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ストリームオブトレイン
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夕方のラッシュ前のJR常磐線は、思っていたほどすいてはいなかった。
発車を知らせる電子音と共に車両に乗り込んだ私は、空いたスペースを求めて車内中ほどへと進んだ。電車へ乗り込んだ時の条件反射として目線を周囲に一周させるが、当然のことながら空いている席はひとつもない。
さっきから左肩に鈍い痛みを感じている。軽量で簡単に肩にかけられるとの謳い文句に惹かれ選んだベビーカーだが、肩にかかる負担がゼロというわけにはいかないらしい。私の顔のすぐ下には、最新型の抱っこひもに身を包まれた、生後十ヵ月の息子の顔がある。すやすやと眠るその寝顔は、この上なく愛らしい。が、それを味わう余裕は、今の私にはない。
同じ月齢の子の中でもかなり大きめと言われたその体重は、静かに、否応なく私の体に負荷をかけ続けている。久しぶりに仕事をした疲れもあり腰もジンジンと痛んだが、この空間の中には泣き言を言える相手などいない。だから黙って耐えるしかない。
子連れ出勤の第一日目である今日は、予想はしていたもののやはりハードだった。
普段と何かが違うことを察した息子は、朝食の時間からぐずり出し、朝の支度に思ったより時間がかかってしまった。お弁当を作り息子を着替えさせ時計を見ると既に、家を出なければ間に合わない時刻の十分前で、化粧もそこそこにバタバタと家を出た。おかげで後ろ髪は今日一日中はねたままだった。
ベビーカーはほとんど乗ってくれない息子のために持って行くべきが迷ったが、とりあえずと思い持って出たのが失敗だった。乗せようとする度に泣き喚かれ、結局行きも帰りもずっと折り畳まれたまま何の役にも立たず、ただいたずらに私の肩を痛めつけただけだった。明日からは絶対に持ってくるのはやめようと呪うように心の中でつぶやきながら、空いている右手でつり革をつかんだ。
動き出した電車の窓の向こうの景色が懐かしい。
電車に乗るのは約一年ぶりだ。一番最後に乗ったのは、産休に入る前の最後の出勤日であり、まだ息子がこの世に誕生する前だった。あの日からたった一年しか経っていないというのに、まるで遥か遠い昔の日のことのように思い出される。あるいは別世界の出来事であったかのように。
産休に入ってから育休が終わるまでの間、私にだけ現実の時間よりもずっと多くの時間が流れていたかのような、そんな不思議な感覚がある。いわば浦島太郎の逆パターンである。逆パターンとはいえ、時間の感覚がおかしくなるという点においては、私が行っていた場所も竜宮城のようなところだったのかもしれない。妊娠、出産、育児。どれも決して極楽気分で行えるようなことではないが、職場という俗世間から離れ、私が過ごしていた空間は、浮世離れした、社会から断絶された場所のように思えてならなかった。
窓の外の景色を眺めていると、ふと目の前の窓ガラスに貼られたシールの文字が、目に飛び込んできた。「優先席」と、書かれてある。お年寄り、ケガをした人、妊婦さん、子連れのお母さんの四種類の図柄がそこに描かれていた。
しまった、と思う。これではまるで、わざと席を譲ってくださいと言わんばかりに立っているみたいではないか。とっさに移動しようかとも考えたが、走行中の車両内を移動するのは、危険かつ顰蹙を買う行為でもある。
仕方なく下を向くと、つり革から手を離し、代わりにドア付近の金属棒をつかんだ。つまり、体をドア側に寄せ、シールの文字がなるべく視界に入らないようにしたのである。それはほとんど意味のない行為だった。なぜなら私の立ち位置はほとんど変わらなかったし、優先席に座っている人からは、どうしたって私の姿が目に入ってしまうからだ。
「席どうぞ」なんて言われたらどう答えよう。私は一人、緊張していた。
しかし結局のところ、そんな心配など全く無用だったのだ。優先席に座っている乗客は誰一人として、自分の周りで立っている人間など見ようともしなかった。
一番手前にいたサラリーマン風のスーツ姿の中年男性は目をつむり仮眠をとっていたし、その隣の学生らしき若い男性と一番奥の席の五十代くらいの女性は、スマートフォンの中の世界に完全に心を奪われていた。他を見回してみても、寝ている乗客以外老若男女問わず、皆一様に画面の中を覗き込んでいる。
今に始まったことではないが、やはり異様な光景だと感じてしまう。少なくとも私が高校へ通っていた頃までは、携帯電話を持っている人などほとんどいなかった。従って電車の中での過ごし方も人それぞれで、おしゃべりに花を咲かせる女子高生もいれば、新聞に目を通すサラリーマン、本を読む学生、中にはパンを食べたり化粧をしたりして白い目で見られている人もいたが、良くも悪くも様々な風景を見ることが出来た気がする。
だが今は一様に車内は静まり返っている。スマートフォンを覗き込むことは誰にも迷惑をかけず、また本人達も実に満ち足りた時間を過ごしているわけだから、非難すべき点は何もない。にもかかわらず、皆が皆画面の中のみに注意を注いでいる状況を傍から見ると、どこか気味悪く感じてしまう。
おそらく、ただ単に私が時代に乗り遅れているだけなのだろう。そう思いながらも私は、あえて対抗するように、電車の中ではスマートフォンを見ないぞ、という大して意味のない誓いを立てた。
目の前で平然と優先席に座っている三人を見ていると、ほっとしているのか悲しいのか自分でも分からぬ感情が込み上げてくる。だが席を譲らない彼らを責めるつもりはない。疲れているのはみな同じだと、独身時代の私もそう思っていたはずだ。
それに私は、見ず知らずの他人から好意を示されることに対して、極端な苦手意識があるのである。決して嫌なわけでも迷惑なわけでもないのに、妙に構えてしまって素直にそれを受け取ることが出来ない。あるわけがないと分かっていながら、つい裏があるのではないか、などと考えてしまう。つまり見知らぬ人間を、完全に信用するということが出来ないのである。
そんな自分を特に強く意識したのは、妊娠中の頃だった。
妊娠が分かった私は、母子手帳をもらいに保健センターに行った。すると母子手帳と一緒に、マタニティーマークと呼ばれる図柄が描かれたキーホルダーを配布された。お腹の大きな女性が、優し気な笑みを浮かべながらお腹を触っているという、妊婦へのいたわりを呼びかける意図で作られたデザインだったが、私は妊娠中一度もそれをつけたことはなかった。とてもつける気にはならなかったからだ。
妊娠中であることを赤の他人にまで知らせ、周囲の人に私を大切にしてください、などと訴えるようなことをするのは、どうしても嫌だったのだ。
それは見方によっては、自分が今幸せであることをアピールしているように見えなくもないし、大体世の中には、妊娠したくても出来ない人、また結婚したくても出来ない人が大勢いるというのに、そんなことをアピールするのはかえって反感や妬みを買う危険な行為ではないか、と思ってしまう。実際に、マタニティーマークをつけた女性が、見ず知らずの中年男性にわざとぶつかられた、という話を聞いたことがある。さらにひどい話になると、赤ちゃんを抱っこしている女性の抱っこひもの留め具をこっそり外すといういたずらまであるという。ここまでくると、もはや犯罪だ。
思わず私は背中に手を回し、留め具がちゃんと留まっているかを確認した。それから周囲に目線を走らせたが、とりあえず今この電車に乗っている人達の中には、そんな恐ろしいことを考えている人はいないようだ。それ以前に、同じ車両に乗り合わせた人間に対して、誰一人関心を抱いていない。悪意よりは無論無関心の方がマシであるが、ふいに寂寥感に包まれた私は、無性に人恋しい気持ちになった。出産以来、どうも時々情緒が不安定になる。
夫は今日も遅いのだろうか。営業職の夫とは同じ会社に勤めているが、社内で顔を合わせることはほとんどない。外回りの仕事がメインの夫は、帰る時間が日によって違う。営業先から直帰し六時台に帰ってくる日もあれば、急な接待で十時を過ぎることも少なくない。
従って、平日は夫に何かを期待することは出来ない。息子を抱っこしたまま洗濯物を取り込み、夕飯の準備をして、離乳食を食べさせた後、息子と二人で風呂に入る。体ひとつなら何でもなかった家事のひとつひとつが、今では大騒動だ。帰宅後それらをすべてたった一人でこなさなければならない。
風呂に入る時間が一番リラックスできるようで、実は一番神経を使う。まだつかまり立ちしか出来ない息子が湯船の中で転ばぬよう細心の注意を払いながら、自分の体を急いで洗うのは、心臓に悪い。せめて風呂の時間だけでも夫がいてくれたらと思うが、そのために仕事を早く切り上げてくれとも頼めない。
帰宅後のことを思うと思わずため息が漏れてしまいそうになるが、私は、それでも自分で選んだことなのだから、と自身に言い聞かせる。
今でも時々、自分が結婚をし子供まで産んだという事実に、驚かされることがある。まるで自分が自分ではないような、あるいは、現実ではなく夢の中にいるような感覚だ。
「将来は、結婚なんかせずに、バリバリ働くキャリアウーマンになる」
若き日の私は、そう豪語していた。
けれども今、私の顔のすぐ下で寝息を立てて眠っているのは、まぎれもなく私が産んだ息子であり、肩から腰にかけてずっしりと感じられるこの重みも、間違いなく現実のものだ。
一年ぶりに出社した今日、社内の同僚達のさまざまな反応を肌で感じた。
営業職で共に肩を並べ働いてきた同期の友人からは、笑顔でおめでとうと言われた。だがその言葉とは裏腹な距離感が、彼女との間に既に生まれているのを感じないわけにはいかなかった。キャリアを諦め家庭を選んだ私は、もはや彼女の同志ではなく、サポート役となったのだから仕方のないことだ。
一方管理職に就く上司達からは、どこか申し分けなさそうな顔で迎えられた。仕事内容が変わったことに対して、ということではない。未婚ネタで散々で私をからかってきた彼らは、私が結婚すらできないと思っていたことを、申し訳なかったと思っているに違いない。
だが逆に、先に結婚をし子供を産んでいた女性社員達からは、あたたかな目線で迎えられた。言葉には出さないが若干社内で肩身の狭い思いをしているだけに、仲間が増えたことが嬉しいのだろう。実際に、ようこそ、と言ってくれた先輩社員もいた。
三十代半ばまで独身で、営業職のリーダーを任されていた私は、上司から優秀な部下だと見なされていた一方で、時々どこか憐れむような目で見られていることに気がついたのは、三十を過ぎた頃だった。社内の飲み会などでは、酒の勢いに任せ、あからさまに「まだ結婚しないの」などと聞いてくる男性社員もいた。元々結婚願望が薄かった私はその度に軽くあしらってきたつもりだったが、度重なるこうした質問に、自分でも気づかぬうちに気持ちがふさいでいった。結婚し、出産することが当たり前という依然として根強い価値観が、年を重ねる毎に無言の圧力となって私にのしかかってきた。
