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騒々しいデビュー戦

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 まったくとんでもない大事件が起こってしまった。いや、起こしてしまったといった方が正しいのかもしれない。

◇◇◇

「なんであんないい方したんだよ。
 プロ選手に向かって失礼じゃないか」

「あら? じゃあキミは手を抜かれて嬉しいの?
 少なくとも私は嬉しくないしかっこいいとも思わないわ。
 打たれて当然、抑えたら奇跡、力量からしたらそれくらい差のある勝負でしょう?」

「そりゃそうさ、相手はプロの一軍現役選手なんだからね。
 でもその当たり前のところを花持たせてくれるからファンサービスなんだよ」

 これがもし甲子園優勝校との練習試合だというなら話は別だ。相手がどんな超高校級であろうと抑えてやるって気持ちで投げるに決まってる。でも今から迎えるバッターは長年野球で飯を食っている一流選手だのだ。

 しかし咲が言っていることも理解できないわけじゃない。どんな勝負でも手を抜かれることが嬉しいわけもなく、それは相手がプロ選手だとしても同じだ。

「咲は僕が宮崎選手と本気の対決をして抑えられると思う?」

「それはわからないわ。
 だって私野球の事ほとんど知らないもの」

 さっきは強く言いすぎたので、もしかして怒っているのかと思ったけど特にそんな様子はない。とりあえずは一安心だ。

「でもね、勝負は下駄がなんとかでなんとかなんでしょ?
 きっとキミにだって勝機はあるんじゃないかしら」

「下駄を履くまでわからない、ね。
 まあ可能性があるとしてもコンマ数パーセントだと思うよ。
 かと言ってさ、僕は投げる前から勝負をあきらめたりはしないさ」

「そうよ、キミならできるわ。
 プロの選手を手玉に取るところが見えるようだわ」

 まったく、知らないとは言え気楽に言ってくれる。とはいえ咲に期待されていること自体は嬉しくて仕方ない。宮崎選手もさっきの言葉を真に受けて真剣勝負してくれるならいい思い出になるだろう。

「おーい少年、キャッチボールやろうぜ。
 肩暖めた方がいいだろ?」

 そう言って向こうから捕手の大鳥居選手が声をかけてくれた。試合前だというのに正捕手が受けてくれるなんてこんな幸せな出来事があっていいのだろうか。僕は裏返った声で返事をしながら大鳥居選手と宮崎選手の元へ向かおうとした。

 その時ふいに咲が僕を引き留める。

「ねえ、本当に、本当に抑えて来てね。
 だからちょっとこっち向いてちょうだい」

 そう言って先ほどサインしてもらった帽子を片手に僕を引き寄せる。そして僕にも帽子を持つように促すとひそひそ話をするように二人の顔の前に影を作る。

 そして僕の唇へ自分の唇を重ねたのだ。

 少しでも動くと周りから見えてしまいそうだし、そもそもすでに見えているかもしれないが僕はどうしていいかわからずに固まったままでいた。

 ほんの数秒の後、咲はこういった。

「明日はお休みだから大丈夫よ。
 力を出し切ってきてね、愛しいキミ」

 俺を聞いて発奮しないやつがいたらそいつはきっとロボットか何かで感情を持たない人間だろう。それほど僕の心は高揚していた。こんなに大勢の人がいる前でキスをしたからと言うのももちろんだけど、咲が僕を信じて期待してくれるということが何よりうれしかったのだ。

 気分最高潮になった僕は咲とハイタッチをしてから、プロ選手を二人も待たせていることを申し訳なく思い小走りで駆け寄って行った。

「なんだカズ君、作戦会議か?
 君の彼女は随分と気が強いんだな」

「失礼なこと言ってしまって申し訳ありません。
 宮崎選手の事どころか野球自体全く知らないんです」

「ま、女の子なんてそんなもんさ。
 俺は気にしてないから君も気にするなよ」

「はい、ありがとうございます。
 でも勝負は真剣勝負でお願いします。
 打たれるならきっちり打たれてみたいんです」

 あれ? もしかして僕も咲の影響で変なこと言っちゃったかもしれない。その証拠に宮崎選手と大鳥居選手が顔を見合わせて言葉も出ないって雰囲気になってしまった。

 すると大鳥居選手が大きな声で笑い出した。

「こりゃ期待の新人だ。
 こいつの苦手なコースは熟知してるから、打ち取らせて彼女にいいとこ見せてやらないといかんな」

「まあお手柔らかに頼むぜ、少年」

 そう言って宮崎選手はいったんベンチへ引き上げていった。大鳥居選手は僕をマウンドへ向かうよう促しながら声をかけてくる。

「球種はなにがあんだ?
 あいつは緩急の差が結構苦手だぞ」

「一応真っ直ぐにカーブ二種類とスライダー、左バッターにはシュートを投げることもあります」

「技巧派ってとこなのかな。
 まあちょっとキャッチボールしてみようや」

「はい!」

 僕はマウンド下まで走っていきキャッチャー側へ振り向いた。そしてミットを持って立っている大鳥居選手へ向かって真っすぐを何球か投げる。次にカーブを投げるような手振りにしたがってカーブを何球か投げた。

