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第一部 プロローグ 桐生アランの安堵

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「許せない…!」

ロックグラスを割りかねない勢いで握りしめながら吐き捨てる。自分のグラスに氷とウィスキーを足しつつ、俺は密かにため息を吐いた。

「あの海翔が結婚ですって!? 許せるわけがないでしょ!!」

怒りのまま怒鳴り散らしてグラスを空にする。…退屈な時間だと二度目のため息を吐く。それでも、俺を食い殺しそうな眼付きで嫣然と微笑みつつベッドへ誘われるよりいいんだ。そう言い聞かせて割り切る。

「なにか、俺にできることはありますか?」

芸能界においては大先輩なので気配りを発揮してみるが、返事はない。代わりにグラスを突き付けられた。今日はとことん飲み明かすつもりらしい。俺は明日も仕事があるし、彼女も同じはずなのだけれど…

「喜んでお付き合いしますよ。あなたが笑えるようになるまでね」

グラスにウィスキーを注ぎ、氷を入れつつ嘘ではないけれど本音でもないことを言ってみる。彼女は俺の顔に見合わない低い声が好きだと言ってくれたっけ。

そんなのがきっかけで今の関係になり、俺はめでたくボディシェアランキングに一気に躍り出たのだから不思議だ。

「本音を隠すのが下手ね。そんなのじゃ足元をすくわれるわよ。だけど、今はどうだっていいの。お前も知っての通り、海翔は私の育てた男よ」

「存じ上げていますとも。俳優になる以前からの関係だったとか」

「そうよ! だから余計に許せないの。私以外の女を選んだ挙句、あんな不細工な女と結婚しただなんて!! あれは私が育てた男、捨てた今だって私のものだったはずよ!!」

どこまでも支配欲を隠そうともしないセリフに内心で呆れる。男を支配していないと落ち着けない可哀そうな女だと分析しつつ、口元にだけは笑みを張り付ける。

「天才だからってなんなのよ!? 今の時代は美しさこそが最高神だったはずでしょう。愛情さえあれば、見た目なんてどうでもいいなんてのは化石にさえならないわ!!」

俺から受け取ったばかりのグラスをまたも空にして当たり散らす。

「どんなお嬢さんなんです? 俺、亜理紗さんにそこまで言わせるお嬢さんに興味が湧いてきちゃったなあ。機会があれば会ってみたいです」

そう言ってみると、生真面目にも傍に投げ捨てていたブランドのバッグからファイルを取りだして俺に手渡す。聊か手つきが雑だったのは目をつぶろうかな。

ファイルを開くと、中に映っていたのは亜理紗さんがいかにも嫌いそうな地味女が一人。ストレートの髪は黒くて、何か願掛けでもしているかのように腰まで伸ばしている。

服装はいたって普通のビジネスカジュアルだけれど、長い髪を飾っている銀色の簪が目を引いた。その隣に並んでいるのは地味な服装と眼鏡で隠していても判る。…地味女をどこかで見た覚えがあると記憶を巡らせて、すぐに気付く。

「マジっすか… マジであの海翔さん、なんですね…」

大学で話題になった最年少教授。美人で芸能界にツテのある人以外に興味がないし、大学そのものもいつ辞めてもいいと思っているので気にしなかったけれど、名前だけは何度も聞いた。

「木下志鶴… 考古学と言語学の天才。大学では英語、スペイン語の講義を担当しつつ、最近では古生物学の発掘現場にて通訳を担当… 真田海翔の通訳としてアメリカにも同行… おっと、同棲している写真まで。どうやって調べたんですか?」

俺の通ってる大学の教授ですよ、とは言わずにファイルを眺めつつ問いかける。…好みの女だと腹の底から熱が湧きおこり、胸の奥が疼いた。

「私の情報網を甘く見ないことね。全部調べさせたのよ。芋づる式に一気に出てきたわ。だけど、マスコミに売るわけにもいかないのよ!! それじゃ、せっかく育った海翔の面目が丸つぶれだわ」

