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40 鋭い牙を、刺してしまった

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 ユンファ殿は、自嘲して微笑んだ。
 …たっぷりと涙に濡れているその目――切れ長のまぶたは弱々しくゆるみ、まるで涙に溺れているかのよう小さく揺らぐその薄紫色の瞳は、それでも俺の目をじっと見つめてくる。
 
「…ソンジュ様に嫌われてしまったことも、これでよくわかっております…――しかし、どうか今宵だけは、このどうしようもない僕の側に、いてください……」
 
「……、…、…」
 
 ユンファ殿は切実な目をして、俺のことを見てくるのだ。――どうしてあれほど酷い拒否をされて、それでもなお、俺なんかのことをこう想えるのか。…あまりにも夢見がちな人である。馬鹿な乙女のようだ。
 彼は、涙に濡れた声でそっと、笑う。
 
「…もう話しをせずとも構いません…、僕に触れてほしいなどとは、露ほども思っておりません…、ただ、ただ側にいてくださいませ…、この夜が、明けるまで……」
 
「……、…っ」
 
 ならぬ。――この美しい人の、この切実な涙目にほだされてはならぬ。
 困りきっていることを示す俺は、ぐるりと呆れたふうに目玉を回し――上のほう、ちょうどユンファ殿の寝台についた天蓋あたりを、何ともなしに眺めつつ、ため息まじりに。
 
「…何もお側でなくとも、私は同じ部屋の中、あの扉の前でユンファ殿を、しかとお守りして……」
 
「…怖いんです…」
 
 するとユンファ殿は、俺の言葉を遮るように…それでいてかなり小さな声でぽそりと、そう一言。――すかさず俺は、責めるような苛立ちの調子で。
 
「何がですか。何が怖いと?」
 
「…そ…それは、…ジャスル様が…――するとまぶたを閉ざすのも、とても…怖くて……」
 
 俺が尋ねれば、ユンファ殿はそう小さく、恐る恐るそう打ち明けてきた。――しかし俺は、彼のお姿を見ながらというのは無理があるため、やはり天蓋あたりを睨みつけながら。

「…ユンファ殿…申し訳ないが、そう私に申されましても困りまする。甘えるにしたって、相手をお間違えなのでは? それに、怖い怖いとおっしゃられても貴殿、明日にはその人のものとなるのでしょう。――心配は無用。ジャスル様は、甘ったれのユンファ殿でも、しこたま可愛がってくださるに違いありませぬ。」
 
「………、…」
 
 ユンファ殿は何も言わず、ただ彼の落胆の気配はある。
 俺は意識的に、心を凍り付かせる。そこに嘘など滲まぬように。――嘘がユンファ殿にバレれば、優しさとなってしまうからだ。
 
「…あるいは、その怖いというのだってどうせ嘘なのでしょう? そうやって、女子どものように甘えてメソメソ泣けば、情が絡んで人が留まるとでも思っているのか。…しかし、それが許されるのは子どもか、せいぜい女のみだ。貴殿がそう甘えたって可愛くないどころか、ひたすらに情けないだけです。」
 
「…はい、ごめんなさい……」
 
 あまりにもしおらしい謝罪に、ぐっと喉が詰まる。
 …喉元までこみ上げてくる罪悪感が、酷いほど俺の胸を締め付けているのだ。…ユンファ殿はかなり小さな声で「でも、嘘ではありません…」と――しかし、ここで責めの手を緩めてはならぬ。
 
「…そもそも貴殿は、全て覚悟の上で、この縁談を承諾したのでしょう。」
 
「…それも…そうですね…、ごめんなさい……」
 
 健気なまでの小さな言葉だ。
 ズクリ、この胸は痛むが。――俺は今、鬼だ。
 
「…それでいて、なぜ怖いなどと情けないことを?」
 
「…そ、それは……、…、…」
 
「…ふん、やはり嘘なのでしょう。私に甘えたいがために、そんな嘘をつくとは……」
 
 彼、そんなことを俺に言えばあるいは、俺と慕い合えるとでも思っていたのだろうか。――そりゃああの醜い中年であるジャスル様よりは、俺のほうがいくらもマシに思えるのは当然のことだろうが、…そう我儘を言えどもユンファ殿は、明日には正式に、その人のものとなるのだ。
 大体、俺が妻帯者であるとわかっていてこのような…慕っているだ、ジャスル様の子は生めぬだ――すなわち彼、要約すれば、俺の子しか生めぬというような旨のことを言っているわけである。
 
