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これだけですか?
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すぐに平常心を取り戻したニコラによって、リリアムは適当な仕事を言いつけられて執務室から追い出された。
ニコラは萎れに萎れてミアに詫びる。
申し訳なさそうに頭を下げられて、ミアは何だか自分が悪い事をしたような気持ちになった。
自衛しろと叱られるのならわかるが、これほど落ち込まれるとは。
「いえ、別にどうってことありません。花街では姐さんたちを相手に練習したりもしますし、それと似たようなものじゃないですか」
「いや、リリアム嬢が危険なのはわかっていたのだ。私が油断したのが悪い。まさか女性にまで手を出すほどだったとは……」
「まぁ、そりゃ、女性でも道具など持ち出されたら処女を奪われることもあるでしょうけれど、あのくらいなら大したことはございませんよ。舌を入れるくらい、花街ではよくある遊びでしょう」
ニコラは何を想像したのか悪いものを食べたような顔をして口元を押さえた。
「そんなこと、とても耐えられない!」
ニコラはミアを抱きしめた。油断してミアの唇を守れなかった己を責めているのだろうが、ミアにはニコラが何に憤っているのかいまいちよくわからない。
口の中を舐められた事にしても、
(娼婦じゃなくても孤児たちだって飢えている時に目の前で喉を詰まらせて死んだ人がいたら、その口の中の食べ物を奪うくらいのことはするだろうし――)
などと、およその人が考えることとはズレたことを考えている。
「では、万が一、ニコラ様との契約期間に何かあったら、リリアム様に花街へ罰金を払っていただくことに致しましょう。それなら安心でしょう? やはり禁止行為を決めておくべきでした。キスを禁止していたら、その分リリアム様から頂けたかもしれませんものね」
もしリリアムから罰金が支払われたら、これまでの半年、ニコラ相手に仕事をしなかった埋め合わせとしてニコラに渡そう――とミアはまだ貰ってもいない金額に思いを馳せた。
呑気なミアに比べて、ニコラの落ち込みはひどかった。
「ミア、もう城で働くのはやめよう。もともと戯言をおっしゃったのは陛下だ。陛下がしくじった以上、ミアをここで働かせておく義理はないのだから」
ニコラは思い詰めた声でミアに訴えた。しかし、国王からの斡旋で始めた仕事をこちらの都合でやめることができるとは思えない。それに、せっかく得た仕事を自分から放り出すのは惜しい気もした。
(ニコラ様は事あるごとに過保護でおかしなことを言い始めるわね。リリアム様といい、貴族の考えることはよくわからないや)
ミアはそこで、リリアムがニコラを旦那様と呼んだことを思い出した。
「……そういえば、ニコラ様はリリアム様と結婚されるのですか?」
そう問えば、ニコラはぶんぶんと首を振る。
「まさか。さっきのやりとりで、どうやったらそんな事を考えつくのだ?」
「貴族の結婚は平民とは違うと聞きます。でも、ニコラ様が結婚するとなったら私は花街に戻らなければなりませんね。花街は既婚者や婚約者がいる方に娼婦を派遣できませんから」
「ミア、私は約束を違えるようなことはしない。だいたい、花街に帰ったらお前はどうなる……」
貴族に召し抱えられたという箔がついて、指名が増えるかもしれないなと打算的なことが浮かんだが、ニコラの具合の悪そうな顔を見て、告げるのは思いとどまった。
「私のことならご心配なく。店に戻った後でも、ニコラ様が会いに来てくださればお相手致しますよ。まぁ、奥方のお許しがあればですが」
ミアの気遣いはニコラを絶望的な気持ちにさせた。
*
帰宅してニコラは国王にどのように苦情をいれようかと考えていた。
