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止まった時間

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 いよいよ九回の表、ここを押さえきれば県大会を制し地区予選優勝となる。つまり甲子園行きが決まると言うことだ。今まで何度も想像していた県営球場で行われる決勝戦のマウンドは、すでにもう自分のもののように感じる。

「最終回だからな!
 思い切って投げていいぞ!」

「言われなくてもそのつもりさ。
 チビベンがちゃんと捕ってくれるからさ、僕も安心して投げられるよ!」

 マウンドで一言二言言葉を交わしてから内野へ振り返る。試合開始時からはガラッと変わったメンツだが、その頼もしさは変わらない。それにベンチからは木戸や丸山が声援を、いや…… あれは野次なんじゃないか……?

「いっけえー! カズ!!
 魔球だ! たい焼きボール一号を投げろおー!」

「だめだあー! 俺はラーメンボールがいいぞおー!」

 そしてやつらの後ろからはスコアブックが振り下ろされたのだった。その傍らでは由布がケラケラと笑っている。本当にナナコーは最高のチームだ。

 九回表の先頭バッター、六番が左バッターボックスへ入る。僕はボールの縫い目を縦断するよう指をかけてからグラブへ差し入れた。どうせ投げる球は決まっているし、握りを見られたからと言って打てるわけじゃない。チビベンは高めを取り損ねないよう腰高に構える。

 そして初球、おでこに向かって振りかぶると、すぐそばに咲がいるような気がして心強い。そのままモーションに入り左足を踏み出した。

 すべての動きが滑らかで、ゆっくりと、自然に、力強く、しなやかに感じる。そして最後は人差し指と中指の腹に掛かっている縫い目が指先へと移動していくのがよくわかった。

 リリースポイントは低く、指から離れ投げ出されたボールは地面から浮きあがりながらホームベース上へ飛んで行った。狙いは打者の胸元だが、インハイいっぱいへきっちりと決まりストライクのコールが聞こえる。バッター手が出なかったようだが、今の一球で腰が引けたのか一歩下がって構えなおした。

 打席での立ち位置は狙うコースによって変えてくる選手、そうでない選手と様々だ。だが、インコースを投げ続けている僕のボールを目にしてそこを開けたということは、苦手だと白状しているに等しい。

 続いてまた同じコースへ投げ込む。さすがにタイミングを合わせる気はあったようだが、ボールのはるか下を空振りした。これではまるでギャンブルスイングだし、怖さは全く感じない。案の定最後もバットへ掠りもせず三振だ。

 きっと気の持ちようと言うのもあるのだろうが、矢島学園でいい勝負ができると感じたのは、やはり山尻勝実だけだった。彼だけは野球選手としてのプライドを持っている。

 とは言っても、アマチュア野球では監督やコーチの権限は絶対なので、逆らうことなんて到底許されることではない、という風潮だ。今時そんな前時代的な考え方では、矢島の没落は目に見えている。

 チビベンからの返球を待つ間、そんなことを考えていたが、別に集中力が途切れているわけではない。とにかく今は、自分以外のすべてがゆっくりと見え、感じられて、時間を持て余してしまうくらいだ。

 ふと、額から垂れる汗がマウンドまで一緒に来てくれた咲の想いを流してしまうんじゃないかと心配になり、僕はグラブを押し付けるようにして汗を拭いた。このクソ暑い中で野球をやるんだから、タオルやハンカチくらい持ちこみを許可してもらいたいものだ。

 それでもなんだか気になったので、スタンドにいるはずの咲をチラリと横目で確認する。遠くて良く見えないけど、どうやら家から持っていた僕の帽子をかぶっているようだ。早く終わらせないと熱中症になったり、あの白い肌が日焼けで赤くなったりしたら大変である。

 その時! 咲と視線が合っていたらしくこちらへ向かって手を振ってきた。思わず僕も無意識のうちに小さく振りかえしてしまい、これがベンチ組の格好のおやつになってしまった。

「こらあー! 集中しろよおー!
 女にうつつ抜かしてんじゃねえぞおお!!」

「なんだとこらああ! うらやましいぞおおお!!!」

 木戸も丸山も、甘い球を見たら容赦なくフルスイングしてくるから困る。たまには見逃してくれてもいいのになあ、なんて思いつつ、しっかりと気合を入れなおしてホームベースの後ろにいるチビベンを見た。

 七番にはすでに代打が送られ、またもや左打者だった。だが打席の左右はもはや何の意味もなく、僕は一人目同様、全力で胸元を突き続けあっさりと三振に斬って取る。

 最後のバッターも代打の左打者だったが、強豪がわざわざ出してくるピンチヒッターにしては小粒なのが気になった。

 それに加えて、先ほどからベンチにいる由布が何やらゼスチャーしていたらしいことに今更気が付いた。指を三本立てて必死になにかを教えてくれようとしているがさっぱりわからない。僕は首をかしげてわからないことを伝えた。

 すると木戸が大声で叫んで教えてくれたのだが、それは確かに言いづらい事だったかもしれない。

「代打で出て来てるのは公式戦初打席の三年生だぞ!
 いい思い出になるよう最高のボールを見せてやれよ!!」

 そうか、僕は少し勘違いをしていたようだ。すでに矢島は勝負を諦めており、最後の夏となる三年生を次々に送り出していたのだろう。

 だからと言って手を抜くことは無いし、木戸の言うように、思い出として永遠に残ってしまうくらい最高のボールで打ち取るのが礼儀だ。だが本当は、あんな危険なプレーを指示したことが許せなくて全力投球を続けていると言うことを、向こうのチームに知ってほしいのだ。