他人がどう思おうとわが道を行く、ときっぱり割り切れるほど、結局私は強い人間ではなかったのだ。
ある日、何のために自分が働いているのか以前に、何のために生きているのかさえ分からなくなった。そんな全人類共通の、未来永劫答えの出ない疑問に囚われてしまったこと自体、メンタルが相当やられていた証拠なのだが、当時の私は自分を客観視する余裕さえなかった。
そんな時に、同じ営業部の同期から告白を受けたのだ。彼曰く、私の自立していて仕事が出来るところに惹かれたのだと言う。女らしさとはほど遠い私にも、こんな風に私の長所を認めてくれる人がいるのかと、素直に嬉しい気持ちになった。そしてそれからは、私達はあまりにも普通に恋愛をし、結婚をしたのである。
今思えば、彼もまた、私が感じていた圧力と同じものを感じていたのかもしれない。そして一番身近にいた私に―。なんてことは考えないことにしている。
結婚して二年後には息子が産まれた。無事出産できた安堵と喜びの中で、私はどこかでこう感じていた。
これでもう、誰にも文句を言わせない。
結婚し「まだ結婚しないの?」という圧力から解放されたと思ったとたん、今度は別の圧力が襲ってきていたのだ。
「赤ちゃんはまだ?」
実母も義母も事あるごとに同じ質問を繰り返した。年齢が年齢なので心配なのは分かるが、こればかりは授かりものなので天に任せようと思っていた。子供は嫌いじゃないが、不妊治療をしてまで欲しいわけじゃない。仕事を続けながら夫と歩んでいく人生も悪くないと思っていた。だが。
結婚して初めて知ったのだが、新婚の夫婦に対する周囲の期待度というのは相当なものである。一年も経つと親族のみならず、近所のおばさんや会社の同僚までもが同じ質問をぶつけてくるようになった。そしてその度に何故か後ろめたいような気持にさせられる、の繰り返し。
だから自然に妊娠した時は嬉しかった。子供を授かった喜びはもちろんあったが、それ以上に私は、周囲の圧力から解放された喜びをかみしめたのである。これで自分もようやく社会から認められたという感覚。そしてその感覚を、「幸福」と名付けたのだから、情けない。
私が幸福の条件をすべて手にしたとするならば、どうしてこんなに不安になったり苦しくなったりするのだろう。どうしてまだ、何かが違うのでは、などと感じてしまうのだろう。
私は息子の顔にふと目をやった。まだすやすやと眠っている。どうか駅に着くまで、この子が目を覚ましませんように。
「これからは、俺が養うから」
夫がさりげなく言った一言に、私はひっかかっていた。
私は子供の頃から、クラスのどの男子よりも勉強が出来た。将来の具体的な夢というよりは、未来の自分のイメージとして、社会に出て男性と肩を並べてバリバリと働く、そんな女性になりたいと思っていた。専業主婦だった母が突然の父の死後、苦労してきたのを見て育ったせいかもしれない。
高校卒業後は国立大学に進学し、今の会社に就職した。当時は就職氷河期で一流大学を出たからといって、一流企業に入社出来るわけではなかった。私も世間で名の知れた一流企業にはことごとく落ちてしまったのだが、なんとか中堅処の不動産業である今の会社から採用通知をもらった。
一流企業でキャリアウーマンという少女時代からの私の夢は叶わなかったが、かえって中小企業の方が自分の能力を発揮しやすいものだと頭を切り替え、私は仕事にのめり込んだ。学生時代に得た知識は社会に出てから泣きたいほど役に立たなかったが、それまで培ってきた勤勉さと集中力と記憶力は功を奏した。
私は入社一年目には早くも優秀な新人として認識されるようになり、入社二年目からは外回りの営業を一人で任され、成績は常にトップだった。お客さんからも真面目でしっかりしていると信頼され、それがまた契約実績につながった。
私の人生が、最も輝き充実していたのは、もしかしたらあの頃だったのではないか。そんな考えが、無意識に、唐突に頭に浮かんでくる時がある。そして、その後は決まって、そんな風に思ってしまって夫や息子に申し訳ないという気持ちになる。
金属棒を握りしめながら、私はぼんやりと西の空に沈んでいく夕陽を眺めていた。そろそろ息子が目を覚ます時間だ。余計な考えを追い払い、とりあえず今に集中しなくては。今の私にとって一番大切なこと、それはこのまま無事に息子と家までたどり着くことだ。だがありがたいことに息子はまだ、目を覚ます気配はなかった。
育休からの復帰後は、私は営業グループから営業事務課へ移ることになった。十時から四時までの時短勤務では営業の仕事は務まらない。朝八時に出社し、九時、十時まで残業するのが当たり前だった頃に比べると、職場での環境は百八十度変化したといってよかった。楽になったといえば、確かにその通りだ。だがその分、私には育児という新たな仕事が加わった。ほどほどに仕事をし、育児もこなす。それが今の私に与えられた役割なのだと理解もしている。
ただ頭で理解することと、心で受け入れることとの間には、ギャップがある。
息子の目のあたりがピクピクと動いている。いよいよだ。私は息子の顔を注意深く観察しながら、ただひたすらに泣き出さないことを祈った。寝起きの悪い息子は、このくらいの月齢の子供にとってはごく当たり前の事であるのだが、目覚めた瞬間泣かないことの方が少ない。満員とはいえないまでも、立っている乗客もかなりいるこの車内で息子が大声をあげる図は、想像するだけでぞっとする。
「いくら会社に託児所が出来たからって、片道一時間の距離を毎日子連れで通勤するなんて、大丈夫なの?」
内にさりげなく非難を忍ばせた義母の言葉が頭をよぎった。
「仕方ないじゃないか。近所の保育園には入れなかったんだから」
私をかばって反論する夫の隣で私はじっと耐えていた。保育園に入れないなら、家にいて子供を育てればいいじゃない。義母が声には出さなくても、心でそう言っているのが聞こえてきた。だけど私は、私の能力を認めてくれた会社を、たとえ時短勤務になっても手放したくなかったのだ。
「ふあああーん!」
ついに、来た。生まれてすぐの、ほぎゃあ、とかおぎゃあ、とかいう泣き声とは明らかに違う、この時期特有の泣き声を、息子は突然にあげた。目がはっきりと覚めていくに連れ、その声は次第に大きくなっていく。
車内の空気が一瞬、凍り付いたように感じた。
「すみません」
誰に言うともなく、私は一人うつむき加減に謝った。私の前の優先席に座っていた中年男性もさすがにこの声には反応し、ちらりと顔を上げた。一気に気まずい空気が私とその男性との間に流れる。しかし彼が席を立つ気配はなかった。
最寄りの駅まではあと二十分少々で到着する。今さら席を譲ってほしいとは思わない。それよりも、何とか息子にわずかな時間でもいいからこらえて欲しかった。しかしそんな母の願いも空しく、息子は無遠慮にますます声を張り上げ、泣き続ける。
泣きたいのは、私の方だった。
そのとき、ふと一人の女性に私の目は留まった。
その女性を目にしたのは、この時が初めてではなかった。先ほどこの車両に乗り込み、優先席に座る三人を確認した時にも確かに目にしていた。スマートフォンに見入っていた彼女は、疲れたのか今は顔を上げ、目を閉じている。その面影に、私は確かな見覚えがあり、思わず息が止まりそうになる。
彼女の顔は歪んでいた。明らかに息子の泣き声を不快に感じているのが分かる。ついに耐えがたくなったのだろう、彼女は目を開き、鋭い目で息子を睨みつけた。
私の鼓動は高まり、胸が苦しくなった。一瞬の彼女の目線に、怒りと憎しみが込められているのを感じたせいもあるが、それだけではなかった。
彼女は、私の知っている人だった。しわが増え、容姿は大分衰えていたが、その目鼻立ちから、間違いないと私は確信した。一方で、そこに浮かんだ表情は、私が知っていたものとはあまりにかけ離れていて、果たして本当に本人であるのか断定出来ない部分もあった。
内側から溢れ出る自信で目を輝かせていた彼女と、ひどく荒んだ表情で再び目を伏せたこの女性は、本当に同一人物なのだろうか―。
息子は体をゆすり、背中をトントンしてやると徐々に落ち着いてきた。駅に着くまであともう少しの辛抱だ。
息子をあやしながら私は、自分の年齢から彼女の現在の年齢を瞬時に計算していた。ちょうど五十歳くらい。今目の前にいるこの女性は、やはりそれくらいだろうか。
確信が持てぬまま、私は彼女の顔に穴を開けてしまうのではないかというくらい凝視した。
揺れの中、駅名を告げる車内アナウンスと共に、私の記憶は徐々に紐解かれていく。すると突然、タイムトリップでもしたかのように、一気に過去に押し戻された。
それはもうずっと昔のことだった。私の心が最も多感で、まだガラス細工のように壊れやすかった頃―。
彼女は中学校の家庭科の教師だった。
彼女は「生活力」という言葉をよく口にした。彼女の言う生活力とは一般的に経済力という意味で使われるこの言葉とは意味を異にしていた。それはつまり、文字通り生活していく力、具体的には、女性が家事全般をこなす力を意味していたのである。料理をする力、裁縫をする力、家計簿をつける力、ご近所とうまく付き合う力、安全に生活する力、子供を育てる力。そうしたいわゆる女性として絶対に身に付けなくてはならない力を、彼女は彼女独自の言い回しである、「生活力」という言葉で表現していた。
さらに彼女は、自分自身で特別な意味を付加したその言葉に、愛情を込めていた。
「生活力」のある女になること。それは彼女にとって唯一の生きる目的であると同時に、教師という立場上、そのことを女子生徒達に徹底して伝えることこそ、彼女の使命だった。
そして彼女は、なによりそのことに生きがいを見出していた。生きがいを持って生きる女は、例外なく輝くことが出来る。当時二十五歳だった彼女もまた、生まれ持ったまずまずの美貌に、満ち足りた笑顔をきらきらと輝かせていた。
彼女を慕う女子生徒達は多かった。多感な年頃の少女達は、まるで飢えた獣のように憧憬の対象を求めては、すんなりとそれを見つけることができるのである。そしてその対象となるのは、必ずしも同世代の異性とは限らない。部活動の同性の先輩や、教育実習に来た大学生なども対象になりうるのであり、中でも最も対象になりやすいのが、若い方だが、若過ぎでもない女教師なのである。大学を出たばかりの新任では、まだ教師としてのオーラもなく、頼りないと感じてしまう。しかしかといって年が二十も三十も離れたような中高年の教師となると、世代が離れすぎ、親しみを抱くことが出来ない。従って、まさに二十代後半から三十歳くらいまでが、最も女子生徒達のファンを獲得しやすい年代なのである。当時の彼女はその点においても、まさにストライクゾーンにいた。
授業が終わると、まだ教室に残っている彼女の所に、少女達は様々な相談をしに行く。最近興味を持つようになった料理や、裁縫の質問をしに行く子が多かったが、中には恋愛の相談をする子もいた。そんな時彼女は、今この瞬間こそ最も充実した時間だと言わんばかりの笑みをたたえながら相談に応じていた。