初対面のミアを貪るのに躊躇がなかったリリアムを苦々しく思う。あれは貴族の娘の顔はしているが、その実、躾も何もできていない性的なケダモノだ。ガーウィン教官め、よくもああなるまで放っておいたものだ、と責めたい気持ちになる。
(娼館での練習以上に口付けの経験があるとは思えなかったし、口付けをするような恋人がいたこともないだろう。初めてがリリアムのような怪物に奪われてしまうとは――)
ため息が漏れる。
思いのほか食後の酒が進んで、ニコラはほろ酔いだ。
果汁で薄めたワインを飲んだミアの頬もほんのり赤い。白い肌にこじんまりと行儀よく並ぶ薄桃色の唇は、ニコラの中では神聖なものであり、戯れに奪われて良いものではなかった。
「可哀想に……」
「形ばかりの口付けの練習は致しましたが、確かに、ああいう口付けは初めてでしたね。勉強になります」
「……初めて」
ニコラはミアの口からもたらされた事実にさらに酒が回った気がした。
「あ、申し訳ありませんでした。ニコラ様も処女を好まれる方でしたか? でも、大丈夫です。口付けでしたら、人からされたのはニコラ様が初めてですよ――手の甲に、ではありましたけれど」
「処女を好むだなんて、私を見くびるな。私は、ミアを意に添わぬ事故に合わせてしまったことを深く反省しているのだ。ミアの初めての口付けは愛する者に与えられるものであったのに……」
ニコラは酔っていたので、泣こうと思えば泣けたかもしれない。考えないようにと思っても、昼間のことがまざまざと思い出される。
ニコラはリリアムがミアの口にどれほど深く舌を差し入れたのか、およその見当がついて、やりきれなくなった。
「それでは、ニコラ様もなさいますか?」
「あ……?」
「ですから、ニコラ様もわたしと口付けをなさいますか? 合意がない行為を不憫に思うのはわかりました。では、わたしが望むならよろしいので?」
ミアの申し出は娼婦が客にする提案としては特におかしなものではなかった。
受けようかという気持ちと、騎士としてミアを守る者が手を出してどうする、という気持ちが拮抗する。
「……ぐぅ」
なんと言うべきかと言葉を探すうちに、口からは情けないうなり声が漏れた。
「あの後、清めてまいりましたが、誰かに触れられた後はお嫌ですか?」
「嫌なはずがない。いいかい、ミア、私は花街の仕事に敬意を持っている。昔、心安らかでなかった時に、私を慰めてくれたのは花街の住人たちだった。それは紛れもない事実だ」
「私も自分の仕事を特に卑下しているわけではありませんよ。花街の人たちは親切です」
「わかっている。私が憤っているのはあの女に対してだ。リリアム嬢が乱暴を働いただけで、ミアは汚れたわけではない。処女性を好む男たちがいるのは確かだが、そのように言わないでおくれ。目の前にいたというのにみすみす歯牙にかかるのを眺めていた私が愚かだったのだ。騎士失格だ……」
くどくどと話が元に戻る。酔った時のニコラが愚痴っぽくなるのは経験済みだ。
「私は気にしておりませんが、初めてに価値があるのでしたらニコラ様に差し上げたかったです。自分の身を守りきれずニコラ様を煩わせて申し訳ありませんでした」
「だから、謝る必要がないと言っている! 悪から守り、悪を退けるのが騎士の仕事だ! どう考えても悪いのはあいつだ!」
ニコラの酔いは呂律の怪しげなものになってきていたが、リリアムにミアを害されたことについては酒では怒りが収まらないようだった。
*
その後も、する、しないと押し問答が続き、結局、寝室はまずいからと居間に呼ばれた。なんだかんだと言うくせに、本能に負けてくれるニコラをミアは好ましく思う。
「私から致しましょうか?」
「いや、ミアはじっとしていてくれ。酒を飲みすぎた。ミアに愛らしく煽られて理性のタガが外れたら困る」
ニコラはここまで来て、まだつまらない意地を張っている。
どうぞと促すと、ニコラは壊れ物を扱うように優しくミアの髪を撫で、形の良い頭を引き寄せて旋毛に唇を落とす。
