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……悪化しました
しおりを挟む次の年季も買うと言ったら泣いて拒絶されて、ニコラが熱意を失ったかといえば、そんなことはなかった。
仕事を終えて、騎士の正装のまま急いで帰ってきたニコラは、それがまるで初めてであるようにミアに真摯に求婚した。
いつものようにニコラの求婚を断って、今日の事は何も話すまいと思っていたのに、本物の姫に微笑みかけ、かいがいしく世話をするニコラを思い出して、ミアは心を乱した。
「本物のお姫様は格別でございましたでしょう」
言ってしまって、慌てて唇を嚙む。
ニコラが誰かをエスコートしていて、痛む場所があったなも事実だ。
「いや、そんなことはない。ミアのしてくれる姫が格別だ。あれ以上はない」
ニコラの語調は変わらない。反芻するように目を閉じて記憶の中のミアを愛でている。
ニコラが腕を広げて抱擁を求めているのを知っていたが、ミアは受け取った正装のマントの皺を伸ばす振りをして、ニコラに背を向けた。
「疲れていなければ、ミアを少し愛でても構わないだろうか。何というか、今日のアレで心がすり減ってしまって、ミアが足りないのだが……」
ニコラが後ろから手を伸ばして、ミアが爪先立って掛けようと苦戦していたマントをとりあげ、外套掛けにかける。覆いかぶさるように背後に立たれると、ニコラから嗅ぎなれない香水の香りがした。
娼館で嗅ぐ安物とは違う香りが、本物の王女という存在を、ニコラに色濃くまとわりつけている。
タリムは人の体温が気持ち悪いと言っていたが、ミアはニコラから漂う自分とは違う存在に肌を粟立たせた。
「ええと、あの、今日はちょっと……月のものが……」
香りが届かないように一歩退がり、ミアはとっさにニコラの申し出を断る嘘をついた。
すると、ニコラは表情を引き締めて、心配そうな顔をする。
「もう来たのか? 予定より一週間も早いな。体調が悪いのか?」
当然のように月のものの周期まで把握されていて、しまったと内心舌打ちをした。
「いえ、月のものはまだですが、その、実は少し腹具合が悪くて……」
「どうしたのだろう。城を出るまでは顔色も変わらなかったし、タリム譲と二階にいるときも調子が悪いようにはみえなかった。ギルドの者と何かあった様子もないし……とすると、リシル様から貰った菓子か? 食べたものに何か異常が?」
こちらから覗いているばかりだと思っていたニコラに、城内での様子をしっかり観察されていた。終いにはリシルの名前がでて、ミアは冷や汗をかく。
ニコラはミアの体調を知ろうと手袋を取ると、ミアの額に触れようとする。逆光で顔の見えない、正装の知らない匂いの騎士がミアに手を伸ばす。
「ひゃっ……待ってください、触らないで……」
「どこか痛いのか? 医者にかかった方がいいだろうか。ミア、頼むからじっとして、異常が無いか確かめさせてくれ」
手負いの野生動物に接するように、ミアを宥めながらじわりじわりと距離を詰めてくる。
身を縮めているミアの薄く透ける耳にニコラの指が触れると、初めて触れられたわけでもないのに、びくりと過剰に反応する。
きゅっと目を閉じて、耐えたが、触れられた耳の先が見る間に赤くなる。
(そうだ、ニコラ様はわたしじゃなくても微笑んだり、世話をしたりなさるんだ。恵まれたところに置かれすぎて、馬鹿になってた……こんなんじゃダメだ)
ミアは頭を振って自分のおかしな行動を止めようとする。
「……嘘です。ごめんなさい。本当はどこも悪くないんです」
選り好みなど出来る身分ではないのに、ニコラの相手を避けるなど意識しすぎだと自分に言い聞かせて前を向く。
「本当か? ならどうして……」
ニコラの真剣な顔は、つまらない嘘で煙に巻けるような雰囲気ではなかった。
「今日……アガット王女といるニコラ様を見ていたら……娼婦のくせにお姫様の真似事をした自分が恥ずかしくて……申し訳なくて。とてもこれ以上、お姫様のように振る舞えないと思って。そもそも、私がいなければよかったのになって思って……わたしがいなければニコラ様の本当の姫様だって早く見つかったかもしれないのに。わたしがいなければ、娼婦熱なんて厄介なものに苛まれなかっただろうし、家を手放すなんて馬鹿なこと仰らなかったはずで……わたしががいなければ、きっと――」