彼女が導く答えの方向には、決してぶれがなかった。つまりどんな質問に対しても、彼女が出す結論は、結局のところいつも一緒だった。それは、女性に生まれた以上大切なことは、細やかさや丁寧さ、奥ゆかしさである、ということだった。
「世の中の男性は、結局皆そうした女性を求めているのよ。だから、まず努力しなさい。女性として価値がある女になれるようにね」
「女にとって、男性から愛され、子を産み、家庭を築くことに勝る幸せなんてない」
彼女が、自ら固く信じて疑わない信念を熱く語っていたのが、つい昨日のことのように瞼の裏に浮かぶ。
今思えば、呆れるほど強引で主観的な論理だ。もし今の国会議員が、当時彼女が述べていたことのほんの一部でも口にしたら、即大炎上だろう。
けれども当時私が通っていた中学校で、彼女を批判するような子は一人もいなかった。それどころか、彼女からアドバイスを受けた少女達が、まるで何かの洗礼でも受けたかのように、つきものがとれたような顔になって、自分の席へと戻っていったのを覚えている。
私にはそんな彼女達が、相談に行く前より幾分か女らしくなったようにさえ見えて、そのことをなぜか、わけもなく不快に感じた。
私が彼女の所へ相談に行くことはなかった。初めて会った時から私は、彼女に対し何か強烈な違和感のようなものを抱いていたからだ。なぜそう感じたのかは分からない。ただ彼女が、自分とはまるで異なる種類の人間であると感じたことは確かだ。
私が彼女に対して抱いていたのは、他の少女達のような憧れや親しみの情ではなく、むしろ拒絶感だった。
そんな私の心の中は、すぐに彼女に見抜かれた。彼女はそうした感受性が特に鋭い方だったのだ。
彼女が私を敵視し始めるまで、そう時間はかからなかった。
自分で言うのも何だが、私は五教科の成績がとても良かった。小学校の頃から勉強することが得意で、なんでもすぐに覚えられたし、理解も早かった。特に苦労することもなく、テストではいつも百点がとれた。
だが優等生というイメージとは少し違っていたと思う。なぜなら私は、極端に人見知りであがり症だったのだ。人前で発表するのは駄目だったし、運動神経も鈍かった。特に手先が不器用だったため、図工や家庭科といった、頭脳より手先の器用さが要求されるものに対しては、特に苦手意識を持っていた。地味で目立たないけれど、勉強だけはよく出来る子。それが当時の同級生達が私に対して抱いていたイメージだと思う。
だから彼女に対する苦手意識も、初めは単に、家庭科という教科に対する苦手意識から生じたものだと思っていた。
授業中、他の子に向けられていた彼女の笑顔が、私の方を向いた途端に、さっと消えるのを何度も経験した。でもその程度のことなら、心にふたをしさえすれば、気づかぬふりをしていることもできたはずだ。
彼女からの個人攻撃はある日突然始まった。給食を食べた後の、穏やかな昼下がりの授業だったと記憶している。
私は彼女の話を聞いていた。他の授業の時と同じくらい、ちゃんと、熱心に。手先は不器用でも、話を聞き理解する力においては、他の教科と同様に優れていると自負していた。
しかし突然、彼女の視線が私の顔の上で留まった。同時に恐ろしく豹変した彼女の顔が、こう言った。
「ねえ、肘をつくの、やめてくれる?」
一瞬、言われたことの意味が分からなかった。しかしすぐに、自分が左手の肘を机にのせて、片手で頬づえをつく格好になっていたことに気がついた。そして、彼女がそのことに対して、怒りを覚えているのだということも。
私は慌てて腕を引っ込め、手を膝の上に置いた。姿勢を正し、彼女の方に向き直ったが、「ごめんなさい」の一言は、喉元に引っかかり声にならなかった。
すると、彼女の方へ向けられていた教室中の視線が、瞬時にして私に向けられた。同時に体中の血液が、さっと顔に向かってくるのが分かった。まるで全身がしびれたように感じた。
恐ろしい顔をしたまま、彼女は続けた。
「ほら、みんなのこと見てごらん。あなたのような子は誰もいない。みんなちゃんと両手を膝に置いて、こっちを向いている」
確かに彼女の言う通り、誰一人として頬づえをつきながら話を聞いている子などいなかった。
もし現在のように、家庭科も技術も男女一緒に受ける時代だったら、少しは状況が違っていたのかもしれない。中にはよそ見をしたり、下を向いたりする男子生徒もいただろう。
だが当時私が通っていた中学校ではまだ、家庭科は女子のみが集まり受けることになっていた。従って家庭科の時間は、女だけが集まる空間特有の空気が流れていたのである。
そこは一見穏やかで波風の立たぬ平和な世界のようでいて、同時にわずかなミスも容赦されぬ冷徹さをはらんでいた。皆が皆「女子力の向上」という同じ目的に向かい前を向いている。その雰囲気に、馴染めていないのは私だけだった。
恥ずかしさに涙がこみ上げてくるのが分かった。でも同時に脳の一部が、泣いてはならないと強く命令していた。私はこぼれ落ちそうになる涙を必死でこらえながら、彼女の顔を直視し続けた。他の場所に視線を置くことなど許されないと感じたからだ。
耳の奥では、彼女の放った「あなた」という単語が、いつまでも残っていた。
―あなた以外はみんな、私の事、慕ってくれているのよ。
私には、そう聞こえた。
それから彼女は私のことを、折に触れて注意するようになった。
シャツが体操服から出かかっている。靴下が下がっている。廊下を走った(実際は早歩きだった)などなど。男子もいる皆の前で、彼女は大声で私を叱った。
そしてある日、事件は起こったのだ。
その日は、家庭科の授業で私が最も苦手とするミシンを使って、スカートを縫う日だった。当時のミシンと言えば、今よりもずっと性能が悪く、さらに学校に置かれているものなどは、購入してから十数年は経っているくたびれたものばかりだった。
ミシンは班で二台しかないため、順番で使うしかない。同じ班の他の子が使い終わり、私の番になると、決まって糸が絡まった。前の子の時はスムーズに動いていたのになぜ、と泣きたい気持ちになったが、泣いている時間などなかった。授業の時間内に仕上げられなければ、放課後居残りで仕上げなければならないことになっていたのだ。
居残りが嫌だというよりは、居残り組に入ることが、私は嫌だった。
時間内に仕上げられない子。それは平均よりも不器用な女子として、クラスの中の劣った部類に入ることを意味していた。今思えば、そんなこと大したことではない。仕上がらなければ、放課後ゆっくりと仕上げればいい話なのだ。
だけど当時の私には、そんなことは通用しなかった。主要五教科において劣等生になることなど決してなかった私にとって、劣等組に入ることはまるで、未知の恐ろしい場所に引きずられながら連れていかれるようなものだったのである。
絶対に時間内に仕上げなくては。授業の終了時間が迫るごとに、それは恐ろしい強迫観念となって私を襲った。
絡まった糸を取り除き、ようやくなんとかミシン縫いが終わり、後はアイロンでアップリケを貼り付けるだけだった。時間は残り五分。今すぐアイロンをかけてしまえば、間に合う。そう思った私は、とっさに手を伸ばした。他の子にアイロンを取られる前に使いたいと思ったのだ。
その時、右隣の子の斜め右の方にあったアイロンが、倒れた。
「あつっ」
同時に隣から声が聞こえた。倒れたアイロンが、その子の手の甲に当たったのだ。
「あっ、ごめ…」
謝ろうとした私の声はすぐに、彼女の金切り声によってかき消された。
「何してるの!」
彼女は見ていたのだ。私のことをずっと。アイロンが倒れたその瞬間も。
「大丈夫?!」
彼女は大げさなほど慌てながら、やけどをした子に駆け寄って来た。
「すぐに水で冷やして!」
一大事とばかりに、彼女はその子を水道のところまで連れて行き、勢いよく水を流した。が、実際は大したことはないということが、その子の様子から分かった。過度に心配する彼女に軽く手を振りながら、遠慮がちに「大丈夫です」と言い、少し微笑んですらいた。私はその子のそんな様子に、心から感謝した。泣きそうになる気持ちの中で、「大丈夫です」と言ったその子の言葉が、救世主のように鳴り響いた。良かった。安心した私は、実際本当に泣いてしまいそうだった。
アイロンの電源は切になっていた。前に使った子の余熱は残っていたものの、大やけどをするほどの温度ではなかったのだ。
けれども、私の罪は決して許されなかった。
やけどのケアを終えた彼女は、かつて見たことのないほどの鋭い視線を、私に向けた。
「そういうところなの」
それが、彼女の発した第一声だった。
「あなたの、そういうところ。そういうところが私、どうしても…」
彼女は言葉を濁した。その言葉の先を、後になって私は何度も想像した。嫌い、許せない、憎い。いづれにしても決していい意味の言葉でないことは確かだ。だが、その先を言う代わりに、彼女はこう続けた。
「どんなに勉強が出来たってだめ。女性が生きていく上で大切なのって、そういうことじゃない。鈴木、あなたには、生活力が足りないよ」
彼女ははっきりとそう言ったのだ。私は何かで頭を思い切り殴られたようだった。
彼女に「生活力」がないと言われること。それは、お前は女性として生きる価値がないのだと、皆の前で烙印を押されたのも同然だった。
その日から、私は学校へ行けなくなった。母は何度も理由を尋ねたが、私は答えなかった。もしも原因がいじめだとしたら、それも辛いことだが、もしかしたら打ち明けていたかもしれない。だが、娘を追い込んだ相手が自分と同じ大人だと知ったら、母はどう感じるだろうか。想像する前に私の胸は苦しくなり、それ以上の思考は停止した。
急に学校に来なくなった私を心配してくれる優しい友人達もいた。あの家庭科室での出来事以来学校に来なくなったのだから、クラスの女子達のほとんどが私の不登校の原因には気づいていたはずだ。
「もう気にすることないよ。やけどだって大したことなかったんだし」
「そうだよ。ちょっと先生さすがに怒りすぎだなって思った」
そんな風に家に来てくれた友人達が私の肩を持ってくれた時は本当に嬉しくて、思わず涙を流してしまった。今振り返ってみても、女友達の有難みをあの時ほど強く感じたことはないかもしれない。彼女達のおかげで私の心は少し回復したが、それでもまだ学校に行く勇気は持てなかった。家庭科の授業がない日でさえ、彼女と廊下ですれ違うことを想像しただけで、恐ろしくて動けなくなってしまった。
不登校になり一週間目で、担任の男性教師が家を訪ねてきた。母に呼ばれ居間へ行くと、担任はすでに家の中へ通され、ソファで母に出された茶を飲んでいた。
「よう、久しぶり」
わざとなのか、担任はあえて軽い調子で私に向って手をあげ声をかけた。母も笑みを浮かべながら振り向き、私に手招きをした。
仕方なく母の隣に腰を下ろした私に、担任は言った。
「家庭科の時間に、なんかあったんだって?」
あまりに単刀直入に来たので、どう答えていいか分からなかった。何も知らない母は、初めて聞かされる不登校の原因に驚いた顔をしている。
やめてくれ―。心が張り裂け、叫びだしそうだった。
だが次の瞬間、担任はのん気とも言える口調で、こう言ってのけた。
「あんなの、気にすることないよ」
担任から出た意外な言葉に、私は思わず担任の顔を見上げた。
