い装束を身に纏っていながら、なんて細い体だ。
 鼻腔をとろけさせるような、甘い桃の香り。
 これが蝶の香りか――その濃厚な、完熟した桃の香りに頭がぼやけ…、和らいだ警戒に、俺の胸の内の力も抜けてゆく。…はぁ…とため息をついた俺は今更、この抱擁に際して自分が、息を止めていたことに気が付いた。
 
「……まるで…夢を、見ているようだ……」
 
 ユンファ殿は陶然とした調子で、俺の耳元、そう呟いた。――はぁ…とまた彼も淡いため息をつき、ゆったりと、この幸せな夢に浸ったその人の声は、至極心地良さそうに。
 
「…こうしてソンジュ様に、抱き締めていただいている…ただそれだけで、幸せな夢を、見ているような…――そんな、とても素晴らしい心地が、いたします……」
 
「………、…」
 
 俺も、――まるでうっとりと微睡むそのさなか、甘く柔らかな夢の中に浸っている…そのような、そんなふわふわと浮ついた心地が、その実俺の、金の髪の先にまである。
 そしてユンファ殿は、俺の耳元、あるいはその距離でなければ聞き取れぬような小さな声で「…本当に、夢のよう…」と、うっとり言うのだ。――俺の胸の中、俺の早鐘を打つ心臓が、きゅうっと忌々しくも甘く、絞られる。
 
「……もう少しだけ、こうしていてくださいませ、ソンジュ様……」
 
「……かしこまり、ました…、……」

 
 
 この夜が明けなければ――俺はこのまま、ずっとこのまま、ユンファ殿を抱き締めていられるというのに。
 
 朝とはいつも、忌々しい現実を連れてくるものよ。

 自分はあたかも正義の光、そのような清々しい顔をしている朝の顔が、こんなにも忌々しい。
 
 

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