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僕は家路を急ぎ、かなり速いペースで走っていた。
防災公園では思わぬことで時間を食ってしまったので、早く帰らないと父さんの出発時間に間に合わなくなってしまう。誰かが出かけるときには見送らないとなんとなく気分が悪い。
家の前の道でいつもなら全力疾走するのだが、今日は競争相手がいないので同じペースで走っていく。とはいってもいつもよりはハイペースだ。
咲の家の前まで来たところで僕は視線を二階の窓に移した。しかしそこには閉じたカーテンが見えるのみで、残念ながら咲の姿はない。
僕はがっかりしながらも走る速度は落とさずに家まで戻ってきた。家の前で体をほぐしてから中へ入る。
「ただいま、江夏さんはまだ来てないんだね」
「おうおかえり、今タクシー呼んだとこらしいからもうすぐ来るんじゃねえかな」
「あいつのかみさんがすげえ喜んでるらしいよ、最近旅行なんて行ってなかったらってさ」
「それはうちも同じじゃない? 父さんも母さんもしょっちゅう出掛けてるけど、夫婦そろってってのは全然ないでしょ」
「母さんはなんか言ってなかったの?」
「そういや言うの忘れてたわ、お前の彼女のことで頭いっぱいだったからな」
「だから彼女じゃないって言っただろ! 母さんがいないからって遅くまで飲んでること絶対に言いつけてやるから」
「またそうやって俺を脅すのか? じゃあ取引と行こうぜ」
「週末遊びに行けるように小遣いやるからよ、母さんには黙っとけ」
「別に買収されなくても、父さんさえへんなこと言わなきゃ僕だって黙ってるさ」
「母さんが怒ってるときって夕飯がしょぼくなるから嫌なんだよね」
「確かにそれはあるな、まあ小遣いはやるからどっか遊びに行って来いよ」
「どうせ練習も休みなんだろ、それとも練習試合近いから土曜も練習やるのか?」
「いや、真弓先生が休日出勤したくないって言ってるからやらないはずだよ」
「そんなに男女がくっついた話が好きなら真弓先生に誰か紹介してあげたらいいのに」
「真弓ちゃんは彼氏いるだろ、どう見ても男がほっとくようなタマじゃないさ」
「スタイルは抜群、頭もいいし性格もさばさばしてていい女だよな」
「まったく…… 人の担任をそんな目で見ないでくれよ、イヤラシイなあ」
「男なんてそんなもんさ、お前が変わってるんだよ、俺の息子のくせにな」
「同じ環境で育ったのに勝はそんなことなかったけどなんでだろうな」
「真面目で文句言われるのは納得できないよ」
「おかしいのは絶対に父さんたちだからね」
確かに兄さんは父さんに似ているところがあって、昔から女子の扱いには慣れていた。僕とは違って学業優秀だったので、進んだ高校は国立大学への進学率が高い県立富良長高校だ。
高校では中学に続いて陸上部へ所属して中距離を走っていたが、スポーツ弱小校の富良長が創立初の県大会出場を果たす活躍をして学校を上げての大騒ぎになったと聞いている。
当然女子にも大人気で、バレンタインデーには鞄いっぱいのチョコを持って帰ってきたこともあった。
さすがに大学ではトップクラスにはなれずに箱根駅伝は憧れのままで終わったが、その大学時代に知り合った久美さんと卒業してすぐに結婚したのだった。
久美さんは中学生の頃に母さんがコーチをしていたジュニアの自由形選手の一人だったが、オリンピック選考会で中学時代と大学時代の二度敗れ引退し、現在は専業主婦をしている。
そんなことを思い返していると、プロには届かなかった父さんと江夏さん、箱根に出ることが叶わなかった兄さん、それにオリンピックに出られなかった母さんと義姉さんの想いを、僕は知らない間に背負っているのかもしれないと感じた。
そしてその無念を晴らせるのは僕しかいない。別に誰かにそう言われたわけじゃないけど、年齢的に今可能性があるのは僕だけだ。
咲に言われた、夢を目標に変える、それはとてもいい言葉に思えてきた。
自分のためにも咲のためにも、そして家族のためにも、もう夢を見るのではなくきっちりと目標として捉える時が来たのかもしれない。
「ようカズ、ぼうっとしてどうした? いらねえのか?」
父さんが差し出した手には二万円が挟まれていた。これはかつてない金額の口止め料だ。
「ちょっと多いんじゃないの? 半分でいいよ」
「いいから取っておけよ、本当はお前も連れてってやりたかったが、子供が一人だけじゃつまらねえだろうからな」
「たまには羽伸ばして遊んで来いよ、あの女の子でもいいし野球部のやつらとでもいいしさ」
「う、うん、じゃあ遠慮なく受け取っておくよ」
「でも口止め料なんかじゃないからね、少しは自重してよ」
「わかってるよ、どうせ香が帰ってきたらそうそう飲み歩けないしな」
「それよりお前が休みの日も家事とかやってて遊びに行かない方が心配だわ」
