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36 本当の名前
しおりを挟む「…ソンジュ様…、僕、…僕は……」
かあ…とユンファ殿の白い顔が、うす赤くなる。
悲痛な色をその美しい眉に宿し、震える赤く肉厚な唇の裏を噛み締めたその人は、…じわりとその目を潤ませた。
「…それでも僕は、…貴方様に、お伝えしたいことが、ございます……」
「……、これで、最後に…してくださいませ…」
ここまでくれば、いっそ構わぬほうがよいのだろう。
しかしその悲痛そうな、今に泣き出しそうな表情を見てしまうと、ただ背を向けるだけのことがどうも胸が痛く、いやに逡巡してしまうのだ。――ましてやユンファ殿は、「わかりました」と、切ない笑みを浮かべながらもこくり、頷いたのだから。
これで最後…――ユンファ殿が俺に伝えたいということを聞き終えたなら、すぐさままた、この部屋の扉の前に行き、もう朝になるまで俺はそこから、よほどのことがない限りもう二度と動かぬつもりだ。
そしてユンファ殿は――やや言いにくそうながらも俺の目を、その薄紫色の瞳でじっと見つめてくる。
切ないその瞳は、ほんの小さくくらくらと揺れている。
今にも壊れてしまいそうな、その人の微笑み。
…たわんだ美しい眉――潤み、艶めくその瞳。
「……ソンジュ様…僕の、ユンファという名は…――曇るに華と書いて、曇華と読むのです……」
「――…っ! …な、何を、…」
咄嗟俺は目を瞠り、驚いた。
…これは、…名前の読みは誰しもが知る。…しかし名前の字は、本当に慕う者…それも、終生添い遂げると決めた者にのみ、教える。――それは、あくまでも結婚をするときに、ではない。
本当に、終生を共にすると固く決め、誓いあった伴侶にのみ――お互いの、その名前の字を教え合うものなのだ。
俺は、その大事な“名前の字”をユンファ殿に告げられ、思わず驚いてしまったが、――しかしいや、蝶族と狼族の文化は、その点違うのかもしれぬ。…そう…思いたい。
「…ソンジュ様…、名に宛てられた字は、……」
ふ、と今にも泣き出しそうに小さく息を吸い込み、…それから、ユンファ殿はキッと凛々しい顔をすると、思い切ったようにやや声を張って。
「…本当に、…お慕いしている方にしか、教えてはならぬというしきたりが、五蝶には…そういったしきたりがございます、…終生を共にすると決めた方にのみ、これを、教え合うのです、…」
「……、…っ」
俺は思わず、はっと息を呑んだ。
何故そのような、――結果、共通した文化であったらしい上で、…そのように俺へ、ユンファ殿は…曇華という名の字を教えてきたらしい。
「――そして僕は、まだジャスル様には……」
「……、…、…」
もはや返事をするべきでないと、俺はただじっとして、どうしたものかと目を泳がせている。
ユンファ殿は「いいえ…」とふるり、顔を横に振り、それからキッとその切れ長の目を、決意にか鋭くして、俺を見てくる。
「…もちろん…ソンジュ様にしか、このことは教えません。」
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