胡蝶の夢に耽溺す【完結】

🫎藤月 こじか 春雷🦌

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35 蜜入り林檎は贈り物

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「…わかりました…」
 
「…………」

 俺はうっかり、その悲しげなユンファ殿の翳った美貌に見惚れていたが、“わかりました”と聞ければいよいよ、さっさと持ち場へ帰ろうと立ち上がり――しかしまた俺の着物の裾を、縋るように掴むユンファ殿は。

「…ならばソンジュ様、せめて僕を、どうか一晩お側に置いてくださいませ…。それをお許しくださるなら僕はもう黙ります、もう一言たりと、何も口にはいたしませんから……」

 と――切実な表情で、そう俺に。
 どきり、と俺の胸の中で、心臓が小さく跳ねる。

「…ぃ、いえ、なりませぬ、…申し訳ないが…私はあの扉から、よっぽどのことがなきゃ動いてはならぬと、…」
 
「では、僕がそちらに参ります」
 
 それでも切ない顔をして言い募るユンファ殿は、どうやら本気らしく、…そこでふっと立ち上がった。――警戒心から思わず俺は、とた、とたと何歩か後ずさる。
 俺より拳一つ弱低いユンファ殿の背だが、…その美しい顔が近い、と――。
 
「……今宵だけ、どうか僕を、ソンジュ様のお側に置いてくださいませ……」
 
「……、な、なりませぬ…」
 
 弱い拒否となってしまった。――いっそ、泣きそうなほど切実な顔して俺を見てくるユンファ殿に、俺は強く出られないのだ。
 
「…何故なにゆえそのようなことを……」
 
 ユンファ殿は――俺があちこちに目を泳がせているのにも関わらず――俺のことをじっと見つめ、胸のあたりでその両手に林檎を持ったまま、ずいとそれごと身を軽く乗り出して、…キッと強気なまでの真剣な顔を、赤らめる。
 
「……僕…、僕は、…ソンジュ様のことを……」
 
「なりませぬ。」
 
 察した俺は、あわやユンファ殿がその言葉を言い切らぬようにと、すぐさま低い声を出した。――はっきり言って、幼子の相手をしているような困惑を覚えつつも、俺はふるりと顔を横に振る。
 
「…ユンファ殿…明日の“婚礼の儀”が昼からとはいえ、どうぞもう眠られよ、――いや、お体のためにもまず、何か少しでも召し上がれたほうがよい…、その林檎でも、あるいは他の……」
 
「いえ、とても。これはとても食べられません。」
 
 ふるり、真剣な顔を横に振るユンファ殿は、胸の高さで持った赤い林檎を見下ろしふわり、顔をほころばせた。
 
「…この林檎、あまりにも大切で…、僕にとっては、いわば宝物でございます…――食べられません…。とても、もったいなくて……」
 
 そう言っては、背丈の違う俺を、軽く見上げてくるユンファ殿――その薄紫色の瞳をキラキラさせて、彼は俺の目をじっと、見つめてくるのだ。
 
「…初めて、贈られたのです…――、…、…」
 
 じわり…――潤むその美しい瞳、薄紫色の口布の下で震えている、そのふくよかな赤い唇。…可憐に小さく動く唇、蚊の鳴くような声が、泣きそうにこう言う。
 
「…贈り物は、生まれて初めて…、いえ…、…」
 
「…決して贈り物などでは、…」
 
 俺は必死に違う、そのつもりでは、と顔を横に振る。…しかし、俺の声はその人の涙目にほだされて、か細い。
 するとユンファ殿は、泣きそうな顔して微笑んだ。
 
「…わかっております…、ソンジュ様にとっては、この林檎…贈り物などではなかったことも…」――手に持つ林檎をふと寂しげに見下ろしたユンファ殿は、また俺を見て。
 
「しかし、僕にとっては…初めて、お慕いしている方に……」
 
「っ贈り物などではございませぬ、――そんなもの、端から此処にあった林檎でしょう、…」
 
 俺は危機感に思わず声を荒げ、…眉やら目元に力を込めながら、ユンファ殿をキツく見た。――その人は険しいだろう俺のことを見て、あまりにも悲しそうな顔をする。
 
「……、……」
 
「っとにかく、とにかく寝台に横になり、目を瞑られれば、きっとたちまちお眠りになられますよ、――長旅のお疲れもあることでしょうから、きっと…まずはお試しに、……」
 
「…困らせて、ごめんなさい…」
 
 悲痛な悲しみを、その美しい眉に宿しながら――ユンファ殿はそれでいて、潤んだ目を細め…俺へ微笑みかけてきた。…ごめんなさい、と俺に謝りながら、俺に微笑みかけてきたのだ。
 
 
 
 
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