イライラの原因に気付き、俺は苦笑いを返す。海翔さんのプライベートを明かして地獄の底へ突き落としたいのではないから。

ただ可哀そうな子犬の様に泣いて震えつつ戻ってきてほしいだけ。きっと亜理紗という女は寂しさを支配欲に変えてしまった人なんだろう。

「それに、調べたやつらは海翔の事務所の連中に潰されたわ。一人残らず私を裏切ってる… 雑魚どもだけど、いなければいないで不便だわ」

本当に身動きしにくくなってしまったんだろう。ブツブツと愚痴を言いつつ、グラスの中身をちびちびと飲み始める。テーブルの上で置きっぱなしになっているアーモンドの皿を取り上げると、

「今日はお慰めしますよ。そろそろご機嫌を直してください。女王様」

女の好みそうな言葉を選んで言い、アーモンドの皿を気取った仕草で差し出した。

「キザね! でも、嫌いじゃないわよ」

アーモンドを一粒取り上げながら、やっと小じわの見え隠れする顔を少女のような笑みで彩って見せる。最初からこれが素顔で、この素顔の通りにまっすぐな性格だったら、もう少し好きになれたかもしれないのに。

支配欲で寂しさを紛らわせたりしないで、海翔さんにも全力でぶつかっていたら愛してもらえたかもしれないのに。…そう考えてみるが、そんな性格では芸能界でやっていけないんだろう。

実際、この人の足元には踏みつぶされた才能溢れる芸能人達が数えきれないほどいるのだから。そんな可哀そうな人を今も踏みにじって笑っているんだ。…俺は偶然にも手を差し伸べてもらえた。それだけの男…

ファイルの奥で屈託なく笑いつつ、木下志鶴の肩に腕をまわしている男の身代わりになることができた。ただそれだけ。だけれど、俺にとっては千載一遇の大チャンスだった。

「なんでもしますよ。亜理紗さん」

「その言葉だけ受け取っておくわ。あはははっ、海翔もバカよね~。こんないい女を捨てて、ドブネズミ以下の女を選ぶなんてさ」

ウィスキーが回ってきたんだろう。危うい手つきでグラスを弄びつつ、亜理紗さんが笑った。…このまま酔いつぶれてしまいそうだ。

今日は性的な求められ方をしない。心から安堵する俺がいるけれど。チャンスになる。この顔とスタイルは売れる。そうわかってからの俺はまるで飢えた犬のようだ。必要なら天使のように笑うし、悪魔のように狡猾に親友さえだますのだから。

……お前は本当に可愛くて良い子ね。そのまま大人しく笑っていなさい。きっとみんなお前にひれ伏すわよ。もしも上手く札束を積み上げてくれたなら、もっと気持ちよくしてあげるわ。ベビーちゃん…

毒々しいまでに美しい女の眼差しが記憶の底から浮かび上がる。俺が亜理紗さんを抱きたくない理由だ。…性格が似ている分、扱いやすいけれど。

あまり得意でないウィスキーを一気に呷る。そろそろ氷が解けて薄くなったはずのウィスキーは、俺の幼少期の記憶を打ち消してくれなかった。向かい側のソファで、亜理紗さんは早くも寝てしまおうとしている。

心からの安堵に、深いため息を吐く。

「木下志鶴… ね。あなたには俺の気持ち判るのかなあ」

近付いてみよう。

心の内でそっと呟き、墜落するように寝てしまった亜理紗さんを抱き上げた。そしてベッドへ連れていく。翌朝、化粧を落としていないことに発狂しそうだけれど、構わない。

そのまま薄いコートを羽織り部屋を出ていく。外は深夜でマスコミさえいる様子もない。念のために眼鏡をかけ、マスクをして帰り道を急ぐ。

「亜理紗さん、あなたは扱いやすすぎるよ」

哀れにも利用されていることに気付いていない。その分だけ優しく尽くそうと決めた。それは愛情でない。ただの罪滅ぼしにさえなっていない。わかっているけれど…

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