「…実はここだけの話、私も彼女のことはどうも苦手で。生徒から人気もあるし、タイプだっていう同僚もいるんですけどね、私はどうも…」
そんなことを言いながら、再び茶を啜る。
「…家庭科の時間に、何があったんですか?」
母の方も担任の態度に緊張が解かれたのか、ストレートに質問した。
「いやあ、確かにあわや大やけどを負ってしまうかもしれないという場面ではあったのですが、結果的にどうということはなかったわけですし、本人にももちろん悪気があったわけじゃありませんからね。ちょっとした不注意を戒めるだけでよかったのに、本人の人格までおとしめるようなことをするのは、いかんですよ。って、私がここで愚痴っても仕方ないんですがね。要は、せめて正美さんに、私は味方だってことを伝えたくてですね」
どこか照れながらそう言う中年の男性教師は、口下手ではあったが、私を救ってくれるには十分だった。すべての人から慕われていると思っていた彼女を、苦手と感じる人間が自分だけではないと分かっただけで、心が軽くなった。もし担任が別の教師だったら、私の不登校はもっと長く続いていたに違いない。
そんなことがあったんですか、と聞いている母も、ショックを受けているようではあったが、担任の口調に幾分ほっとしているようだった。最後は、そういう人っていますよね、なんて担任に同調し、笑みまで浮かべていた。私も、深刻に悩んでいたのが嘘のように、なんだか拍子抜けしてしまった。そしてふと、こう思った。
馬鹿馬鹿しい。
不登校になってから十日目に、私は学校へ行くことが出来た。
彼女がその後私を目の敵にするようなことはなかった。心の中で何を思っていたのかは分からないが、私とすれ違ってもこちらを見ようともしなかったし、それは授業中も一緒だった。当然のことながら、私も家庭科の時間に手を挙げて発表するなどということはなかった。
そして翌年の春、彼女は別の学校へと転勤になった。
中には私を、彼女を転勤に追いやった元凶として白い目で見る女子もいたが、それと同じくらい前と変わらずに接してくれる友人達がいたおかげで、私は何とかその後の中学校生活を無事に過ごすことが出来た。
だがそれはあくまで見かけ上の話だ。彼女からあの時受けた傷は、その後も私の中で完全に消えることはなく、化膿し続けていたのかもしれない。
最寄りの駅に近づくに連れ降りる人の数が増え、車内は空いてきた。目覚めた時に大声で泣いた息子は、必死であやしたかいがあってようやく落ち着き、今はくりくりとした大きな目で辺りを見回している。
息子は私と目が合うと嬉しそうな顔をし、今度は声を上げて笑った。すると私の隣で立っていた高齢の女性が、その声に反応してこちらを向いた。
「かわいいわねえ」
目を細めてそう言う女性が、ちゃんと心からそう思ってくれているのが伝わってくる。
「ありがとうございます」
そう答える自分の胸が、温かだった。多少人間不信な所がある私でさえ、この一言をかけられる瞬間においては、幸せな気持ちになる。それはおそらくすべての母親において言えることなのではないだろうか。子供を産んで良かったと心から思えるのは、こうしたささいな瞬間だ。
だが、その時だった。彼女からの、鋭い視線を感じたのは。
彼女が見ていたのは、私ではなく息子の方だった。
何か根拠があったわけではない。にもかかわらず、瞬間、私ははっきりと悟ったのである。
彼女には子供がいない。そしておそらく、結婚もしていない。
彼女が息子に向ける眼差しの中に含まれる、羨望、嫉妬、後悔、憎悪。それらが混ざり合い、ひとかたまりとなって、そのことを物語っていた。
私はさりげなく、何もはめられていない彼女の薬指に目をやった。結婚をしていても指輪をはめないという人はよくいるが、彼女をよく知っている私には、それはないと断言できる。
ふいに私の中から、笑いがこみ上げて来た。こらえることなど出来ない。
もし私が、たった一人で電車に乗っていたのなら、突然笑い出した頭のおかしな女だと思われたに違いない。しかし私には、最大の味方である息子がいた。体の暗い奥底からわき上がった黒い笑みを、顔の上で、息子に対する慈しみの笑みへと変換する。自分にそんな器用なまねが出来るなんて、今の今まで知らなかった。
誰も私の中の黒い笑みには気がつかない。今の私は、ただ息子に笑いかける優しい母親としてしか、他人の目には映らないだろう。
だけど息子は笑わなかった。母がどんなに微笑みかけても、まるで別の生き物を見るかのような目で、じっと私の顔を凝視している。
この子だけは、気づいたのかもしれない。母の笑みの源が、決して自分ではないことに。
それでも私は微笑み続けていた。いつの間にか彼女の視線は、息子から私の左頬に移っている。もしかしたら、彼女も私に気づいたのかもしれない。もしほんの一瞬でも彼女と目を合わせれば、それを確認することが出来るだろう。しかし私には、そうする勇気がなかった。二十五年という時を経ても、依然として私は彼女に怯えていたのである。
これまでに彼女が受け持ったであろう生徒の数を思えば、大昔ほんの一年受け持っただけの私を、彼女が忘れていたとしても無理はない。私の中に強烈な記憶を残していった彼女の記憶には、私のことなど微塵ほども残っていないのだ。そう考えると、葬り去ったはずの怒りと憎しみが、湧き上がってくるのを感じた。
電車がホームへと滑り込み、停車する。私が降りる駅までは、あと十分少々だ。
ふと車内を見回すと、優先席ではない彼女の向かい側の席が空いていた。私は先ほどの老婦人に席が空いたことを伝えようと、どうぞ、と手を差し出した。普段の私なら決してこんなことはしない。他人とはなるべく関わらない方が無難だと思っているからだ。けれども私が珍しく自分から声をかけたのは、さっきこの女性から声をかけられたのが嬉しかったからというのもあるが、それだけではない。この時から既に、私の精神状態は普段とは違っていたのである。
しかし老婦人は驚いたような顔で、とんでもない、と言い、
「あなたこそ、ずっと赤ちゃん抱っこしたまま立ちっぱなしで疲れているでしょう。私はまだ若いから大丈夫。ほら座って」
と、私の背中に手を当て座るように促してくれた。
もう一駅なので、と断ろうかとも思ったが、せっかくの好意を無にするのも申し訳ない気がしたので、有難く座らせてもらうことにした。
ありがとうございます、と丁寧に頭を下げると、老婦人は嬉しそうに笑いながら私の前に立った。そして、ちらと後ろを見ながら、
「全く、優先席ってあんなに大きく書いてあったって意味がないわよね。ま、私は若いからいいんだけど」
と、茶目っ気たっぷりの笑みを見せた。私は老婦人に笑い返しながらも、前に座っている人達に聞こえるのではないかと内心冷や冷やした。そうしてつい見てしまったのだ。正面からこちらを見つめている彼女の顔を。
彼女の肩が震えているのが分かった。老婦人の声は、間違いなく彼女の耳に届いたようである。彼女はさっと立ち上がると、私達の方へ歩いてきた。
「お座りになりたいんだったら、どうぞ」
怒りで赤くなった顔で老婦人にそう言う彼女は、あきらかに喧嘩口調である。だが老婦人もひるまなかった。
「だから私はいいのよ。まだそんな年取ってないんだから。だけど彼女を見て何とも思わない?赤ちゃんを抱っこして、ベビーカーまで抱えているのよ」
彼女が私の方へ顔を向けた。じっと私の目を凝視する。だが何かを思い出したようには見えなかった。ただそこに、底知れぬ暗さが宿っているのを、私は見た。
恐怖で声が出てこない。あの時と同じだ。
だけど同時に、心の底でもう一人の自分が叫ぶ。
あの時と同じでは、ダメなんだ、と。
「あの…」
私は彼女に声をかけた。
「…覚えて、ないですよね。二十五年前、私、あなたの教え子だったんです。あなたは私に、大切なことをたくさん教えてくれました。あの頃は受験に合格しさえすればいいんだって思ってて、正直家庭科なんて教科、馬鹿にしちゃってたんです。だからあなたに嫌われてたんですよね、私。でも実際に結婚して、子供を産んで、実は家庭科の授業で習ったことが一番生きていく上で役に立つんだっていうことが分かりました。でも、結婚して家庭に入り子供を産むことだけが女の幸せだっていうあなたの考えには、今でも賛成することは出来ません。私は結果的に結婚して子供を産みましたが、そうじゃない人生も悪くなかったんじゃないかって思うことだってあります。結局、何が幸せかなんて本人が決めることだと思うんです。実際、あなた御自身も、今ではそのことを痛いほどに感じていらっしゃるんじゃないですか?」
最後の一言には、さすがに棘があったかと思う。それでも過去に私が受けたことを思えば、それくらいしてもいいだろう。
彼女ははっとしたように顔を上げた。そこに浮かんだ後悔と懺悔の色は、彼女がようやく何もかも思い出したことを物語っていた。
彼女が何かを言いかけたのと、到着のアナウンスが流れたのはほとんど同時だった。
私は彼女に向ってゆっくりと頭を下げた。あれほど強く抱いていた彼女への恐怖も怒りも憎しみも、すべて消え失せていた。
立ち上がった私は、驚いた顔で私を見つめる老婦人にもお礼の挨拶をした。老婦人は、若干顔をこわばらせながらも、にっこりと微笑んでくれた。
古い知人の痛いほどの視線を頬に感じながら、私はそれから彼女を一瞥することもなく、電車を降りた。
夕陽が、ホーム全体をまぶしく照らしている。
去っていく電車を眺めながら、中学を卒業後、大人になってからもずっと、私の中で灰色のしこりとなっていた何かが、溶けて消えていくのを感じていた。
私は果たして、彼女への復讐を果たしたのだろうか。
だがそれは、決して晴れやかな気持ちではなかった。
結婚をし、子供を育てることこそ女の幸せだと信者のように説いていた彼女がその後、どんな人生を歩んだのかは分からない。だがそれは彼女が思い描いていたような平坦で単純なものではなかったはずだ。彼女が味わったであろう苦悩に思いをはせると、もう彼女を笑う気にはならなかった。
「あれ?正美?」
ふと後ろから声が聞こえた。振り返ると、スーツ姿に営業用の鞄を手に持った夫の姿があった。
「なんだ、同じ電車だったんだ」
毎日見ているはずの夫の姿に、なぜか心底ほっとしてしまう。
「営業先がちょうどこの沿線沿いだったから、直帰することにしたんだ。ずっと残業が続いてたから、今日は早く帰ろうと思って。あ、こうたの風呂、今日は俺が入れるよ」
思わず駆け寄り、自分の代わりに息子の顔を夫にすり寄せる。夫も嬉しそうにがしがしと息子の頭をなでた。
「こうたー、会いたかったよ。…ところでどうだった?初日はやっぱり大変だった?」
「うん。まあそれなりにね。でもなんとか頑張ってみる」
「あんまり無理するなよ。お前が体壊したりしたら元も子もないんだから」
夫はそう言いながら私の肩からベビーカーを外し、自分の肩に担いだ。
何が幸せなのかなんて分からない。
自分の歩んできた道が正しかったのかも。
だけどただ一つ確かに言えることは、今この瞬間において、私は満たされている。
夕日を浴びながら家路につく私達を、あの頃の自分に見せてあげたい。
