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21 犬に成り下がった狼、どうでもよいと、生き延びる
しおりを挟む俺は、狼族の長の長子である。
俺は――人質である。
ジャスルはもともと狼族の長に、狼の里の資源を破格で売り渡すように交渉していた。――しかし俺たちは五蝶同様、ノージェスとの関わり合いがなくとも生きてゆけるだけの、豊かな自活能力を持っていたのだ。
だからこそ俺たちは、そんな不条理な要求など呑めぬと抗い、戦ったが…卑怯にも寝静まった里の家々を燃やされ、その火の手から逃げ惑う里の者たちは、惨くも次々に殺戮されていった。――それはひとえに、俺たち狼族の者が、ノージェス…そして、ジャスル・ヌン・モンスという男に、抵抗をしたが故に、だ。
空から降ってくる雪さえ、煤に染まって灰色であった。――それでいて俺たちの里の家々は、真っ赤に燃え上がっていた。…足下の雪には黒く汚れた数多の足跡、軍靴の見慣れぬ足跡、赤く染まった雪、ところどころは桃色。
降り積もる雪に埋まってゆく死体――悲鳴、銃声、爆発音、怒鳴り声。
戦闘員となった若い男たちだけならまだしも、…無抵抗の女子ども、老人、病人に至るまで…――どうしてここまでされて、それでも降伏しないなどといえるか。
降伏しなければ、ならなかった。
そうして、俺たち狼族は結局、ジャスルの要求を全て呑むこととなった。
しかしジャスルは、それだけでは満足しなかったのだ。
俺の身柄を要求してきたのだ。…すなわち、長の長子である俺…次期狼たちの長となるはずだった俺を、あの狼の里から連れ去り、身柄を拘束しておく――名目上でいえば、俺をノージェスに招待し、その国のことを学ばせ、狼の里との友好関係を築くための土台作りに、次期長の俺を誘致をする――ことによって、狼の里の機能を衰えさせ、もはやあれ以上の抵抗などできぬように、あわや謀反など起こさぬように、と。
そういった経緯で…俺は一人、ジャスルの元へ――このノージェスへと、やって来たのだ。
しかし――その客人扱いもそう、長くは続かなかった。
狼は、身体能力に長けている。
他の種族とはおよそ比べ物にならぬほどの力があり、また牙も鋭く、満月の夜には、より屈強な人狼となる。
であるからか俺は、ただ人質としてこの屋敷で暮らしていた時期はその実、そう長くない。
あるとき、このノージェスで暮らしているのだから、何の仕事もしないことは認められぬ、といわれた。…勝手に俺の身柄を要求してきた癖に、俺は働きもしない穀潰し扱いを受けたのだ。
そしてジャスル直々に、その人の護衛となることを提案された俺は――その提案を受け入れ、その人の護衛として、こき使われるようになったのだ。
まあ、このユンファ殿のように部屋の中に閉じ込められていた、客人扱いのときよりはいくらかマシだ。…その提案を呑んだときにしても、こうして監禁されたまま死ぬより、こうしているうちに体が鈍るよりかマシだと思ったからこそ、であった。――今にしてもまだよいとは思っている。…まだ今のほうが、行動にも自由がきく。
ただ…ジャスル様の護衛として働かされるだけならまだしも、狼の屈強な体と、優れたこの身体能力のせいか…――俺は、ときおり軍人に混じって戦に行かされることさえあるのだ。
もはや、何もかもどうでもよいと思いながら、死んだって構わぬと思いながらも結局、狼の俺が一人いれば、毎度勝ち戦となる。――すると次も、その次も、と…次々と俺は、徴兵の知らせを受け取るようになってしまった。
国内紛争ばかりではあるが、…だから何だ、戦争は、戦争だ。
俺は、あの人のどんな命令にも従ってきた――。
俺は、何人も人を殺してきてしまった。
「………、…」
しかし…俺の両親はもうすっかり、俺のことなど見捨てたようだ。――弟が長として就任し、嫁を迎え入れたと聞いている。…それも、両親直々の手紙にその旨が書いてあった。…これは暗に、もうお前は帰ってこなくてよいぞ、こっちはこっちで上手くやっているから、ということだ。
つまり俺なぞいなくとも、もう狼の里はすっかり機能を取り戻している。…しかも聞くところによれば結局、何だかんだいってもジャスル様との取り引きで富を得て、あの里、なんなら以前よりも、このノージェス的に発展しているそうだ。
なんと虚しきことか…――言い表せぬ虚無感がある。
あの惨たらしい戦いはなんだったのか。…では、なぜ俺がわざわざ今もなお、あのジャスルに捕らわれているというのか。なぜそこまで平穏を取り戻しておいて、俺を取り返そうとしないのか。…そもそも…たとえ俺がこれであの狼の里に帰れたとしても、もう俺の知っている里の景色ではなくなっているのだろう。
ましてや、弟が狼たちの長となっているというのなら、…もはやもう俺はいらぬ。俺の帰る場所など、もう無いも同然なのである。――どうして今更、帰れようか。
いや、そもそも帰れぬ…おそらくはもう、二度と。
俺が此処にいれば、ジャスル様はそれだけでもご満足のようだ。…俺を里に帰すつもりなど、あの人はもはや毛頭ないのだ。――あの反抗的であった、しかもさながら血統書付きの犬、そうした珍しい狼を付き従わせ、言いなりの犬のように扱える。
自身の名誉と、栄光を彩るお飾りが大好きなジャスル・ヌン・モンスにとって――狼の俺は、まさにうってつけのお飾り、そのものである。
ましてや俺は、確かにジャスル様に対して従順だ。
今の俺は、もはや狼ではない。犬といっていい。――それも、躾けられた従順な犬、である。
はじめこそ俺は、全ては故郷のためを思い、従順な犬の顔をその人に見せていた。…しかし近頃は、もはや抵抗をするだけ無駄、むしろ面倒だと、従順になっている。――そうして結局、どちらにしても…あたかもジャスル様が本当の主人であるように振る舞う俺は、誰の目にも、従順で聞き分けのよい、決して主人には逆らわぬ…堅実、その人への忠義を胸にいだく、情けなくも良い子な犬のようであろう。
あたかも――ジャスル・ヌン・モンスという人に、屈伏した狼、いや…犬のようであろう。
つまりお飾りとしても、実際的にもお誂え向きな存在が、狼の俺なのである。――くだらないことだ、…くだらぬ人生だ。
よもや…誰ぞに殺されることもなく、ただそれとなく、何ともなしに生きている――俺は、意味もなく生き延びている。
あの戦で多くの命が失われた。
子どもだって多く死んだ。…安心して眠っていた子らは、家ごと焼け死に、あるいは爆発に吹き飛んで死んだか、銃に撃たれて死んだのだ。
あの子らの死は、あの戦の悲惨さは、ジャスル・ヌン・モンスの残虐さは――雪のように里に降り注ぐ汚い金に埋もれて、いまもみるみると薄れていっているのだろう。…そしてやがては、あの子らの命のように儚く消えゆき、すっかり忘れ去られてゆくのだろう。
俺がここから逃げ出せば、狼の里とノージェスの、友好関係の破綻を意味する。…しかし、それを逆にいえば――俺さえ此処に捕らわれていれば、よいのだ。…そうすれば里の者たちはみな、豊かに暮らすことができる。
国の英雄とは――反対側から見ればおよそ、何よりも不正義の人、戦争犯罪人なのである。
もはや――もはや、もはや――もう、どうでもよい。
狼の里など、もう――俺など、俺の人生など、もう、もはや、…もはやどうでもよい。
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