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38 狼の牙に切り裂かれる蝶の羽
しおりを挟むユンファ殿は俺のことを涙目で見て、必死に、その切れ長の目を鋭くしている。――しかしその鋭さは、俺を睨み付けているというよりか、…泣くのを堪えている、という感じだ。
「…お慕いしているソンジュ様の子ならいざ知らず、…しかし、僕はだから…」
「だから。だから私を、慕っているなどととぼけたことおっしゃられているのか…? ジャスル様の代わりに、自分を孕ませてくれとでも?」
俺はあえて――低くユンファ殿を威圧し、優しさの欠片もないような調子で、なかばその人をこうして責めた。
すると彼は、心外そうにその目を見開く。
「ぇ…? ぃ、いいえ、決してそういうことでは…、僕、僕が言いたいのは……」
「…貴殿にとってどうであろうが――少なくともほとんどの者は、そのように捉えるかと。」
慕う相手の子しかその身に宿せない、という蝶族――奇しくも、慕う相手しか抱けぬ狼族と似たような体質であることを知った。
その俺を恋い慕うお気持ちこそ悲痛なまで、正直いえば、俺は胸が痛んで仕方がない。――しかし俺なぞが、まさかユンファ殿のそのお気持ちに応えるわけにはゆかぬ。
あえて非情なように捉え、あえて非情な態度を取ろう。
たとえば――これでは身勝手にも、一方的に操を誓われたような格好である、と。
その名前の字にしろ、かなり一方的に告げられたろう。
意味こそ理解はしている。――俺の生まれ故郷である狼の里においても、名前の読みはみなが知っている。
しかし、その名前の字は、それこそ終生添い遂げると決心した相手にしか教えない。――自分の名前の字は、そのように名付けた両親、そして自分しか知らず、それを教える相手は…添い遂げると決めた伴侶――いうなれば、魂でつがい合うと決めた、伴侶にのみ。
その相手がいなければ、一生他人にその名前の字を教えないままで死んでゆく者すらいる。
その昔、人の名前には魔力が宿るとされていた。
…名前の字さえ知っていれば、その人のことを好き勝手に操ることさえできる。魔術をかけ、自分に惚れさせることも、あるいはその人を呪い殺すことさえもできる――と、されていた時代があったのだ。
しかし、もちろんただ名前の字を知っているというだけで、そんなことはできるはずもないのだが。――それほどに名前の字、というものを、俺たち狼族、そして、おそらくは蝶族においても大切にしてきた文化がある。
つまり、それほどに名前の字を教えるということは覚悟のいること、想いがそれほどに真剣なものであるということの証左だ。――しかし、そもそも恋人同士でもなんでもなく、ただ顔を合わせたばかりでそこまでのことを誓われても、はっきりいって困る。
そうして、その大切な名前の字を一方的に告げられ、それどころか――本当に婚姻関係となる、いっそこのノージェスの離縁のしにくさも相まっては、よほどその名前の字を教えるべきジャスル様へは、ご自分の名前の字を教えない、いや、俺にしか教えない、と。
ユンファ殿は、まるで駄々をこねる子どものようだ。
あるいは夢みがちな乙女。…そも恥ずかしげもなく、あんな自分の妄想の内容を語れるようなほど、この方は馬鹿馬鹿しい夢を見ている。――俺にか、恋にか。…所詮このユンファ殿、恋に恋をしているというだけのこと。
自分のお立場も理解しておらず、あまつさえ主人の護衛である俺に、そのような…――慕っている。…つまり、俺なぞに恋をしてしまった…などと血迷ったことを、恋に恋してユンファ殿は、おっしゃっているのだ。
彼は、あの籠に閉じ込められていたから知らないらしい。――この世のことを、何も知らない。
この世の中には――想い合っても許される立場と、それが決して許されぬ立場がある…ということを。
俺は冷ややかに、やや俺よりも背の低いユンファ殿を見下ろし――「この通り、私には妻がいます。」…自らの首からぶら下がった、この首飾りの先、桃色の牙を摘んで彼へ見せ付けた。
「…まさか貴殿が、それほどの色狂いだとは思いませんでした。――そうして人をみだりに誘うのは、感心いたしませんが。」
「…ち、違います、違うのです、誘ったわけでは……」
「そのようにしか思えぬから、こう言っているのだ。」
俺は心を鬼にしなければならぬ。
…俺なぞが、ユンファ殿のその想い――悲痛なまでの、切実な想い――に、応じられるはずがない。…ほとんど死に損ないのような俺がどうなろうと構わぬが、それはともかく、…ユンファ殿が、殺されてしまう。
ユンファ殿は悲しげに眉根を寄せて涙目となり、誤解だと、ふるふるその顔を横に振る。
「…そ、そんな…、そんなつもりは……」
「なるほど。妻帯者まで誘惑なさるとは、なかなか…確かに貴殿は、“淫蕩の罪”を背負うに相応しいお方のようだ。――あれじゃあ私に、自分を抱いてくれと…そうして誘っているような、淫らな意味にしか取れませぬ。…淫乱と勘違いされたくないのなら、もう控えられよ。」
嫌われねばならぬ。
俺はこのユンファ殿に、嫌われるべきなのだ。
「………、…」
は…と、悲しげに息を呑んだユンファ殿は、その潤んだ目を見開き、薄く唇を開けたままに固まった。――揺らぐ薄紫色の瞳、…はらり、はらり、見開かれたままのその目の両方から、こぼれて下へ落ちていった、透明な涙。
「……僕のことを…、嫌いに……?」
あまりにも吐息めいた、それでいて涙に湿るその声に、俺は頷いてみせた。
「…元より、貴殿を特別慕ってなどおりませんでしたが、…嫌い。ええ、確かにそのようです。幻滅いたしました。」
「……、…、…」
ユンファ殿は、悲しげにまぶたをゆるめ、またはらはらと涙をその目からこぼした。
胸は痛いが――これも、このユンファ殿のためだ。
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