 代打で出てきた小柄な選手、僕はこのバッターが最後になると確信していた。もちろん投げるボールはあと三球、全てインハイに決めている。

 さっきと同じところへミットを構えたチビベンがとても近く見える。それは不思議なくらい目の前に見えて、トスをするだけで届きそうに思えてくる。

 先ほどと同じようにおでこの前まで振りかぶり、そのまま滑らかに投球モーションを始動すると、体が勝手に動くように自然な流れを作る。その流れによって生まれた捻転が上半身を回転させ、肩を通じて縦方向の力へと変わっていく。その力が伝達された腕を振り下ろすと、手に持ったボールへすべての力を移しホームに向かって加速させていく。

 最後の最後に指先へ伝わった僕の全身全霊は、縫い目五個分程度の小さな一角へ突き刺さり空中へ飛び出していった。その瞬間、投球を終え始めている僕の感覚からボールだけが置き去りにされる。

 ほんの一瞬時間が止まったように感じたその直後、ボールは再加速してあっと言う間にチビベンのミットへ叩きこまれた。

 少し離れれているのにベンチがどよめいているのが聞こえる。間違いなく今日一番の、いや今までで一番の投球が出来たに違いない。

 次も同じように腕を上げ、足を上げて踏み出し、踏み出した脚へ向かって体重を移動する。腰が回転し、上半身がそれについて回転をはじめ、肩が回ってから腕が鋭く縦に振り下ろされた。

 するとさっきと同じように投球モーションが終わってもボールは放たれていない。またもや自身の肉体だけが先行し、フォロースルーの後にボールが飛び出していく。バッターやキャッチャーにどう見えているのかはわからないが、僕が現実の時間とずれて動いているように思えてくる。

 ボールがミットへ入る直前に、打者は仕方なくと言った感じでスイングしたがタイミングは全くあっていない。ボール自体が見えていないのか、バットの軌道はインサイド辺り、なおかつ大きく振り遅れてスイングを終えていた。

 さて、いよいよ最後の一球になるであろう三球目だ。なんだか僕はこのマウンドが名残惜しくなり、ロジンを手にする前にグラウンドを手のひらで撫でた。そのまま丁寧に滑り止めを施してから、手に取っていたロジンを足元へ戻す。

 最後もコースは同じところだ。チビベンがミットを構えてから頷いた。ボールをしっかりと握ってから思わずありがとうとつぶやいてしまい、ちょっと恥ずかしくなってしまったが、マウンド上なので誰にも聞こえはしなかったはず。

 握ったボールとグラブをおでこにかざしてから心の中でつぶやく。

『咲、この一球で決めるよ』

 すると咲の声が聞こえたような気がした。

『大丈夫、信じてるわ』

 最後のモーションに入った僕は、さっき投げた最高のボールを超える一球を投じ、狙い通りの三振を奪いゲームセットとなった。ナインがマウンドへ駆け寄ってくる。僕は完璧な投球を咲へ贈ることができたこと、チームのみんなと一丸になれたこと、そして、僕たちの野球で全国へ行けることが、もう最高に嬉しくて涙が出そうだった。

 ベンチへ戻って木戸とガッチリと抱き合い、次は大活躍の丸山だ。ムサ苦しい高校球児がお互いに涙ぐみながら抱き合って背中を叩きあっているのは、あまり人に見られたくない絵面だけど、今日だけは誰もが許してくれるに違いない。

 もちろんスタンドは大興奮の大歓声だ。なんといっても準決勝では去年の全国出場校の松白高校を破り、決勝ではやはり強豪の矢島学園を破ると言う、野球部関係者以外は考えたこともなかったに違いない結果なのだ。そんな僕たちを一生懸命に応援してくれたみんなへ向かって、全員でベンチを出てから頭を下げ、お礼のあいさつをしながら整列へ向かった。

 その時に少しだけ咲へ目をやると本当に嬉しそうに微笑みながら手を振ってくれた。それは当然マウンドから見るよりもずっと近くて、必要以上にドキドキしてしまう。

 一方、とぼとぼととベンチから出てきて整列した矢島学園の選手たちの半分くらいは泣いている。しかし山尻勝実は背筋を伸ばして涙をこらえている。こういうところはさすがだし見習いたいものだ。

「俺はこれで終わりだなあ。
 もう君と対戦することはないかもしれないけど楽しかったよ。
 それと格の違いを思い知らされたな」

「そんな…… 僕も楽しかったです。
 またどこかで勝負しましょう」

 整列の後、握手をしながら少しだけ言葉を交わし、お互いにベンチへ戻った。相手ベンチを見ると、山尻康子がベンチに座ったままで顔を膝につけるくらい屈みこんでいる。きっと大泣きしているのだろう。だが今回は僕たちの力が勝り勝利をつかんだ。。

 でも勝負は時の運と言うこともあるし、いつ僕たちがあの姿になるかはわからないのだ。これからも練習を繰り返し、県代表として恥ずかしくないプレイをしなければと、僕はいっそう気が引き締まる思いだった。
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