そして、こう伝えよう。
人生に正解なんてない。だからこそ、どんな人生にも価値があるのだと。
発車を知らせる電子音と共に車両に乗り込んだ私は、空いたスペースを求めて車内中ほどへと進んだ。電車へ乗り込んだ時の条件反射として目線を周囲に一周させるが、当然のことながら空いている席はひとつもない。
さっきから左肩に鈍い痛みを感じている。軽量で簡単に肩にかけられるとの謳い文句に惹かれ選んだベビーカーだが、肩にかかる負担がゼロというわけにはいかないらしい。私の顔のすぐ下には、最新型の抱っこひもに身を包まれた、生後十ヵ月の息子の顔がある。すやすやと眠るその寝顔は、この上なく愛らしい。が、それを味わう余裕は、今の私にはない。
同じ月齢の子の中でもかなり大きめと言われたその体重は、静かに、否応なく私の体に負荷をかけ続けている。久しぶりに仕事をした疲れもあり腰もジンジンと痛んだが、この空間の中には泣き言を言える相手などいない。だから黙って耐えるしかない。
子連れ出勤の第一日目である今日は、予想はしていたもののやはりハードだった。
普段と何かが違うことを察した息子は、朝食の時間からぐずり出し、朝の支度に思ったより時間がかかってしまった。お弁当を作り息子を着替えさせ時計を見ると既に、家を出なければ間に合わない時刻の十分前で、化粧もそこそこにバタバタと家を出た。おかげで後ろ髪は今日一日中はねたままだった。
ベビーカーはほとんど乗ってくれない息子のために持って行くべきが迷ったが、とりあえずと思い持って出たのが失敗だった。乗せようとする度に泣き喚かれ、結局行きも帰りもずっと折り畳まれたまま何の役にも立たず、ただいたずらに私の肩を痛めつけただけだった。明日からは絶対に持ってくるのはやめようと呪うように心の中でつぶやきながら、空いている右手でつり革をつかんだ。
動き出した電車の窓の向こうの景色が懐かしい。
電車に乗るのは約一年ぶりだ。一番最後に乗ったのは、産休に入る前の最後の出勤日であり、まだ息子がこの世に誕生する前だった。あの日からたった一年しか経っていないというのに、まるで遥か遠い昔の日のことのように思い出される。あるいは別世界の出来事であったかのように。
産休に入ってから育休が終わるまでの間、私にだけ現実の時間よりもずっと多くの時間が流れていたかのような、そんな不思議な感覚がある。いわば浦島太郎の逆パターンである。逆パターンとはいえ、時間の感覚がおかしくなるという点においては、私が行っていた場所も竜宮城のようなところだったのかもしれない。妊娠、出産、育児。どれも決して極楽気分で行えるようなことではないが、職場という俗世間から離れ、私が過ごしていた空間は、浮世離れした、社会から断絶された場所のように思えてならなかった。
窓の外の景色を眺めていると、ふと目の前の窓ガラスに貼られたシールの文字が、目に飛び込んできた。「優先席」と、書かれてある。お年寄り、ケガをした人、妊婦さん、子連れのお母さんの四種類の図柄がそこに描かれていた。
しまった、と思う。これではまるで、わざと席を譲ってくださいと言わんばかりに立っているみたいではないか。とっさに移動しようかとも考えたが、走行中の車両内を移動するのは、危険かつ顰蹙を買う行為でもある。
仕方なく下を向くと、つり革から手を離し、代わりにドア付近の金属棒をつかんだ。つまり、体をドア側に寄せ、シールの文字がなるべく視界に入らないようにしたのである。それはほとんど意味のない行為だった。なぜなら私の立ち位置はほとんど変わらなかったし、優先席に座っている人からは、どうしたって私の姿が目に入ってしまうからだ。
「席どうぞ」なんて言われたらどう答えよう。私は一人、緊張していた。
しかし結局のところ、そんな心配など全く無用だったのだ。優先席に座っている乗客は誰一人として、自分の周りで立っている人間など見ようともしなかった。
一番手前にいたサラリーマン風のスーツ姿の中年男性は目をつむり仮眠をとっていたし、その隣の学生らしき若い男性と一番奥の席の五十代くらいの女性は、スマートフォンの中の世界に完全に心を奪われていた。他を見回してみても、寝ている乗客以外老若男女問わず、皆一様に画面の中を覗き込んでいる。
今に始まったことではないが、やはり異様な光景だと感じてしまう。少なくとも私が高校へ通っていた頃までは、携帯電話を持っている人などほとんどいなかった。従って電車の中での過ごし方も人それぞれで、おしゃべりに花を咲かせる女子高生もいれば、新聞に目を通すサラリーマン、本を読む学生、中にはパンを食べたり化粧をしたりして白い目で見られている人もいたが、良くも悪くも様々な風景を見ることが出来た気がする。
だが今は一様に車内は静まり返っている。スマートフォンを覗き込むことは誰にも迷惑をかけず、また本人達も実に満ち足りた時間を過ごしているわけだから、非難すべき点は何もない。にもかかわらず、皆が皆画面の中のみに注意を注いでいる状況を傍から見ると、どこか気味悪く感じてしまう。
おそらく、ただ単に私が時代に乗り遅れているだけなのだろう。そう思いながらも私は、あえて対抗するように、電車の中ではスマートフォンを見ないぞ、という大して意味のない誓いを立てた。
目の前で平然と優先席に座っている三人を見ていると、ほっとしているのか悲しいのか自分でも分からぬ感情が込み上げてくる。だが席を譲らない彼らを責めるつもりはない。疲れているのはみな同じだと、独身時代の私もそう思っていたはずだ。
それに私は、見ず知らずの他人から好意を示されることに対して、極端な苦手意識があるのである。決して嫌なわけでも迷惑なわけでもないのに、妙に構えてしまって素直にそれを受け取ることが出来ない。あるわけがないと分かっていながら、つい裏があるのではないか、などと考えてしまう。つまり見知らぬ人間を、完全に信用するということが出来ないのである。
そんな自分を特に強く意識したのは、妊娠中の頃だった。
妊娠が分かった私は、母子手帳をもらいに保健センターに行った。すると母子手帳と一緒に、マタニティーマークと呼ばれる図柄が描かれたキーホルダーを配布された。お腹の大きな女性が、優し気な笑みを浮かべながらお腹を触っているという、妊婦へのいたわりを呼びかける意図で作られたデザインだったが、私は妊娠中一度もそれをつけたことはなかった。とてもつける気にはならなかったからだ。
妊娠中であることを赤の他人にまで知らせ、周囲の人に私を大切にしてください、などと訴えるようなことをするのは、どうしても嫌だったのだ。
それは見方によっては、自分が今幸せであることをアピールしているように見えなくもないし、大体世の中には、妊娠したくても出来ない人、また結婚したくても出来ない人が大勢いるというのに、そんなことをアピールするのはかえって反感や妬みを買う危険な行為ではないか、と思ってしまう。実際に、マタニティーマークをつけた女性が、見ず知らずの中年男性にわざとぶつかられた、という話を聞いたことがある。さらにひどい話になると、赤ちゃんを抱っこしている女性の抱っこひもの留め具をこっそり外すといういたずらまであるという。ここまでくると、もはや犯罪だ。
思わず私は背中に手を回し、留め具がちゃんと留まっているかを確認した。それから周囲に目線を走らせたが、とりあえず今この電車に乗っている人達の中には、そんな恐ろしいことを考えている人はいないようだ。それ以前に、同じ車両に乗り合わせた人間に対して、誰一人関心を抱いていない。悪意よりは無論無関心の方がマシであるが、ふいに寂寥感に包まれた私は、無性に人恋しい気持ちになった。出産以来、どうも時々情緒が不安定になる。
夫は今日も遅いのだろうか。営業職の夫とは同じ会社に勤めているが、社内で顔を合わせることはほとんどない。外回りの仕事がメインの夫は、帰る時間が日によって違う。営業先から直帰し六時台に帰ってくる日もあれば、急な接待で十時を過ぎることも少なくない。
従って、平日は夫に何かを期待することは出来ない。息子を抱っこしたまま洗濯物を取り込み、夕飯の準備をして、離乳食を食べさせた後、息子と二人で風呂に入る。体ひとつなら何でもなかった家事のひとつひとつが、今では大騒動だ。帰宅後それらをすべてたった一人でこなさなければならない。
風呂に入る時間が一番リラックスできるようで、実は一番神経を使う。まだつかまり立ちしか出来ない息子が湯船の中で転ばぬよう細心の注意を払いながら、自分の体を急いで洗うのは、心臓に悪い。せめて風呂の時間だけでも夫がいてくれたらと思うが、そのために仕事を早く切り上げてくれとも頼めない。
帰宅後のことを思うと思わずため息が漏れてしまいそうになるが、私は、それでも自分で選んだことなのだから、と自身に言い聞かせる。
今でも時々、自分が結婚をし子供まで産んだという事実に、驚かされることがある。まるで自分が自分ではないような、あるいは、現実ではなく夢の中にいるような感覚だ。
「将来は、結婚なんかせずに、バリバリ働くキャリアウーマンになる」
若き日の私は、そう豪語していた。
けれども今、私の顔のすぐ下で寝息を立てて眠っているのは、まぎれもなく私が産んだ息子であり、肩から腰にかけてずっしりと感じられるこの重みも、間違いなく現実のものだ。
一年ぶりに出社した今日、社内の同僚達のさまざまな反応を肌で感じた。
営業職で共に肩を並べ働いてきた同期の友人からは、笑顔でおめでとうと言われた。だがその言葉とは裏腹な距離感が、彼女との間に既に生まれているのを感じないわけにはいかなかった。キャリアを諦め家庭を選んだ私は、もはや彼女の同志ではなく、サポート役となったのだから仕方のないことだ。
一方管理職に就く上司達からは、どこか申し分けなさそうな顔で迎えられた。仕事内容が変わったことに対して、ということではない。未婚ネタで散々で私をからかってきた彼らは、私が結婚すらできないと思っていたことを、申し訳なかったと思っているに違いない。
だが逆に、先に結婚をし子供を産んでいた女性社員達からは、あたたかな目線で迎えられた。言葉には出さないが若干社内で肩身の狭い思いをしているだけに、仲間が増えたことが嬉しいのだろう。実際に、ようこそ、と言ってくれた先輩社員もいた。
三十代半ばまで独身で、営業職のリーダーを任されていた私は、上司から優秀な部下だと見なされていた一方で、時々どこか憐れむような目で見られていることに気がついたのは、三十を過ぎた頃だった。社内の飲み会などでは、酒の勢いに任せ、あからさまに「まだ結婚しないの」などと聞いてくる男性社員もいた。元々結婚願望が薄かった私はその度に軽くあしらってきたつもりだったが、度重なるこうした質問に、自分でも気づかぬうちに気持ちがふさいでいった。結婚し、出産することが当たり前という依然として根強い価値観が、年を重ねる毎に無言の圧力となって私にのしかかってきた。
他人がどう思おうとわが道を行く、ときっぱり割り切れるほど、結局私は強い人間ではなかったのだ。