「練習以外にしたいことはそれほどないからね」
「別に嫌々やってるわけじゃないから気にしないでいいのに」
「それが変わってるって言ってんの」
「反抗期もなく素直でいい子過ぎて逆に心配になるわ」
父さんは相変わらずよくわからないことを言い出す。休みの日にのんびり野球雑誌を読んだり掃除や洗濯をすることのどこが悪いのか。
でもせっかくだし咲を誘ってどこかへ出かけようかなんて考えていると玄関が開く音がした。
「吉田、待たせたな」
チャイムを鳴らさずにいきなり入ってくるのは江夏さんしかいない。毎度の事なんですっかり慣れっこだ。
「江夏さん、おはようございます」
僕は慌ててコーヒーを飲み干している父さんの代わりに玄関へ出て挨拶をした。そのままサンダルを履いて表で待っているタクシーへ荷物を積み込む。
「江夏さんの奥さん、おはようございます」
「父が面倒掛けるかもしれませんがよろしくお願いします」
「カズ君おはよう、うちのも似たようなものだから大丈夫よ」
「でも一緒に連れて行けなくてごめんなさい、代わりと言ってはなんだけどこれ使ってね」
そう言って江夏さんの奥さんはチケットを二枚差し出した。目に入ったのはプロ野球公式戦のチケットだった。
「えっ貰っちゃっていいんですか? しかも県営球場でのチーターズ対ブレイカーズじゃないですか!」
「いいのよ、土曜日のデイゲームなんだけど行けなくなってしまったでしょ」
「カズ君が他に予定入っていたら他の子にあげてもいいわよ」
「いえいえ、行きます! チーターズの試合なら他の予定なんて後回しにしますよ」
チーターズは僕が小学校へあがる前に初めて連れて行ってもらった試合で、それからずっと応援しているチームなのだ。
僕らの地元にはプロ野球チームがないので、遠くまで出かけていかなければ年に数度しか試合を見る機会がない。そんなプラチナチケットを貰えるなんて嬉しくてたまらない。
舞い上がってる僕の後ろから、父さんと江夏さんがようやくタクシーへ向かって歩いてきた。
「江夏さん、チケット! ありがとうございます!」
「おう、そのままだと無駄になっちまうからな、誰かと見に行ってくれよ」
「噂の彼女でもいいしよ」
「だからそれは誤解ですって、彼女じゃないんですってば」
「あはは、そんなのいつどうなるかわからんさ、まあ仲いい子と行けばいいさ」
「バッテリーの相棒もいるだろ」
「あいつは土曜日は店の手伝いがあって出かけられないので、他の誰かを誘ってみます」
「野球見に行くのは久しぶりなんで楽しみです!」
僕は興奮しながらお礼を言った。そして頭の中では咲を誘うことを決めていた。
防災公園では思わぬことで時間を食ってしまったので、早く帰らないと父さんの出発時間に間に合わなくなってしまう。誰かが出かけるときには見送らないとなんとなく気分が悪い。
家の前の道でいつもなら全力疾走するのだが、今日は競争相手がいないので同じペースで走っていく。とはいってもいつもよりはハイペースだ。
咲の家の前まで来たところで僕は視線を二階の窓に移した。しかしそこには閉じたカーテンが見えるのみで、残念ながら咲の姿はない。
僕はがっかりしながらも走る速度は落とさずに家まで戻ってきた。家の前で体をほぐしてから中へ入る。
「ただいま、江夏さんはまだ来てないんだね」
「おうおかえり、今タクシー呼んだとこらしいからもうすぐ来るんじゃねえかな」
「あいつのかみさんがすげえ喜んでるらしいよ、最近旅行なんて行ってなかったらってさ」
「それはうちも同じじゃない? 父さんも母さんもしょっちゅう出掛けてるけど、夫婦そろってってのは全然ないでしょ」
「母さんはなんか言ってなかったの?」
「そういや言うの忘れてたわ、お前の彼女のことで頭いっぱいだったからな」
「だから彼女じゃないって言っただろ! 母さんがいないからって遅くまで飲んでること絶対に言いつけてやるから」
「またそうやって俺を脅すのか? じゃあ取引と行こうぜ」
「週末遊びに行けるように小遣いやるからよ、母さんには黙っとけ」
「別に買収されなくても、父さんさえへんなこと言わなきゃ僕だって黙ってるさ」
「母さんが怒ってるときって夕飯がしょぼくなるから嫌なんだよね」
「確かにそれはあるな、まあ小遣いはやるからどっか遊びに行って来いよ」
「どうせ練習も休みなんだろ、それとも練習試合近いから土曜も練習やるのか?」
「いや、真弓先生が休日出勤したくないって言ってるからやらないはずだよ」
「そんなに男女がくっついた話が好きなら真弓先生に誰か紹介してあげたらいいのに」
「真弓ちゃんは彼氏いるだろ、どう見ても男がほっとくようなタマじゃないさ」
「スタイルは抜群、頭もいいし性格もさばさばしてていい女だよな」
「まったく…… 人の担任をそんな目で見ないでくれよ、イヤラシイなあ」