 あれではまるで、自分を抱いてくれ、というような誘いのセリフにも近しいだろう。――明日には人のものとなる彼が、明日に“婚礼の儀”を控えているような彼が。
 いくら政略結婚とはいえ、ジャスル様と婚約をしている身で――そのジャスル様の護衛である俺にうつつを抜かし、慕っている、と。俺の子どもしか自分は産めぬと。
 
 下手な娼婦よりタチの悪い話だ。
 …そう、俺は思い込む。――思い込まねばならぬ。
 
 やはり淫蕩という噂、あながち間違いでもないのか。
 ユンファ殿、ありていにいえば…例の、よほどの淫乱、らしいのだ。――いや…ユンファ殿のは、これでもわかっているつもりなのだが――俺は今、今だけでも、そう思い込むべきなのだ。
 
「嘘では……、ソンジュ様……」
 
「…釘を刺されても、いまだ妻帯者の私を誘うとは、どうしようもない淫乱なのだな。…私には妻がいて、そしてユンファ殿には、夫となるジャスル様がいらっしゃいます。…その人の言う通り、こういったことは夫となる、ジャスル様にのみされよ。――そうすればあの方は心から喜び、ユンファ殿のことも手厚く慰めてくださることでしょう。」
 
「…………」
 
「……、…」
 
 俺は思わず、ユンファ殿を見てしまった。
 
「…………」
 
 はら…と――伏せ気味になったユンファ殿の目から、また涙がこぼれ落ちていった。…しかし、彼は泣いているからといって顔をしかめているわけでもなく、また虚ろな…人形のような顔になってしまっている。
 
「……、…、…」
 
 本当はこんな顔、させたくはなかったが。――なぜ見てしまったのか、俺はまた上のほうを見上げる。…そして、これを言い切ったなら、さっさとユンファ殿を振り払い、持ち場へ戻るつもりだ。
 
「…そういったことを重ねた先に、想い合うメオトとなれるものでございます。…貴殿のご不安は理解できなくもないが、私のような下男にうつつを抜かすのではなく、夫となるジャスル様と向き合われよ。――それに、たった一晩のことでございませんか。…寂しいのはわかるが、だからといって適当な下男に滅多なことをおっしゃられるな。さあ、もう、大人しく休まれよ。…」

「………、…」
 
 あまりにも、何も言わぬユンファ殿。
 またつい、はた…とその人を見た俺は――己に嫌悪した。…この胸の中に、鋭く太い針がグサリ刺さったようである。
 
 ユンファ殿はもう、俺の二の腕を掴んではいない。
 …ならば俺は、この場から立ち去ることも容易い。しかし――ユンファ殿は俯き、切ないものをその美しい眉に宿しながら、悲しげにまぶたを閉ざしていた。
 その平たい胸の中央に、俺が先ほど渡した、真っ赤な林檎を押し当てて――。
 
 今もまた、つぅ…と、その人の白い頬に涙が伝ってゆく。――俺はその涙を見た途端、するとなぜか…――この林檎を渡したときの、ユンファ殿の…ふふ、と嬉しそうにほころんだあの笑顔が、この脳裏に過ぎってしまった。
 
“「……ぁ、ありがとう、ございます……」”
 
 たかだか林檎一つを、いやに大事そうに撫でさすり――嬉しそうに、嬉しそうにそう俺へ礼を言ったユンファ殿が、俺の頭に蘇ってきてしまったのだ。
 
 
「…………」
 
「…………」
 
 言い過ぎたか――いや。
 …あれくらい言わなければ、ならなかった。きっと。
 
 
 
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