ある日、何のために自分が働いているのか以前に、何のために生きているのかさえ分からなくなった。そんな全人類共通の、未来永劫答えの出ない疑問に囚われてしまったこと自体、メンタルが相当やられていた証拠なのだが、当時の私は自分を客観視する余裕さえなかった。
そんな時に、同じ営業部の同期から告白を受けたのだ。彼曰く、私の自立していて仕事が出来るところに惹かれたのだと言う。女らしさとはほど遠い私にも、こんな風に私の長所を認めてくれる人がいるのかと、素直に嬉しい気持ちになった。そしてそれからは、私達はあまりにも普通に恋愛をし、結婚をしたのである。
今思えば、彼もまた、私が感じていた圧力と同じものを感じていたのかもしれない。そして一番身近にいた私に―。なんてことは考えないことにしている。
結婚して二年後には息子が産まれた。無事出産できた安堵と喜びの中で、私はどこかでこう感じていた。
これでもう、誰にも文句を言わせない。
結婚し「まだ結婚しないの?」という圧力から解放されたと思ったとたん、今度は別の圧力が襲ってきていたのだ。
「赤ちゃんはまだ?」
実母も義母も事あるごとに同じ質問を繰り返した。年齢が年齢なので心配なのは分かるが、こればかりは授かりものなので天に任せようと思っていた。子供は嫌いじゃないが、不妊治療をしてまで欲しいわけじゃない。仕事を続けながら夫と歩んでいく人生も悪くないと思っていた。だが。
結婚して初めて知ったのだが、新婚の夫婦に対する周囲の期待度というのは相当なものである。一年も経つと親族のみならず、近所のおばさんや会社の同僚までもが同じ質問をぶつけてくるようになった。そしてその度に何故か後ろめたいような気持にさせられる、の繰り返し。
だから自然に妊娠した時は嬉しかった。子供を授かった喜びはもちろんあったが、それ以上に私は、周囲の圧力から解放された喜びをかみしめたのである。これで自分もようやく社会から認められたという感覚。そしてその感覚を、「幸福」と名付けたのだから、情けない。
私が幸福の条件をすべて手にしたとするならば、どうしてこんなに不安になったり苦しくなったりするのだろう。どうしてまだ、何かが違うのでは、などと感じてしまうのだろう。
私は息子の顔にふと目をやった。まだすやすやと眠っている。どうか駅に着くまで、この子が目を覚ましませんように。
「これからは、俺が養うから」
夫がさりげなく言った一言に、私はひっかかっていた。
私は子供の頃から、クラスのどの男子よりも勉強が出来た。将来の具体的な夢というよりは、未来の自分のイメージとして、社会に出て男性と肩を並べてバリバリと働く、そんな女性になりたいと思っていた。専業主婦だった母が突然の父の死後、苦労してきたのを見て育ったせいかもしれない。
高校卒業後は国立大学に進学し、今の会社に就職した。当時は就職氷河期で一流大学を出たからといって、一流企業に入社出来るわけではなかった。私も世間で名の知れた一流企業にはことごとく落ちてしまったのだが、なんとか中堅処の不動産業である今の会社から採用通知をもらった。
一流企業でキャリアウーマンという少女時代からの私の夢は叶わなかったが、かえって中小企業の方が自分の能力を発揮しやすいものだと頭を切り替え、私は仕事にのめり込んだ。学生時代に得た知識は社会に出てから泣きたいほど役に立たなかったが、それまで培ってきた勤勉さと集中力と記憶力は功を奏した。
私は入社一年目には早くも優秀な新人として認識されるようになり、入社二年目からは外回りの営業を一人で任され、成績は常にトップだった。お客さんからも真面目でしっかりしていると信頼され、それがまた契約実績につながった。
私の人生が、最も輝き充実していたのは、もしかしたらあの頃だったのではないか。そんな考えが、無意識に、唐突に頭に浮かんでくる時がある。そして、その後は決まって、そんな風に思ってしまって夫や息子に申し訳ないという気持ちになる。
金属棒を握りしめながら、私はぼんやりと西の空に沈んでいく夕陽を眺めていた。そろそろ息子が目を覚ます時間だ。余計な考えを追い払い、とりあえず今に集中しなくては。今の私にとって一番大切なこと、それはこのまま無事に息子と家までたどり着くことだ。だがありがたいことに息子はまだ、目を覚ます気配はなかった。
育休からの復帰後は、私は営業グループから営業事務課へ移ることになった。十時から四時までの時短勤務では営業の仕事は務まらない。朝八時に出社し、九時、十時まで残業するのが当たり前だった頃に比べると、職場での環境は百八十度変化したといってよかった。楽になったといえば、確かにその通りだ。だがその分、私には育児という新たな仕事が加わった。ほどほどに仕事をし、育児もこなす。それが今の私に与えられた役割なのだと理解もしている。
ただ頭で理解することと、心で受け入れることとの間には、ギャップがある。
息子の目のあたりがピクピクと動いている。いよいよだ。私は息子の顔を注意深く観察しながら、ただひたすらに泣き出さないことを祈った。寝起きの悪い息子は、このくらいの月齢の子供にとってはごく当たり前の事であるのだが、目覚めた瞬間泣かないことの方が少ない。満員とはいえないまでも、立っている乗客もかなりいるこの車内で息子が大声をあげる図は、想像するだけでぞっとする。
「いくら会社に託児所が出来たからって、片道一時間の距離を毎日子連れで通勤するなんて、大丈夫なの?」
内にさりげなく非難を忍ばせた義母の言葉が頭をよぎった。
「仕方ないじゃないか。近所の保育園には入れなかったんだから」
私をかばって反論する夫の隣で私はじっと耐えていた。保育園に入れないなら、家にいて子供を育てればいいじゃない。義母が声には出さなくても、心でそう言っているのが聞こえてきた。だけど私は、私の能力を認めてくれた会社を、たとえ時短勤務になっても手放したくなかったのだ。
「ふあああーん!」
ついに、来た。生まれてすぐの、ほぎゃあ、とかおぎゃあ、とかいう泣き声とは明らかに違う、この時期特有の泣き声を、息子は突然にあげた。目がはっきりと覚めていくに連れ、その声は次第に大きくなっていく。
車内の空気が一瞬、凍り付いたように感じた。
「すみません」
誰に言うともなく、私は一人うつむき加減に謝った。私の前の優先席に座っていた中年男性もさすがにこの声には反応し、ちらりと顔を上げた。一気に気まずい空気が私とその男性との間に流れる。しかし彼が席を立つ気配はなかった。
最寄りの駅まではあと二十分少々で到着する。今さら席を譲ってほしいとは思わない。それよりも、何とか息子にわずかな時間でもいいからこらえて欲しかった。しかしそんな母の願いも空しく、息子は無遠慮にますます声を張り上げ、泣き続ける。
泣きたいのは、私の方だった。
そのとき、ふと一人の女性に私の目は留まった。
その女性を目にしたのは、この時が初めてではなかった。先ほどこの車両に乗り込み、優先席に座る三人を確認した時にも確かに目にしていた。スマートフォンに見入っていた彼女は、疲れたのか今は顔を上げ、目を閉じている。その面影に、私は確かな見覚えがあり、思わず息が止まりそうになる。
彼女の顔は歪んでいた。明らかに息子の泣き声を不快に感じているのが分かる。ついに耐えがたくなったのだろう、彼女は目を開き、鋭い目で息子を睨みつけた。
私の鼓動は高まり、胸が苦しくなった。一瞬の彼女の目線に、怒りと憎しみが込められているのを感じたせいもあるが、それだけではなかった。
彼女は、私の知っている人だった。しわが増え、容姿は大分衰えていたが、その目鼻立ちから、間違いないと私は確信した。一方で、そこに浮かんだ表情は、私が知っていたものとはあまりにかけ離れていて、果たして本当に本人であるのか断定出来ない部分もあった。
内側から溢れ出る自信で目を輝かせていた彼女と、ひどく荒んだ表情で再び目を伏せたこの女性は、本当に同一人物なのだろうか―。
息子は体をゆすり、背中をトントンしてやると徐々に落ち着いてきた。駅に着くまであともう少しの辛抱だ。
息子をあやしながら私は、自分の年齢から彼女の現在の年齢を瞬時に計算していた。ちょうど五十歳くらい。今目の前にいるこの女性は、やはりそれくらいだろうか。
確信が持てぬまま、私は彼女の顔に穴を開けてしまうのではないかというくらい凝視した。
揺れの中、駅名を告げる車内アナウンスと共に、私の記憶は徐々に紐解かれていく。すると突然、タイムトリップでもしたかのように、一気に過去に押し戻された。
それはもうずっと昔のことだった。私の心が最も多感で、まだガラス細工のように壊れやすかった頃―。
彼女は中学校の家庭科の教師だった。
彼女は「生活力」という言葉をよく口にした。彼女の言う生活力とは一般的に経済力という意味で使われるこの言葉とは意味を異にしていた。それはつまり、文字通り生活していく力、具体的には、女性が家事全般をこなす力を意味していたのである。料理をする力、裁縫をする力、家計簿をつける力、ご近所とうまく付き合う力、安全に生活する力、子供を育てる力。そうしたいわゆる女性として絶対に身に付けなくてはならない力を、彼女は彼女独自の言い回しである、「生活力」という言葉で表現していた。
さらに彼女は、自分自身で特別な意味を付加したその言葉に、愛情を込めていた。
「生活力」のある女になること。それは彼女にとって唯一の生きる目的であると同時に、教師という立場上、そのことを女子生徒達に徹底して伝えることこそ、彼女の使命だった。
そして彼女は、なによりそのことに生きがいを見出していた。生きがいを持って生きる女は、例外なく輝くことが出来る。当時二十五歳だった彼女もまた、生まれ持ったまずまずの美貌に、満ち足りた笑顔をきらきらと輝かせていた。
彼女を慕う女子生徒達は多かった。多感な年頃の少女達は、まるで飢えた獣のように憧憬の対象を求めては、すんなりとそれを見つけることができるのである。そしてその対象となるのは、必ずしも同世代の異性とは限らない。部活動の同性の先輩や、教育実習に来た大学生なども対象になりうるのであり、中でも最も対象になりやすいのが、若い方だが、若過ぎでもない女教師なのである。大学を出たばかりの新任では、まだ教師としてのオーラもなく、頼りないと感じてしまう。しかしかといって年が二十も三十も離れたような中高年の教師となると、世代が離れすぎ、親しみを抱くことが出来ない。従って、まさに二十代後半から三十歳くらいまでが、最も女子生徒達のファンを獲得しやすい年代なのである。当時の彼女はその点においても、まさにストライクゾーンにいた。
授業が終わると、まだ教室に残っている彼女の所に、少女達は様々な相談をしに行く。最近興味を持つようになった料理や、裁縫の質問をしに行く子が多かったが、中には恋愛の相談をする子もいた。そんな時彼女は、今この瞬間こそ最も充実した時間だと言わんばかりの笑みをたたえながら相談に応じていた。
彼女が導く答えの方向には、決してぶれがなかった。つまりどんな質問に対しても、彼女が出す結論は、結局のところいつも一緒だった。それは、女性に生まれた以上大切なことは、細やかさや丁寧さ、奥ゆかしさである、ということだった。
「世の中の男性は、結局皆そうした女性を求めているのよ。だから、まず努力しなさい。女性として価値がある女になれるようにね」