端から言葉にしてみれば、なんだか全く違う気もする。
そう思っていたのは確かだが、感情がはっきりとした形にならず、もやもやと渦巻いている。
「――なんだか、よくわからないんです。申し訳ありません」
ニコラは少し考えて、優しくミアの頭を撫でる。
「ミア、頼みがある。ミアがどう思っていても構わない。私の為に姫を演じてくれないか?」
断ることはできないと思った。そうする理由がないのだから。
「……はい」
居間のソファにミアを待たせ、持ってきた荷物の包みを開ける。
「見てくれ、アディアール家の者が届けてくれたのだ。母上が早まってな、ミアにドレスを作ったんだ。以前の物は大きさが合わなかっただろう?」
「ニコラ様、ドレスなんて高価なものを受け取れません。ケイトリンさまにも、わたしに何も与える必要はないのだとお伝えください」
「母上の好意を無下にしないでくれ。何かの褒美で作ったのではないんだ。母上は単にミアに着せたら愛らしいだろうと、それだけで仕立てたのだよ」
「もったいないご好意です」
そう言われたら断ることができないが、もうすぐ年季の明ける娼婦が手にするには豪華すぎる品のように思えた。
「ああ、このドレスか……」
ニコラは淡い色のドレスを広げてみて目を細める。ミアにも見覚えがあった。アディアールの屋敷に行った時に、ケイトリンがミアに読んでくれた絵本に出てきたお姫様が着ていたドレスにそっくりだ。
ニコラは貴人の着替えの時にそうするように、極力ミアに触れる事なくドレスを着付けていく。
すっかり身支度が整うと、ニコラは以前ミアに飾ったティアラをそっと頭に載せた。そういえば、このティアラもあの絵本の王女が戴いていた物と似ている。
「ニコラとお呼びください、姫」
これが遊びの始まりの合図だ。
甘すぎる声とともに耳朶を噛まれる。
今日のニコラは騎士の正装をしていて、いつもと違う香りを纏い、ミアを落ち着かなくさせる。
「……ニコラ」
ミアは覚悟を決めて、ニコラと呼ぶ。
「さて、姫さま、今宵は少しお話を致しましょうか」
「……」
ミアはどうなってしまうのかさっぱり予想がつかなくて、黙る他なかった。
裾に足を取られないようにして立つミアの前に膝をついたニコラが、ミアの片手を握る。
「姫は、私の忠誠を疑っておいでですね」
「……」
ミアはどう振舞うべきなのかさっぱりわからない。
「私は騎士です。お仕えする方を別に持つことなどないのですよ」
「私よりも仕えるべき方がいるでしょう」
ミアはニコラに忘れ去られるべき存在だ。いつまでも娼婦熱にかかったままでは困る。
「そう思っていたのは遥か昔の事です」
しれっとそう告げるニコラにミアは眉を寄せる。
「以前はタリム様に仕えたがっていたわ」
「……もちろんタリム様はクリスタニア様のお子として敬愛しております。尊い血筋です。しかし、私は騎士として選ばれませんでした。私ではタリム様の望みは何一つ叶えることができないのですから、仕方がない」
「では、アガット姫なら? 姫ならニコラが剣を捧げる事をお許しになるはずです」
言ってみて、体が軋むような、おかしな動きをしたような気がした。ケイトリンに教えられたように優雅に動けただろうかと爪先の位置を確認する。
「今日、アガット様のお世話をしながら、ずっと貴女のことを考えておりました。由緒正しい王家の王女のお世話をさせていただける機会だというのに、全く楽しみがないのです。あんなのは私が望む主従ではない。何が違うのかお分かりですか? 」
「わからないわ」
ニコラの瞳が鮮やかさを増す。なにかを確信して口元に深い笑みを湛える
「アガット王女が私の主人ではないからです」
ミアはもう一度、習った通りに姿勢を整える。ニコラの甘言に耐えられるように背筋を張って、甘さに押し流されないように構える。
「貴女の勤勉さやいじらしさを想って、私の仕える方は誰なのかを心に刻んでおりました」
「……まやかしのものです」
「いえ、私の剣はとっくに貴女のものです。私が貴女を主と決めたのは、浅はかな劣情のせいではありません。義務感でもありませんよ。そうやって貴女が懸命に何かを務め上げようとする姿勢でしょうか。今だって、私の望む姫であろうとしてそこに立っていらっしゃる。誰よりも私の理想は貴女の中にあるのです」