道端の孤児だったミアは、ニコラの家に来るまでこんな風に丁寧に扱われたことはなかった。
ニコラには、こうしてあたたかな抱擁を与える肉親がいるのだなと、ニコラによく似たニコラの母を想った。
ニコラと一緒にいればいるほど、何から何まで自分とは違うのだと思い知る。
(ニコラ様は善良だな――少し変態だけど)
いい仕事場に当たったことを、今まで祈っても無駄だと思っていた神に感謝した。
「目を閉じて」
「はい」
リリアムの手と同じようにニコラの手も皮膚が厚く荒れている。忙しくても毎日、鍛錬を欠かさない勤勉さを表す手だ。
リリアムと似て異なるのはその手の所作だ。リリアムは巧みではあったが、ミアの反応をうかがう様子などなかった。
観察され、細心の注意を払われ、ニコラの指がミアの唇をなぞる。
ニコラとの距離が近くなり、ミアは唇に温かなものが触れたのを感じた。
すぐさま身が離れ、目を開くとニコラが酔った顔で呆けている。
「……これだけですか?」
「十分だ。明日も早い、もう休もう」
そんなことを言うくせに、ニコラの視線はミアの唇に注がれ、どんな動きも逃さないと、目で追っている。
ニコラの口ぶりが痩せ我慢だと知ると、ミアは少し口を開け、その口にふさわしい小ぶりな舌をのぞかせる。
「でも、リリアム様はこう、貪るように、喉奥までベロベロとされておりましたよ」
ミアが舌を動かして描写すると、ニコラはむっとした。
「だがミアが……」
「リリアム様にされて、私も学びました。私がニコラ様にしてみましょうか?」
「それは駄目だ」
花街に報告に行くたびに娼館の姐さんたちからニコラを篭絡するための手管をいろいろと教えられる。最近では、どうすれば頑なニコラを動かすことができるかと、ミアが花街に行くたびに議論になるくらいだ。
教えられた、小首をかしげて相手を見上げるという技を使ってみるときが来たのかもしれないと、ミアはぐっと首を傾けてみる。駄目押しで、まだ頬に添えられていたニコラの手に手を重ねる。
「どうしても、だめなのですか?」
「だ……いや……では、少しだけ」
「はい、少しだけ!」
(やった! 姐さんに、首を寝違えた時のポーズが効果があったと報告しなきゃ!)
ニコラは頭を傾けると慎重に口付けを深くしていく。
自分とは別の高い体温の肉の塊が口いっぱいに入ってくるのをミアは不思議な気持ちで受け入れた。
紳士的な動きではあるが、興奮して息を乱している。酒気を帯びた吐息まで共有して、ミアも酔ったようになった。
肉厚な柔らかな舌は巧みに動きまわり、ミアに合わせて奥まで侵入してくる。ミアがぎこちなく舌を絡めれば、ニコラは舌先を操りミアが快感を得られる場所を熱心に探す。
勢いばかりのリリアムの口付けとは違って、ニコラのキスはミアの意識を霞ませていくほどに官能的だった。
歯列をなぞり、柔らかく噛まれたり擦り付けられたりするのを、自由のきかなくなった体で受け止めていると、腹の奥にじりりとした熱が溜まる。
「……んっ」
思わず吐息に喘ぎが混じると、ニコラは褒めるように抱きしめる。その間もニコラはミアの唇を解放しない。
長くかかって唇が離れた時にはふらふらで、ニコラの胸に縋り付くばかりだった。
「ミア、愛らしかった。良い働きだったよ。立てるか?」
まだぼーっと赤い顔をして俯いているミアの額に口付けると、ニコラはそそくさとミアを横抱きにして寝室に戻した。
「おやすみ」
追いかけられないように部屋に鍵をかけられ、ニコラのバタついた足音がニコラの寝室まで遠ざかる。
今夜も自慰行為をミアに手伝わせる気はないようだ。
ミアにしても、腰砕けてしまって、ニコラを追う気力が湧かない。
「……す、すごかった」
ミアは侮っていた。
ニコラは器用な男だが、舌の動きまでそうだとは思わなかった。