「女にとって、男性から愛され、子を産み、家庭を築くことに勝る幸せなんてない」
彼女が、自ら固く信じて疑わない信念を熱く語っていたのが、つい昨日のことのように瞼の裏に浮かぶ。
今思えば、呆れるほど強引で主観的な論理だ。もし今の国会議員が、当時彼女が述べていたことのほんの一部でも口にしたら、即大炎上だろう。
けれども当時私が通っていた中学校で、彼女を批判するような子は一人もいなかった。それどころか、彼女からアドバイスを受けた少女達が、まるで何かの洗礼でも受けたかのように、つきものがとれたような顔になって、自分の席へと戻っていったのを覚えている。
私にはそんな彼女達が、相談に行く前より幾分か女らしくなったようにさえ見えて、そのことをなぜか、わけもなく不快に感じた。
私が彼女の所へ相談に行くことはなかった。初めて会った時から私は、彼女に対し何か強烈な違和感のようなものを抱いていたからだ。なぜそう感じたのかは分からない。ただ彼女が、自分とはまるで異なる種類の人間であると感じたことは確かだ。
私が彼女に対して抱いていたのは、他の少女達のような憧れや親しみの情ではなく、むしろ拒絶感だった。
そんな私の心の中は、すぐに彼女に見抜かれた。彼女はそうした感受性が特に鋭い方だったのだ。
彼女が私を敵視し始めるまで、そう時間はかからなかった。
自分で言うのも何だが、私は五教科の成績がとても良かった。小学校の頃から勉強することが得意で、なんでもすぐに覚えられたし、理解も早かった。特に苦労することもなく、テストではいつも百点がとれた。
だが優等生というイメージとは少し違っていたと思う。なぜなら私は、極端に人見知りであがり症だったのだ。人前で発表するのは駄目だったし、運動神経も鈍かった。特に手先が不器用だったため、図工や家庭科といった、頭脳より手先の器用さが要求されるものに対しては、特に苦手意識を持っていた。地味で目立たないけれど、勉強だけはよく出来る子。それが当時の同級生達が私に対して抱いていたイメージだと思う。
だから彼女に対する苦手意識も、初めは単に、家庭科という教科に対する苦手意識から生じたものだと思っていた。
授業中、他の子に向けられていた彼女の笑顔が、私の方を向いた途端に、さっと消えるのを何度も経験した。でもその程度のことなら、心にふたをしさえすれば、気づかぬふりをしていることもできたはずだ。
彼女からの個人攻撃はある日突然始まった。給食を食べた後の、穏やかな昼下がりの授業だったと記憶している。
私は彼女の話を聞いていた。他の授業の時と同じくらい、ちゃんと、熱心に。手先は不器用でも、話を聞き理解する力においては、他の教科と同様に優れていると自負していた。
しかし突然、彼女の視線が私の顔の上で留まった。同時に恐ろしく豹変した彼女の顔が、こう言った。
「ねえ、肘をつくの、やめてくれる?」
一瞬、言われたことの意味が分からなかった。しかしすぐに、自分が左手の肘を机にのせて、片手で頬づえをつく格好になっていたことに気がついた。そして、彼女がそのことに対して、怒りを覚えているのだということも。
私は慌てて腕を引っ込め、手を膝の上に置いた。姿勢を正し、彼女の方に向き直ったが、「ごめんなさい」の一言は、喉元に引っかかり声にならなかった。
すると、彼女の方へ向けられていた教室中の視線が、瞬時にして私に向けられた。同時に体中の血液が、さっと顔に向かってくるのが分かった。まるで全身がしびれたように感じた。
恐ろしい顔をしたまま、彼女は続けた。
「ほら、みんなのこと見てごらん。あなたのような子は誰もいない。みんなちゃんと両手を膝に置いて、こっちを向いている」
確かに彼女の言う通り、誰一人として頬づえをつきながら話を聞いている子などいなかった。
もし現在のように、家庭科も技術も男女一緒に受ける時代だったら、少しは状況が違っていたのかもしれない。中にはよそ見をしたり、下を向いたりする男子生徒もいただろう。
だが当時私が通っていた中学校ではまだ、家庭科は女子のみが集まり受けることになっていた。従って家庭科の時間は、女だけが集まる空間特有の空気が流れていたのである。
そこは一見穏やかで波風の立たぬ平和な世界のようでいて、同時にわずかなミスも容赦されぬ冷徹さをはらんでいた。皆が皆「女子力の向上」という同じ目的に向かい前を向いている。その雰囲気に、馴染めていないのは私だけだった。
恥ずかしさに涙がこみ上げてくるのが分かった。でも同時に脳の一部が、泣いてはならないと強く命令していた。私はこぼれ落ちそうになる涙を必死でこらえながら、彼女の顔を直視し続けた。他の場所に視線を置くことなど許されないと感じたからだ。
耳の奥では、彼女の放った「あなた」という単語が、いつまでも残っていた。
―あなた以外はみんな、私の事、慕ってくれているのよ。
私には、そう聞こえた。
それから彼女は私のことを、折に触れて注意するようになった。
シャツが体操服から出かかっている。靴下が下がっている。廊下を走った(実際は早歩きだった)などなど。男子もいる皆の前で、彼女は大声で私を叱った。
そしてある日、事件は起こったのだ。
その日は、家庭科の授業で私が最も苦手とするミシンを使って、スカートを縫う日だった。当時のミシンと言えば、今よりもずっと性能が悪く、さらに学校に置かれているものなどは、購入してから十数年は経っているくたびれたものばかりだった。
ミシンは班で二台しかないため、順番で使うしかない。同じ班の他の子が使い終わり、私の番になると、決まって糸が絡まった。前の子の時はスムーズに動いていたのになぜ、と泣きたい気持ちになったが、泣いている時間などなかった。授業の時間内に仕上げられなければ、放課後居残りで仕上げなければならないことになっていたのだ。
居残りが嫌だというよりは、居残り組に入ることが、私は嫌だった。
時間内に仕上げられない子。それは平均よりも不器用な女子として、クラスの中の劣った部類に入ることを意味していた。今思えば、そんなこと大したことではない。仕上がらなければ、放課後ゆっくりと仕上げればいい話なのだ。
だけど当時の私には、そんなことは通用しなかった。主要五教科において劣等生になることなど決してなかった私にとって、劣等組に入ることはまるで、未知の恐ろしい場所に引きずられながら連れていかれるようなものだったのである。
絶対に時間内に仕上げなくては。授業の終了時間が迫るごとに、それは恐ろしい強迫観念となって私を襲った。
絡まった糸を取り除き、ようやくなんとかミシン縫いが終わり、後はアイロンでアップリケを貼り付けるだけだった。時間は残り五分。今すぐアイロンをかけてしまえば、間に合う。そう思った私は、とっさに手を伸ばした。他の子にアイロンを取られる前に使いたいと思ったのだ。
その時、右隣の子の斜め右の方にあったアイロンが、倒れた。
「あつっ」
同時に隣から声が聞こえた。倒れたアイロンが、その子の手の甲に当たったのだ。
「あっ、ごめ…」
謝ろうとした私の声はすぐに、彼女の金切り声によってかき消された。
「何してるの!」
彼女は見ていたのだ。私のことをずっと。アイロンが倒れたその瞬間も。
「大丈夫?!」
彼女は大げさなほど慌てながら、やけどをした子に駆け寄って来た。
「すぐに水で冷やして!」
一大事とばかりに、彼女はその子を水道のところまで連れて行き、勢いよく水を流した。が、実際は大したことはないということが、その子の様子から分かった。過度に心配する彼女に軽く手を振りながら、遠慮がちに「大丈夫です」と言い、少し微笑んですらいた。私はその子のそんな様子に、心から感謝した。泣きそうになる気持ちの中で、「大丈夫です」と言ったその子の言葉が、救世主のように鳴り響いた。良かった。安心した私は、実際本当に泣いてしまいそうだった。
アイロンの電源は切になっていた。前に使った子の余熱は残っていたものの、大やけどをするほどの温度ではなかったのだ。
けれども、私の罪は決して許されなかった。
やけどのケアを終えた彼女は、かつて見たことのないほどの鋭い視線を、私に向けた。
「そういうところなの」
それが、彼女の発した第一声だった。
「あなたの、そういうところ。そういうところが私、どうしても…」
彼女は言葉を濁した。その言葉の先を、後になって私は何度も想像した。嫌い、許せない、憎い。いづれにしても決していい意味の言葉でないことは確かだ。だが、その先を言う代わりに、彼女はこう続けた。
「どんなに勉強が出来たってだめ。女性が生きていく上で大切なのって、そういうことじゃない。鈴木、あなたには、生活力が足りないよ」
彼女ははっきりとそう言ったのだ。私は何かで頭を思い切り殴られたようだった。
彼女に「生活力」がないと言われること。それは、お前は女性として生きる価値がないのだと、皆の前で烙印を押されたのも同然だった。
その日から、私は学校へ行けなくなった。母は何度も理由を尋ねたが、私は答えなかった。もしも原因がいじめだとしたら、それも辛いことだが、もしかしたら打ち明けていたかもしれない。だが、娘を追い込んだ相手が自分と同じ大人だと知ったら、母はどう感じるだろうか。想像する前に私の胸は苦しくなり、それ以上の思考は停止した。
急に学校に来なくなった私を心配してくれる優しい友人達もいた。あの家庭科室での出来事以来学校に来なくなったのだから、クラスの女子達のほとんどが私の不登校の原因には気づいていたはずだ。
「もう気にすることないよ。やけどだって大したことなかったんだし」
「そうだよ。ちょっと先生さすがに怒りすぎだなって思った」
そんな風に家に来てくれた友人達が私の肩を持ってくれた時は本当に嬉しくて、思わず涙を流してしまった。今振り返ってみても、女友達の有難みをあの時ほど強く感じたことはないかもしれない。彼女達のおかげで私の心は少し回復したが、それでもまだ学校に行く勇気は持てなかった。家庭科の授業がない日でさえ、彼女と廊下ですれ違うことを想像しただけで、恐ろしくて動けなくなってしまった。
不登校になり一週間目で、担任の男性教師が家を訪ねてきた。母に呼ばれ居間へ行くと、担任はすでに家の中へ通され、ソファで母に出された茶を飲んでいた。
「よう、久しぶり」
わざとなのか、担任はあえて軽い調子で私に向って手をあげ声をかけた。母も笑みを浮かべながら振り向き、私に手招きをした。
仕方なく母の隣に腰を下ろした私に、担任は言った。
「家庭科の時間に、なんかあったんだって?」
あまりに単刀直入に来たので、どう答えていいか分からなかった。何も知らない母は、初めて聞かされる不登校の原因に驚いた顔をしている。
やめてくれ―。心が張り裂け、叫びだしそうだった。
だが次の瞬間、担任はのん気とも言える口調で、こう言ってのけた。
「あんなの、気にすることないよ」
担任から出た意外な言葉に、私は思わず担任の顔を見上げた。
「…実はここだけの話、私も彼女のことはどうも苦手で。生徒から人気もあるし、タイプだっていう同僚もいるんですけどね、私はどうも…」
そんなことを言いながら、再び茶を啜る。
「…家庭科の時間に、何があったんですか?」