ニコラの口ぶりは、本気で娼婦に傅こうとしているのだと聞こえる。
「……何を言っているかわかっているの?」
「もちろんです。お許しいただければ犬のように尾を振りますのに」
(そんなの、遊びでしたって大問題だわ)
「そんなの、いけません……」
「私はもう手遅れです。貴女がどこでどう生きても私は、貴女に仕えると決めてしまったのです」
ニコラは跪き、ミアの指先に唇を押し当てる。
絵本から飛び出してきたような騎士は、物語に反して、そのまま姫の指先を食もうとしている。
ズキリと体のどこかが痛んで、息が詰まる。腹の中のざわめきに、じっとしていられなくなる。
「だだだ、だめです。ニコラ、離れて」
ミアは何だかとても慌てた。湧き出る何かに翻弄されて、自分を失いそうになる。
ドレスの裾を乱していけないとケイトリンからきつく言われている。こんな時なのにミアが美しい仕草で身を翻したのをニコラは逃さなかった。
「姫、逃がしません。覚悟をなさいませ」
羽を掴むように、しかし身動きが取れないようにミアの腕を掴む。
「離しなさい。ふ、ふ、不敬よ」
貴人に直接触れるのは不敬だと学習したミアから発せられた言葉は、ニコラの欲望に薪をくべた。
「私に全てお任せください」
ニコラはアガットに向けていたような柔らかな笑みをミアに向けているが、キラキラと形容するよりギラギラとした熱がこめられている。
「私、何か、本当に体調がおかしくて……」
「でしたら、私が介抱して差し上げましょう」
いつのまにか優しく首筋に唇を当てていたニコラは、徐々に荒々しく首筋を齧り始める。ズキズキと触れられた場所が脈打つ。
「触れる事は、許さないわ」
弱々しい反抗にニコラは、ふふっと笑う。
「姫――もしや、私がアガット王女に陥落されるとお思いになったのでは?」
ニコラが何を意図してそう言ったのかわからず、ソワソワと落ち着かない居心地の悪さを感じた。
「口が過ぎるわ。もう下がって」
「やはり姫は、私を煽るのがお上手だ……」
ニコラは止まらない。それどころか常にはない激しさでミアを追い詰めていく。ミアがびくりと身を震わせるのを楽しむように、肌が露出しているところ一つ一つ唇でなぞる。
(胸が苦しいし、息が出来ない……)
常とは違う感覚に、ミアは恐怖を感じる。
「ニコラ様! ニコラ様、無理です、もう無理! わたし、死んでしまいます!」
ミアは頭がぐらぐら煮えるようになって泣き出した。恥ずかしいような、官能に炙られるようなぐちゃぐちゃな感情を処理しきれなくなったのだ。
「ああ、ミア、どうした。すまない。やりすぎたか……」
ミアを抱いたままソファに腰を落とし、トントンと背を叩いてミアをあやす。ミアの心臓はずっと早鐘を打つようだ。
「ニコラ様は意地悪です……」
「性急にしすぎたな」
「わたし、本当になんだかおかしくて……」
後から後から涙が出るのに、その感情につける名前がない。
「どのようにおかしいのか説明できるか?」
少し時間を置いて、やっと呼吸が楽になったころニコラがミアに尋ねた。
何か悪い病気にかかってしまったのかと、ミアは少し心配になる。
「動悸がします」
「そうか」
ニコラはティアラが載ったままのミアの頭を両手で挟み込むと、音を立ててミアの眉間に口付ける。
「どうなった? 良くなったか」
ニコラが微笑んでいる。笑いを噛み殺すような笑みはアガットに向けていたものとは違う。
またおかしな動悸に襲われる。
「……悪化しました」
「は、はは……そうか、そうか」
ニコラはミアが混乱しているというのに、上機嫌だ。
「なんだ、何が効いたんだ? 騎士服だろうか」
ニコラは着込んだままだった正装の上着を脱ぎ、広げて眺める。窮屈だったのか内側のシャツの襟を乱して緩めると、大きく開いた襟ぐりから引き締まった胸元がのぞいた。目の前が肌の色ばかりになって、ミアはぎゅっと胃を掴まれたような衝撃を感じた。
ミアはニコラのシャツの襟の右と左をぎゅっと閉じて、目の毒とばかりに顔を背ける。
「ニコラ様っ! しまってください! け、ケイト様は、服を乱して着るなとおっしゃっていましたよっ!」
ニコラは「ぐぅ」と言ってミアを抱きしめて、しばらく離さなかった。
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