くたくただったが、寝る前に、ニコラによってごまかしがきかないほどに濡らされてしまった下着を替えなければならず、ミアにしては珍しく、娼婦の矜持とはなんだろうと煩悶した。
ニコラは萎れに萎れてミアに詫びる。
申し訳なさそうに頭を下げられて、ミアは何だか自分が悪い事をしたような気持ちになった。
自衛しろと叱られるのならわかるが、これほど落ち込まれるとは。
「いえ、別にどうってことありません。花街では姐さんたちを相手に練習したりもしますし、それと似たようなものじゃないですか」
「いや、リリアム嬢が危険なのはわかっていたのだ。私が油断したのが悪い。まさか女性にまで手を出すほどだったとは……」
「まぁ、そりゃ、女性でも道具など持ち出されたら処女を奪われることもあるでしょうけれど、あのくらいなら大したことはございませんよ。舌を入れるくらい、花街ではよくある遊びでしょう」
ニコラは何を想像したのか悪いものを食べたような顔をして口元を押さえた。
「そんなこと、とても耐えられない!」
ニコラはミアを抱きしめた。油断してミアの唇を守れなかった己を責めているのだろうが、ミアにはニコラが何に憤っているのかいまいちよくわからない。
口の中を舐められた事にしても、
(娼婦じゃなくても孤児たちだって飢えている時に目の前で喉を詰まらせて死んだ人がいたら、その口の中の食べ物を奪うくらいのことはするだろうし――)
などと、およその人が考えることとはズレたことを考えている。
「では、万が一、ニコラ様との契約期間に何かあったら、リリアム様に花街へ罰金を払っていただくことに致しましょう。それなら安心でしょう? やはり禁止行為を決めておくべきでした。キスを禁止していたら、その分リリアム様から頂けたかもしれませんものね」
もしリリアムから罰金が支払われたら、これまでの半年、ニコラ相手に仕事をしなかった埋め合わせとしてニコラに渡そう――とミアはまだ貰ってもいない金額に思いを馳せた。
呑気なミアに比べて、ニコラの落ち込みはひどかった。
「ミア、もう城で働くのはやめよう。もともと戯言をおっしゃったのは陛下だ。陛下がしくじった以上、ミアをここで働かせておく義理はないのだから」
ニコラは思い詰めた声でミアに訴えた。しかし、国王からの斡旋で始めた仕事をこちらの都合でやめることができるとは思えない。それに、せっかく得た仕事を自分から放り出すのは惜しい気もした。
(ニコラ様は事あるごとに過保護でおかしなことを言い始めるわね。リリアム様といい、貴族の考えることはよくわからないや)
ミアはそこで、リリアムがニコラを旦那様と呼んだことを思い出した。
「……そういえば、ニコラ様はリリアム様と結婚されるのですか?」
そう問えば、ニコラはぶんぶんと首を振る。
「まさか。さっきのやりとりで、どうやったらそんな事を考えつくのだ?」
「貴族の結婚は平民とは違うと聞きます。でも、ニコラ様が結婚するとなったら私は花街に戻らなければなりませんね。花街は既婚者や婚約者がいる方に娼婦を派遣できませんから」
「ミア、私は約束を違えるようなことはしない。だいたい、花街に帰ったらお前はどうなる……」
貴族に召し抱えられたという箔がついて、指名が増えるかもしれないなと打算的なことが浮かんだが、ニコラの具合の悪そうな顔を見て、告げるのは思いとどまった。
「私のことならご心配なく。店に戻った後でも、ニコラ様が会いに来てくださればお相手致しますよ。まぁ、奥方のお許しがあればですが」
ミアの気遣いはニコラを絶望的な気持ちにさせた。
*
帰宅してニコラは国王にどのように苦情をいれようかと考えていた。
初対面のミアを貪るのに躊躇がなかったリリアムを苦々しく思う。あれは貴族の娘の顔はしているが、その実、躾も何もできていない性的なケダモノだ。ガーウィン教官め、よくもああなるまで放っておいたものだ、と責めたい気持ちになる。
