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第三章 水無月(六月)

42.六月二日 早朝 修行体験

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 土曜日の朝五時、いつもと同じように顔を洗い、歯を磨いてしっかり目を覚ましてから庭へ出た八早月やよいは、いつもとは異なった順で訓練を始めた。

 最初は山坂道を走って体を温めるところから始めるのだが、今朝は木刀を使っての素振りを初めに行い、体が温まってきたら真宵まよい相手に打ち込みの練習と言う順序でこなしていく。

 だいたい三十分くらいするとかえで直臣ただおみがやって来て、その少し後にドロシーが力なく坂を上ってくる。三人が揃ったところで再び素振りを行い、その後四人で打ち込みを始めているとようやく客人が目を覚まして濡れ縁に顔をのぞかせた。

「八早月ちゃん、おはよう…… みんな早いねえ。
 って言うか高等部の先生もいるじゃないの」

「ホントだ! 英会話の先生だったっけ? 金髪うらやましいなぁ。
 うーん、それにしても四宮先輩やっぱカッコいい!
 それに八早月ちゃんも凛々しい! 朝練は大変そうだけど……」

「ああ、美晴さん、夢路さんおはようございます。
 うるさくして起こしてしまったかしら?
 知らなかったかもしれませんが、ドリーは分家の一つ、七草家の当主なの。
 まだまだ未熟なのでこうして鍛錬をご一緒してるというわけ」

「はあぁ、旧家って大変なのね。
 でも教師で巫女だなんてステキ!
 あ、顔洗うのはこの井戸を使えばいいの? アタシ井戸なんて初めてだよ」

「はい、腰を痛めないよう気を付けて汲みあげてくださいね。
 房枝さーん! 庭までタオルを二本お願いしまーす!」

 八早月が大声で叫ぶと、老婆がそそくさとやって来て濡れ縁へタオル二本とお茶のセットを運んできた。時間はまだ五時四十五分、八早月のクラスメートたちは普段こんな早く起きることはないらしく眠そうではあるが、顔を洗って目を覚ます意思はあるようだ。

「良かったらお茶でも飲みながら見学しててね。
 興味があれば鍛錬に参加してもいいわよ?」

「いやいや、普通に遠慮しておくー
 アタシって走る以外はからっきしなんだもん」

「私もいいよいいよいいよ、先輩たちに迷惑かかちゃうし……
 それに見てるだけで充分鍛えられそうだもん」

 二人は当然のように参加せず、それでも初めて見る光景に興味津々の様子だ。見られている側は緊張する余裕すらなく、昨晩から泊まりに来ている板山美晴と山本夢路に八早月の恐ろしさを伝えるかのようにしごかれている様子を披露していた。

 三十分ほどぶっ続けで立ち合い稽古をこなすと八早月以外の三人はその場にしゃがみ込んでしまったのだが、それでも実はいつもよりは軽い鍛錬メニューである。なぜならば、さすがに一般人を前にして、いつもと同じように鍛錬を真宵に手伝ってもらうわけにはいかない。

 こんな風に厳しい櫛田家の朝も二人にとってはいい刺激になっているようだし、町暮らしの同級生にとっては初めて体験する田舎の生活自体がかなりの衝撃だった。先日の宿泊学習の時に八早月が言っていたように、夕食にふんだんに使われていた山菜の珍しい味に舌鼓を打ち、薪で焚く風呂ももちろん初体験である。

 寝る前には満天の星空の下でのガールズトーク、と言うほどではないが楽しくおしゃべりをしながら濡れ縁でお菓子を摘まむのは。少々の背徳感と沢山の幸福感をもたらし最高の体験となった。

 なお、櫛田家にはお菓子なんて無さそうだと予想し、スナック菓子を大量に持ち込んできた夢路の考えは大正解だ。美晴はその予想を聞いてサイダーとグレープジュースを持参と用意周到である。もちろんどちらも八早月にはなじみの薄いもので家には無いものだった。

「それじゃ今日は少し早いけど締めることにしましょうか。
 あまりお二人を待たせるのも悪いですからね。
 せっかくだし最後は美晴さんと夢路さんも一緒にどうぞ」

「えっ!? アタシたちでも出来るようなもんならいいんだけど……
 本当に大丈夫?」

「ええ、大丈夫ですよ。
 竹刀をお貸ししますからぜひ振ってみてくださいな。
 ストレス解消だと思えば楽しいものです」

 そう言って八早月は笑いながらそれぞれに竹刀を持たせ、自分が構えた高さへの打ち込みを指示した。見よう見まねで上段中段袈裟斬り逆袈裟と走ってから四度振っただけでも息が上がってしまった二人だ。

 しかし楓と直臣はそんな単純な打ち込みでは許されるはずもなく、八早月の前後を行ったり来たりしながら繰り返し打ち込んでいく。結局一度も休むことなく打ち込み続け、ようやく八早月から終わりの声がかかって二人は地面へと倒れ込んだ。

 その間、上段の構えを維持し続けていたドロシーは、パンパンになりつつある腕をようやく降ろせると安堵すると同時に、自分の番が回ってきたとため息交じりに深呼吸をした。

 美晴と夢路にとってはあまりなじみの無い高等部の教師だが、普段は生徒に人気のある明るい英国人であることくらいは知っていた。それが今は小さな少女を前にして緊張が隠せない面持ち、それにすごい迫力で竹刀を構えている。

 そんなドロシーが、手に持った竹刀の剣先をピクリと動かしたかと思うと一気に距離を詰めて八早月へと襲い掛かった。それはもう先ほどまでの練習とは明らかに違い、まさに剣術と言える激しいものだ。

「えええっ!? 八早月ちゃん大丈夫なの!?
 あんなに打ちこまれて、見てるだけで怖いよ」

「ドロシー先生もすごいね…… さっきまでの練習でも凄かったのに。
 今は本気で打ち込みに行ってるのかな…… 怖い……」

 美晴と夢路がその激しさに怯えていると、四宮直臣が安心させようと声をかけてくれた。それに一度も話したことの無い高等部の六田楓まで参加してきた。

「筆頭様なら大丈夫、あの程度なんともないくらいすごいんだよ?
 僕たちのやっているのは剣道とは違うから段位とかないんだけどさ。
 その辺にいる剣道の達人程度じゃ崩すことすらできないよ」

「はっきり言って筆頭様はバケモノクラスよ。
 うちのママだって太刀打ちできないもの。
 純粋な剣術で対処できるのは宿やどりおじさまくらいね」

「八早月ちゃんが怪我するようなことが無ければいいんだけど……」

 夢路がそう言うと、楓と直臣は揃って手と首を横に振って力強く否定した。それを証明するように、激しい打ち込みで力尽きたドロシーが地べたに膝をついて降参すると、八早月は満足したように剣を納め礼をする。

 終わってみれば、八早月の額にほんのわずかな汗がにじむ程度の出来事だったようで、そこにいる誰もがこの小さな少女の見えない底に驚愕するのみだった。
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