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第一部 第四話 海翔と志鶴の日常

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二人きりで過ごす日常は意外なほどに慎ましい。家事は二人で分担して片付けるし、料理は互いに忙しいので外食が多い。この日も例外ではなく…

「私が支払ったのは二人分合わせても千円くらいだったのに…」

俺の向かい側で志鶴が困り顔をしている。それはそうだろう。ランチデートのお礼に誘ったのは少し高級なイタリアンレストランなのだから。それも個室を貸し切りだ。

「いいんじゃないか? たまにはさ」

そんなことを言ってごまかしつつ、俺は何杯目かの赤ワインを彼女のグラスに注いだ。志鶴は飲みなれないワインを一口ずつ慎重に飲むと、

「このワインは好きになれそうですけど… 海翔さんはこういうお店が好きなんですか?」

「どっちかっていうと、どっちとも言い切れないか。たまには必要になることもあるから覚えているだけでさ」

そんな時は大体が撮影スタッフやキャストを集めた打ち上げパーティーだったり、キャスト同士の親睦会に名を借りた飲み会だったりするんだけれど。
けれど、今日はそれだけで終われない。

「急で悪いけど、明日から家を一週間空けることになった」

「え… 一週間って… そんな急なことあるんですね」

あっさりしているが、まだ実感がわいていないだけだろう。言えないことが増えていく。どうにも悪い予感がして仕方ない。

今回の仕事は亜理紗さんが絡んでいる可能性が高いからだ。だからといって、断ることもできなかった。…俺も佐々木さんも悩みながらも引き受けるしかなくて。

「俺が出たハリウッド映画の続編が急に決まった。俺が主役の書下ろしで、舞台は日本から始まる。来週にはまたアメリカへ同行してほしい。通訳としてな」

「判りました。通訳の件は引き受けますし、来週ならなんとかなりそうですけど… 私もスケジュール調整しなきゃですね」

屈託なく笑っているが、俺の方は心から喜べなかった。…亜理紗さんの思惑が判らないからだ。なにかしようとしているんだろう。だけれど、なにをしようとしているのか? それがつかめそうでつかめない。

「海翔さん、私からも良いお知らせがあるんです」

ワイングラスを空にして、志鶴が切り出す。酔っているせいでなく、頬が赤らんでいて、なにかしたか?と考えるが、現在の俺たちはキス以上のことを全くしていない。

「私の療養が完全に終了したんです。術後の経過は良好ですし、ホルモンバランスも安定していますし… 担当医にも相談してOKをもらいました。
その、ちゃんと夫婦になりませんか?」

ためらいながらも言い切って、志鶴が羞恥のあまり顔を両手で隠してしまう。

「え…? 夫婦に…?」

言っていることの意味が理解しきれなくて、あっけにとられる。欲がないわけじゃない。だけれど、もっと先のことだと思っていた。意味の解らない名前の機械を沢山使って、何時間も待たされて。

その挙句、帰ってきた志鶴は人工呼吸器に繋がれたままで… あの状態から回復しなければいけないのだから、もっとかかるだろうと勝手に思っていた。けれど、もう…?

「海翔さんと結婚したことの意味、私なりに考えてみたんです。今の暮らしも楽しいけれど、海翔さんとはちゃんと夫婦になりたいから… 赤ちゃん、産めなくて申し訳ないんですけど」

先に落ち着いたんだろう。志鶴が顔から両手をはがしつつ、続けて言う。
徐々に理解すると同時に俺は俺の欲のままにスマホを取り出し、ホテルを予約していた。よく使っているホテルなので、メール一つで終わる。

「据え膳っていうのは俺の好みじゃないんだけど… 君は後悔しないか?」

「海翔さんこそ、私でいいんですか?」

「そうでなきゃ、あんな強引なやり方で籍入れないって!」

今更過ぎて思わず互いに笑ってしまう。順番がどうとか色々とめちゃくちゃだが、俺と志鶴は確かに夫婦だ。

恋人関係でいたくなかった俺が、ほとんど押し流す様にして入籍してしまった。けれど、それからの日々は忙しい中にも甘酸っぱい幸せに満ちていた。

志鶴といる時の俺は、カフェでバイトしていた頃のように純朴で青臭い俺に戻ってしまう。…二人でそんな幸せを分かち合えるだけで嬉しくて。だから、志鶴の許す限りプラトニックな関係を貫こうと思っていた。

肉欲だけの関係にはうんざりしていたし、むなしさも感じていたから。だけど、志鶴と愛情だけでない関係というのはどんなだろうと、妄想しない日はなかった。

「その先を求めて、いいんだな。…俺」

嬉しくて、噛みしめるように呟く。涙が出そうなほどに嬉しくて幸せで、不安なんか掻き消えた。

「はい。私も海翔さんなら、何も怖くないと思えるから。入籍してよかったと毎日思うくらい幸せだから。求めてください」

耐えきれなくて。店員が来るかもしれないのに、俺は席を立ち、志鶴の唇を奪った。舌先で唇を割り、口の中を愛撫して…

こんなキスさえ今日が初めての清らかさだ。それだけでイけそうなほど気持ちよく感じて、下半身が疼きだす。

「ふぁ… は… かいとさん…?」

ついていけないんだろう。どこかぼんやりしている志鶴の目元にそっとキスを落とす。

「俺は欲深いんだ。一度、こうなった以上、何があっても放してやれない。だから、簡単に触れたくなかったのかもしれないな」

表情を緩ませつつ言うと、志鶴の首筋にきつく吸いつく。志鶴は嫌がらなかった。俺の首に腕を回して、小さく声を漏らす。それだけで本当にイってしまいそうなほど興奮していた。

ダメだなあ。これじゃ、青臭いドーテイに戻ったようだ。

「行こう。ホテルを予約したから」

頷く志鶴を立ち上がらせる。その首筋には赤い印ができていた。それが嬉しくて、妙に誇らしくて、今の状態で記者会見をしたら、ペラペラと幸せ自慢をしてしまいそうだった。

なにがあっても怖くない! そう思うほどに俺は舞い上がっていた。
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