(娼館での練習以上に口付けの経験があるとは思えなかったし、口付けをするような恋人がいたこともないだろう。初めてがリリアムのような怪物に奪われてしまうとは――)
ため息が漏れる。
思いのほか食後の酒が進んで、ニコラはほろ酔いだ。
果汁で薄めたワインを飲んだミアの頬もほんのり赤い。白い肌にこじんまりと行儀よく並ぶ薄桃色の唇は、ニコラの中では神聖なものであり、戯れに奪われて良いものではなかった。
「可哀想に……」
「形ばかりの口付けの練習は致しましたが、確かに、ああいう口付けは初めてでしたね。勉強になります」
「……初めて」
ニコラはミアの口からもたらされた事実にさらに酒が回った気がした。
「あ、申し訳ありませんでした。ニコラ様も処女を好まれる方でしたか? でも、大丈夫です。口付けでしたら、人からされたのはニコラ様が初めてですよ――手の甲に、ではありましたけれど」
「処女を好むだなんて、私を見くびるな。私は、ミアを意に添わぬ事故に合わせてしまったことを深く反省しているのだ。ミアの初めての口付けは愛する者に与えられるものであったのに……」
ニコラは酔っていたので、泣こうと思えば泣けたかもしれない。考えないようにと思っても、昼間のことがまざまざと思い出される。
ニコラはリリアムがミアの口にどれほど深く舌を差し入れたのか、およその見当がついて、やりきれなくなった。
「それでは、ニコラ様もなさいますか?」
「あ……?」
「ですから、ニコラ様もわたしと口付けをなさいますか? 合意がない行為を不憫に思うのはわかりました。では、わたしが望むならよろしいので?」
ミアの申し出は娼婦が客にする提案としては特におかしなものではなかった。
受けようかという気持ちと、騎士としてミアを守る者が手を出してどうする、という気持ちが拮抗する。
「……ぐぅ」
なんと言うべきかと言葉を探すうちに、口からは情けないうなり声が漏れた。
「あの後、清めてまいりましたが、誰かに触れられた後はお嫌ですか?」
「嫌なはずがない。いいかい、ミア、私は花街の仕事に敬意を持っている。昔、心安らかでなかった時に、私を慰めてくれたのは花街の住人たちだった。それは紛れもない事実だ」
「私も自分の仕事を特に卑下しているわけではありませんよ。花街の人たちは親切です」
「わかっている。私が憤っているのはあの女に対してだ。リリアム嬢が乱暴を働いただけで、ミアは汚れたわけではない。処女性を好む男たちがいるのは確かだが、そのように言わないでおくれ。目の前にいたというのにみすみす歯牙にかかるのを眺めていた私が愚かだったのだ。騎士失格だ……」
くどくどと話が元に戻る。酔った時のニコラが愚痴っぽくなるのは経験済みだ。
「私は気にしておりませんが、初めてに価値があるのでしたらニコラ様に差し上げたかったです。自分の身を守りきれずニコラ様を煩わせて申し訳ありませんでした」
「だから、謝る必要がないと言っている! 悪から守り、悪を退けるのが騎士の仕事だ! どう考えても悪いのはあいつだ!」
ニコラの酔いは呂律の怪しげなものになってきていたが、リリアムにミアを害されたことについては酒では怒りが収まらないようだった。
*
その後も、する、しないと押し問答が続き、結局、寝室はまずいからと居間に呼ばれた。なんだかんだと言うくせに、本能に負けてくれるニコラをミアは好ましく思う。
「私から致しましょうか?」
「いや、ミアはじっとしていてくれ。酒を飲みすぎた。ミアに愛らしく煽られて理性のタガが外れたら困る」
ニコラはここまで来て、まだつまらない意地を張っている。
どうぞと促すと、ニコラは壊れ物を扱うように優しくミアの髪を撫で、形の良い頭を引き寄せて旋毛に唇を落とす。
道端の孤児だったミアは、ニコラの家に来るまでこんな風に丁寧に扱われたことはなかった。
ニコラには、こうしてあたたかな抱擁を与える肉親がいるのだなと、ニコラによく似たニコラの母を想った。