母の方も担任の態度に緊張が解かれたのか、ストレートに質問した。
「いやあ、確かにあわや大やけどを負ってしまうかもしれないという場面ではあったのですが、結果的にどうということはなかったわけですし、本人にももちろん悪気があったわけじゃありませんからね。ちょっとした不注意を戒めるだけでよかったのに、本人の人格までおとしめるようなことをするのは、いかんですよ。って、私がここで愚痴っても仕方ないんですがね。要は、せめて正美さんに、私は味方だってことを伝えたくてですね」
どこか照れながらそう言う中年の男性教師は、口下手ではあったが、私を救ってくれるには十分だった。すべての人から慕われていると思っていた彼女を、苦手と感じる人間が自分だけではないと分かっただけで、心が軽くなった。もし担任が別の教師だったら、私の不登校はもっと長く続いていたに違いない。
そんなことがあったんですか、と聞いている母も、ショックを受けているようではあったが、担任の口調に幾分ほっとしているようだった。最後は、そういう人っていますよね、なんて担任に同調し、笑みまで浮かべていた。私も、深刻に悩んでいたのが嘘のように、なんだか拍子抜けしてしまった。そしてふと、こう思った。
馬鹿馬鹿しい。
不登校になってから十日目に、私は学校へ行くことが出来た。
彼女がその後私を目の敵にするようなことはなかった。心の中で何を思っていたのかは分からないが、私とすれ違ってもこちらを見ようともしなかったし、それは授業中も一緒だった。当然のことながら、私も家庭科の時間に手を挙げて発表するなどということはなかった。
そして翌年の春、彼女は別の学校へと転勤になった。
中には私を、彼女を転勤に追いやった元凶として白い目で見る女子もいたが、それと同じくらい前と変わらずに接してくれる友人達がいたおかげで、私は何とかその後の中学校生活を無事に過ごすことが出来た。
だがそれはあくまで見かけ上の話だ。彼女からあの時受けた傷は、その後も私の中で完全に消えることはなく、化膿し続けていたのかもしれない。
最寄りの駅に近づくに連れ降りる人の数が増え、車内は空いてきた。目覚めた時に大声で泣いた息子は、必死であやしたかいがあってようやく落ち着き、今はくりくりとした大きな目で辺りを見回している。
息子は私と目が合うと嬉しそうな顔をし、今度は声を上げて笑った。すると私の隣で立っていた高齢の女性が、その声に反応してこちらを向いた。
「かわいいわねえ」
目を細めてそう言う女性が、ちゃんと心からそう思ってくれているのが伝わってくる。
「ありがとうございます」
そう答える自分の胸が、温かだった。多少人間不信な所がある私でさえ、この一言をかけられる瞬間においては、幸せな気持ちになる。それはおそらくすべての母親において言えることなのではないだろうか。子供を産んで良かったと心から思えるのは、こうしたささいな瞬間だ。
だが、その時だった。彼女からの、鋭い視線を感じたのは。
彼女が見ていたのは、私ではなく息子の方だった。
何か根拠があったわけではない。にもかかわらず、瞬間、私ははっきりと悟ったのである。
彼女には子供がいない。そしておそらく、結婚もしていない。
彼女が息子に向ける眼差しの中に含まれる、羨望、嫉妬、後悔、憎悪。それらが混ざり合い、ひとかたまりとなって、そのことを物語っていた。
私はさりげなく、何もはめられていない彼女の薬指に目をやった。結婚をしていても指輪をはめないという人はよくいるが、彼女をよく知っている私には、それはないと断言できる。
ふいに私の中から、笑いがこみ上げて来た。こらえることなど出来ない。
もし私が、たった一人で電車に乗っていたのなら、突然笑い出した頭のおかしな女だと思われたに違いない。しかし私には、最大の味方である息子がいた。体の暗い奥底からわき上がった黒い笑みを、顔の上で、息子に対する慈しみの笑みへと変換する。自分にそんな器用なまねが出来るなんて、今の今まで知らなかった。
誰も私の中の黒い笑みには気がつかない。今の私は、ただ息子に笑いかける優しい母親としてしか、他人の目には映らないだろう。
だけど息子は笑わなかった。母がどんなに微笑みかけても、まるで別の生き物を見るかのような目で、じっと私の顔を凝視している。
この子だけは、気づいたのかもしれない。母の笑みの源が、決して自分ではないことに。
それでも私は微笑み続けていた。いつの間にか彼女の視線は、息子から私の左頬に移っている。もしかしたら、彼女も私に気づいたのかもしれない。もしほんの一瞬でも彼女と目を合わせれば、それを確認することが出来るだろう。しかし私には、そうする勇気がなかった。二十五年という時を経ても、依然として私は彼女に怯えていたのである。
これまでに彼女が受け持ったであろう生徒の数を思えば、大昔ほんの一年受け持っただけの私を、彼女が忘れていたとしても無理はない。私の中に強烈な記憶を残していった彼女の記憶には、私のことなど微塵ほども残っていないのだ。そう考えると、葬り去ったはずの怒りと憎しみが、湧き上がってくるのを感じた。
電車がホームへと滑り込み、停車する。私が降りる駅までは、あと十分少々だ。
ふと車内を見回すと、優先席ではない彼女の向かい側の席が空いていた。私は先ほどの老婦人に席が空いたことを伝えようと、どうぞ、と手を差し出した。普段の私なら決してこんなことはしない。他人とはなるべく関わらない方が無難だと思っているからだ。けれども私が珍しく自分から声をかけたのは、さっきこの女性から声をかけられたのが嬉しかったからというのもあるが、それだけではない。この時から既に、私の精神状態は普段とは違っていたのである。
しかし老婦人は驚いたような顔で、とんでもない、と言い、
「あなたこそ、ずっと赤ちゃん抱っこしたまま立ちっぱなしで疲れているでしょう。私はまだ若いから大丈夫。ほら座って」
と、私の背中に手を当て座るように促してくれた。
もう一駅なので、と断ろうかとも思ったが、せっかくの好意を無にするのも申し訳ない気がしたので、有難く座らせてもらうことにした。
ありがとうございます、と丁寧に頭を下げると、老婦人は嬉しそうに笑いながら私の前に立った。そして、ちらと後ろを見ながら、
「全く、優先席ってあんなに大きく書いてあったって意味がないわよね。ま、私は若いからいいんだけど」
と、茶目っ気たっぷりの笑みを見せた。私は老婦人に笑い返しながらも、前に座っている人達に聞こえるのではないかと内心冷や冷やした。そうしてつい見てしまったのだ。正面からこちらを見つめている彼女の顔を。
彼女の肩が震えているのが分かった。老婦人の声は、間違いなく彼女の耳に届いたようである。彼女はさっと立ち上がると、私達の方へ歩いてきた。
「お座りになりたいんだったら、どうぞ」
怒りで赤くなった顔で老婦人にそう言う彼女は、あきらかに喧嘩口調である。だが老婦人もひるまなかった。
「だから私はいいのよ。まだそんな年取ってないんだから。だけど彼女を見て何とも思わない?赤ちゃんを抱っこして、ベビーカーまで抱えているのよ」
彼女が私の方へ顔を向けた。じっと私の目を凝視する。だが何かを思い出したようには見えなかった。ただそこに、底知れぬ暗さが宿っているのを、私は見た。
恐怖で声が出てこない。あの時と同じだ。
だけど同時に、心の底でもう一人の自分が叫ぶ。
あの時と同じでは、ダメなんだ、と。
「あの…」
私は彼女に声をかけた。
「…覚えて、ないですよね。二十五年前、私、あなたの教え子だったんです。あなたは私に、大切なことをたくさん教えてくれました。あの頃は受験に合格しさえすればいいんだって思ってて、正直家庭科なんて教科、馬鹿にしちゃってたんです。だからあなたに嫌われてたんですよね、私。でも実際に結婚して、子供を産んで、実は家庭科の授業で習ったことが一番生きていく上で役に立つんだっていうことが分かりました。でも、結婚して家庭に入り子供を産むことだけが女の幸せだっていうあなたの考えには、今でも賛成することは出来ません。私は結果的に結婚して子供を産みましたが、そうじゃない人生も悪くなかったんじゃないかって思うことだってあります。結局、何が幸せかなんて本人が決めることだと思うんです。実際、あなた御自身も、今ではそのことを痛いほどに感じていらっしゃるんじゃないですか?」
最後の一言には、さすがに棘があったかと思う。それでも過去に私が受けたことを思えば、それくらいしてもいいだろう。
彼女ははっとしたように顔を上げた。そこに浮かんだ後悔と懺悔の色は、彼女がようやく何もかも思い出したことを物語っていた。
彼女が何かを言いかけたのと、到着のアナウンスが流れたのはほとんど同時だった。
私は彼女に向ってゆっくりと頭を下げた。あれほど強く抱いていた彼女への恐怖も怒りも憎しみも、すべて消え失せていた。
立ち上がった私は、驚いた顔で私を見つめる老婦人にもお礼の挨拶をした。老婦人は、若干顔をこわばらせながらも、にっこりと微笑んでくれた。
古い知人の痛いほどの視線を頬に感じながら、私はそれから彼女を一瞥することもなく、電車を降りた。
夕陽が、ホーム全体をまぶしく照らしている。
去っていく電車を眺めながら、中学を卒業後、大人になってからもずっと、私の中で灰色のしこりとなっていた何かが、溶けて消えていくのを感じていた。
私は果たして、彼女への復讐を果たしたのだろうか。
だがそれは、決して晴れやかな気持ちではなかった。
結婚をし、子供を育てることこそ女の幸せだと信者のように説いていた彼女がその後、どんな人生を歩んだのかは分からない。だがそれは彼女が思い描いていたような平坦で単純なものではなかったはずだ。彼女が味わったであろう苦悩に思いをはせると、もう彼女を笑う気にはならなかった。
「あれ?正美?」
ふと後ろから声が聞こえた。振り返ると、スーツ姿に営業用の鞄を手に持った夫の姿があった。
「なんだ、同じ電車だったんだ」
毎日見ているはずの夫の姿に、なぜか心底ほっとしてしまう。
「営業先がちょうどこの沿線沿いだったから、直帰することにしたんだ。ずっと残業が続いてたから、今日は早く帰ろうと思って。あ、こうたの風呂、今日は俺が入れるよ」
思わず駆け寄り、自分の代わりに息子の顔を夫にすり寄せる。夫も嬉しそうにがしがしと息子の頭をなでた。
「こうたー、会いたかったよ。…ところでどうだった?初日はやっぱり大変だった?」
「うん。まあそれなりにね。でもなんとか頑張ってみる」
「あんまり無理するなよ。お前が体壊したりしたら元も子もないんだから」
夫はそう言いながら私の肩からベビーカーを外し、自分の肩に担いだ。
何が幸せなのかなんて分からない。
自分の歩んできた道が正しかったのかも。
だけどただ一つ確かに言えることは、今この瞬間において、私は満たされている。
夕日を浴びながら家路につく私達を、あの頃の自分に見せてあげたい。
そして、こう伝えよう。
人生に正解なんてない。だからこそ、どんな人生にも価値があるのだと。
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