「カーブ二種類って言ってたなあ。
 もう一つも投げてみてくれよ」

 僕は頷いて江夏さん直伝の大きく割れるカーブを投げこむ。その際、大鳥居選手は一瞬だけミットを上げるような反応をした後に胸の前でキャッチしてくれた。

「お、これは随分縦に曲がるいいカーブだな。
 でもこれは右バッター向けかもしれん。
 よし、座るからマウンドから投げてみ」

「はい、ありがとうございます!」

 グローブとボールを手にしてからは僕の緊張も大分ほぐれていて、大勢の観客がいることなんて気にならなくなっていた。

 ピッチを上げてまた数球、ストレートのみを投げ込んだ僕はもう十分肩が温まったことを伝え、マウンド上で屈伸をしながら宮崎選手を待つ。その間に大鳥居選手がマウンドまで来てくれてサインの打ち合わせをした。

 ライン際に置かれた防球ネットの向こうには咲の姿も見える。もし将来こうやって大きな球場で投げるようになったなら、その時には観客席のどこかで咲に見ていてもらいたい。そんなことを考えているうちにバットとヘルメットを手に持った宮崎選手がバッターボックスへ近づいてきた。

「よろしくお願いします!」

 僕は帽子を取ってから深々と挨拶をした。

「こちらもよろしく頼むよ。
 本気で打つからそのつもりで頼むぜ」

 改めてそう言われると緊張してくるとともに気持ちが高揚してくる。マウンド上ではいつも孤独、だがそれがいい。僕は大きく深呼吸をしてグラブの中のボールをしっかりと握った。

 指先にかかる縫い目が一つ一つはっきりとわかる。今日の調子は抜群だ。しかもついさっき咲に力を貰ったんだ。一回くらいは空振りさせて見せる。

 そんな思いを乗せて第一球、僕は大きく振りかぶった。ストレートのサインにしたがって内角低めの膝元へ渾身のストレートを投げた。

 緊張のせいか少しだけ低くなりすぎたボールはストライクゾーンから外れてしまった。宮崎選手はピクリともせずに見送ったが、初めから初球は見逃す気だったのだろう。しかし球は走っていて僕にとっては満足のいく初球だ。

 次はインサイドやや高めのストレート、もちろん全力投球だ。ボールはほんの少しだけ爪にかかりながら指先に縫い目の感触を残しミットへ向かっていった。

 ビシっと鈍い音がしてボールはバッターボックスの後ろへ転がって行った。インコースギリギリのストライクゾーンへ向かった球を宮崎選手がバットの根っこで捉えファールになったのだ。

 するとベンチから何人かの選手が乗り出してきた。その中にはレギュラー陣に加えてコーチが混じっているようだ。そして一人の選手がベンチから出てサードベースの前に立った。手にはグローブをはめている。

 それはサードのレギュラーである墨谷選手だった。そしてベンチに何か声をかけたあと、数人のスタッフが防球ネットを何枚かサードの後ろへ並べ始めた。

 サード後ろのファールゾーンと外野では小さい子供たちが他の選手達と的当てゲームをしているのだ。万一向こうへ打球が飛んで行ったら大変なことになるかもしれない、そんな配慮だろう。

 しばしの中断があったが準備ができたので勝負に戻る。大鳥居選手のサインを確認すると、宮崎選手と何か話しているようだった。

 次のサインは大きい方のカーブだった。さっき自分で右バッター向けって言ってたはずなのに、と思いながら僕は思わずプロのキャッチャー相手に首を振ってしまった。

 しかし大鳥居選手はもう一度同じサインを出す。仕方ないので僕は頷き、しっかりとボールを握る。コースの要求は内角低めだ。と言うことは左バッターの視界に入ったまま迎え打たれるということになるのだが、本当に大丈夫なのだろうか。

 まさかわざわざ打たれるように仕向けることはしないだろうが、正直僕には自信がない。しかしこれは真剣勝負なのだ。キャッチャーを信じて全力で投げるしかない。

 僕は深呼吸をしてから再び振りかぶり大きく手を振って渾身のカーブを投げた。コース、曲りとも申し分なく最高のボールを投げられたと感じたが、その直後聞こえたのはボールがミットへ吸い込まれる音ではなくバットで捉えられた音だった。

 しかし大鳥居選手が言っていたように緩急の変化が苦手なのか、ボールはほぼ真後ろに飛んで、キャッチャーマスクに跳ね返ってマウンドとの中間点くらいまで転がってきた。

「ちくしょー、いいドロップだったな。
 打ち頃かと思ったんだけどタイミングがあわなかったぜ」

 宮崎選手がそう言ってる間にボールボーイが走ってきて転がったボールを回収してくれた。大鳥居選手から新しいボールが飛んできて、それをキャッチした僕はまたサインを確認する。