ニコラと一緒にいればいるほど、何から何まで自分とは違うのだと思い知る。
(ニコラ様は善良だな――少し変態だけど)
いい仕事場に当たったことを、今まで祈っても無駄だと思っていた神に感謝した。
「目を閉じて」
「はい」
リリアムの手と同じようにニコラの手も皮膚が厚く荒れている。忙しくても毎日、鍛錬を欠かさない勤勉さを表す手だ。
リリアムと似て異なるのはその手の所作だ。リリアムは巧みではあったが、ミアの反応をうかがう様子などなかった。
観察され、細心の注意を払われ、ニコラの指がミアの唇をなぞる。
ニコラとの距離が近くなり、ミアは唇に温かなものが触れたのを感じた。
すぐさま身が離れ、目を開くとニコラが酔った顔で呆けている。
「……これだけですか?」
「十分だ。明日も早い、もう休もう」
そんなことを言うくせに、ニコラの視線はミアの唇に注がれ、どんな動きも逃さないと、目で追っている。
ニコラの口ぶりが痩せ我慢だと知ると、ミアは少し口を開け、その口にふさわしい小ぶりな舌をのぞかせる。
「でも、リリアム様はこう、貪るように、喉奥までベロベロとされておりましたよ」
ミアが舌を動かして描写すると、ニコラはむっとした。
「だがミアが……」
「リリアム様にされて、私も学びました。私がニコラ様にしてみましょうか?」
「それは駄目だ」
花街に報告に行くたびに娼館の姐さんたちからニコラを篭絡するための手管をいろいろと教えられる。最近では、どうすれば頑なニコラを動かすことができるかと、ミアが花街に行くたびに議論になるくらいだ。
教えられた、小首をかしげて相手を見上げるという技を使ってみるときが来たのかもしれないと、ミアはぐっと首を傾けてみる。駄目押しで、まだ頬に添えられていたニコラの手に手を重ねる。
「どうしても、だめなのですか?」
「だ……いや……では、少しだけ」
「はい、少しだけ!」
(やった! 姐さんに、首を寝違えた時のポーズが効果があったと報告しなきゃ!)
ニコラは頭を傾けると慎重に口付けを深くしていく。
自分とは別の高い体温の肉の塊が口いっぱいに入ってくるのをミアは不思議な気持ちで受け入れた。
紳士的な動きではあるが、興奮して息を乱している。酒気を帯びた吐息まで共有して、ミアも酔ったようになった。
肉厚な柔らかな舌は巧みに動きまわり、ミアに合わせて奥まで侵入してくる。ミアがぎこちなく舌を絡めれば、ニコラは舌先を操りミアが快感を得られる場所を熱心に探す。
勢いばかりのリリアムの口付けとは違って、ニコラのキスはミアの意識を霞ませていくほどに官能的だった。
歯列をなぞり、柔らかく噛まれたり擦り付けられたりするのを、自由のきかなくなった体で受け止めていると、腹の奥にじりりとした熱が溜まる。
「……んっ」
思わず吐息に喘ぎが混じると、ニコラは褒めるように抱きしめる。その間もニコラはミアの唇を解放しない。
長くかかって唇が離れた時にはふらふらで、ニコラの胸に縋り付くばかりだった。
「ミア、愛らしかった。良い働きだったよ。立てるか?」
まだぼーっと赤い顔をして俯いているミアの額に口付けると、ニコラはそそくさとミアを横抱きにして寝室に戻した。
「おやすみ」
追いかけられないように部屋に鍵をかけられ、ニコラのバタついた足音がニコラの寝室まで遠ざかる。
今夜も自慰行為をミアに手伝わせる気はないようだ。
ミアにしても、腰砕けてしまって、ニコラを追う気力が湧かない。
「……す、すごかった」
ミアは侮っていた。
ニコラは器用な男だが、舌の動きまでそうだとは思わなかった。
くたくただったが、寝る前に、ニコラによってごまかしがきかないほどに濡らされてしまった下着を替えなければならず、ミアにしては珍しく、娼婦の矜持とはなんだろうと煩悶した。
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