 次は外角低めの真っ直ぐか。これで空振りが取れれば僕の勝ち、そう思うと手汗が滲み出て来てしまう。僕はいったんグラブを取ってからジーパンで手を拭いた。それからグラブをはめなおして足元のロージンを軽くたたいた。

 僕の投げる球はまだミットへ収まっていない。正確には初球は見送りだったけどストライクゾーンに入っていないボールでは何の意味もないのだ。

 段々とムキになってきた僕は渾身の力を込めてストレートを投げ込んだ。しかし感情が影響してしまったのか、コースがやや甘くなってしまった。

 うわずってしまった真っ直ぐはアウトサイドの打ち頃なところへ進んでいく。これは完全にやられたかもしれないと、まるでスローモーションの世界にいるような感覚で行方を確認する。

 しかし幸運にも宮崎選手は振り遅れてくれたようで、打球音は良かったがボールは三塁側ベンチ前の防球ネットへ突き刺さっていた。思わず天を仰いだ僕のところへ大鳥居選手が走り寄ってくる。まるで本当の試合に出ているような気分でとても気持ちがいい。

「今のは危なかったがその前のドロップが効いてたな。
 少年、ここまで来たら勝たせてやりたいが、もう一回カーブは多分無理だ。
 あいつかなり本気になってっからよ」

「そうですか、それは嬉しいですね。
 生意気かもしれませんが、僕もできたら打ち取りたいとは思ってます。
 それで…… 投げたいボールがあるんですけどいいですか?」

「真っ直ぐじゃなくてか?
 正直、君の真っ直ぐはかなり早いぜ。
 百五十近いんじゃないか?」

「測ったことはありませんけど、いくらなんでもそんな早くはないと思います。
 でも投げたいのは真っ直ぐじゃなくて外へのカットボールなんです」

「サードゴロで打ち取ろうってか?
 おいおい、随分消極的じゃねえか」

「まだコントロールが狂いやすくて完全にはものになってないんですけど、今のところこの球に一番自信があるんです」

「そうか、それなら試してみようぜ。
 俺も見てみたいしな」

「コースはアウトサイドやや高めでお願いします」

 大鳥居選手は笑顔でオッケーサインを出してから戻って行った。今僕はプロのキャッチャーと、バッターを打ち取るためにマウンド上で話していた。これって実はとんでもなく凄いことなんじゃなかろうか。

 マウンドの上に立ちプレートを踏む前に、思わず咲の方へ振り向いてしまった。すると今までにないくらいに優しい笑顔で僕を見ていてくれたのだ。

 僕は咲に向かって頷くとなんだかさらに力が湧き出てくるような感覚を覚えた。視線をキャッチャーに戻しプレートに足をかける。グラブの中のボールを握り縫い目の一つ一つへよろしくと気持ちを込めるた。

 左足を後ろへ引きながら腕を大きく振りかぶり投球モーションに入る。軸足でプレートを蹴り、踏み込んだ左足はスニーカーだったけどしっかりと地面に喰いついていた。

 渾身の力を乗せてボールに回転をかける。指先の感触も腕の振り抜きも完璧だ。今までで最高の一球を投げられたという自信がある。これが打たれるなら僕はしょせん普通の高校生に過ぎない。

 腕を振り切ったか否かのその直後、スパーン! とミットがボールを迎え入れてくれた音が聞こえた。宮崎選手のバットはきれいに振り切られてヘルメットが足元へ転がっている。観客席からの大きなどよめきと疎らな拍手が聞こえ気持ちがさらに高ぶってきた。

 僕は思わずガッツポーズをとってからマウンドを駆け下りて宮崎選手と大鳥居選手へお礼を言った。両軍ベンチからは拍手まで貰ってしまって照れくさいやら恥ずかしいやらどうしたらいいかわからない。

「おい少年、いや、カズ選手よ。
 すげえボールだったよ」

「カズ君よ、あれカットボールじゃないだろ?
 おかしな変化してて、思わず捕り損ねるかと思ったよ」

「いやあれは真っ直ぐだろ?
 めちゃくちゃ早かったじゃねえか」

「その前の真っ直ぐの方が早いくらいで、スピードはそれほどじゃなかったと思うがなあ。
 だってお前、全然早いタイミングで振ってたしな」

「まじか!?
 ボールの下空振っちゃったから速い球だと思うんだけどなあ」

 僕は首を傾げながら話をしている二人のやり取りを聞きながら大満足の笑みを浮かべていた。向こうでは咲も喜んでくれているのが見え、一番気にしていた、咲の期待に応えるという目的が達せられたことが何よりも一番うれしかった。
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