「男なんてそんなもんさ、お前が変わってるんだよ、俺の息子のくせにな」
「同じ環境で育ったのに勝はそんなことなかったけどなんでだろうな」
「真面目で文句言われるのは納得できないよ」
「おかしいのは絶対に父さんたちだからね」
確かに兄さんは父さんに似ているところがあって、昔から女子の扱いには慣れていた。僕とは違って学業優秀だったので、進んだ高校は国立大学への進学率が高い県立富良長高校だ。
高校では中学に続いて陸上部へ所属して中距離を走っていたが、スポーツ弱小校の富良長が創立初の県大会出場を果たす活躍をして学校を上げての大騒ぎになったと聞いている。
当然女子にも大人気で、バレンタインデーには鞄いっぱいのチョコを持って帰ってきたこともあった。
さすがに大学ではトップクラスにはなれずに箱根駅伝は憧れのままで終わったが、その大学時代に知り合った久美さんと卒業してすぐに結婚したのだった。
久美さんは中学生の頃に母さんがコーチをしていたジュニアの自由形選手の一人だったが、オリンピック選考会で中学時代と大学時代の二度敗れ引退し、現在は専業主婦をしている。
そんなことを思い返していると、プロには届かなかった父さんと江夏さん、箱根に出ることが叶わなかった兄さん、それにオリンピックに出られなかった母さんと義姉さんの想いを、僕は知らない間に背負っているのかもしれないと感じた。
そしてその無念を晴らせるのは僕しかいない。別に誰かにそう言われたわけじゃないけど、年齢的に今可能性があるのは僕だけだ。
咲に言われた、夢を目標に変える、それはとてもいい言葉に思えてきた。
自分のためにも咲のためにも、そして家族のためにも、もう夢を見るのではなくきっちりと目標として捉える時が来たのかもしれない。
「ようカズ、ぼうっとしてどうした? いらねえのか?」
父さんが差し出した手には二万円が挟まれていた。これはかつてない金額の口止め料だ。
「ちょっと多いんじゃないの? 半分でいいよ」
「いいから取っておけよ、本当はお前も連れてってやりたかったが、子供が一人だけじゃつまらねえだろうからな」
「たまには羽伸ばして遊んで来いよ、あの女の子でもいいし野球部のやつらとでもいいしさ」
「う、うん、じゃあ遠慮なく受け取っておくよ」
「でも口止め料なんかじゃないからね、少しは自重してよ」
「わかってるよ、どうせ香が帰ってきたらそうそう飲み歩けないしな」
「それよりお前が休みの日も家事とかやってて遊びに行かない方が心配だわ」
「練習以外にしたいことはそれほどないからね」
「別に嫌々やってるわけじゃないから気にしないでいいのに」
「それが変わってるって言ってんの」
「反抗期もなく素直でいい子過ぎて逆に心配になるわ」
父さんは相変わらずよくわからないことを言い出す。休みの日にのんびり野球雑誌を読んだり掃除や洗濯をすることのどこが悪いのか。
でもせっかくだし咲を誘ってどこかへ出かけようかなんて考えていると玄関が開く音がした。
「吉田、待たせたな」
チャイムを鳴らさずにいきなり入ってくるのは江夏さんしかいない。毎度の事なんですっかり慣れっこだ。
「江夏さん、おはようございます」
僕は慌ててコーヒーを飲み干している父さんの代わりに玄関へ出て挨拶をした。そのままサンダルを履いて表で待っているタクシーへ荷物を積み込む。
「江夏さんの奥さん、おはようございます」
「父が面倒掛けるかもしれませんがよろしくお願いします」
「カズ君おはよう、うちのも似たようなものだから大丈夫よ」
「でも一緒に連れて行けなくてごめんなさい、代わりと言ってはなんだけどこれ使ってね」
そう言って江夏さんの奥さんはチケットを二枚差し出した。目に入ったのはプロ野球公式戦のチケットだった。
「えっ貰っちゃっていいんですか? しかも県営球場でのチーターズ対ブレイカーズじゃないですか!」
「いいのよ、土曜日のデイゲームなんだけど行けなくなってしまったでしょ」
「カズ君が他に予定入っていたら他の子にあげてもいいわよ」
「いえいえ、行きます! チーターズの試合なら他の予定なんて後回しにしますよ」
チーターズは僕が小学校へあがる前に初めて連れて行ってもらった試合で、それからずっと応援しているチームなのだ。
僕らの地元にはプロ野球チームがないので、遠くまで出かけていかなければ年に数度しか試合を見る機会がない。そんなプラチナチケットを貰えるなんて嬉しくてたまらない。
舞い上がってる僕の後ろから、父さんと江夏さんがようやくタクシーへ向かって歩いてきた。
「江夏さん、チケット! ありがとうございます!」
「おう、そのままだと無駄になっちまうからな、誰かと見に行ってくれよ」
「噂の彼女でもいいしよ」
「だからそれは誤解ですって、彼女じゃないんですってば」
「あはは、そんなのいつどうなるかわからんさ、まあ仲いい子と行けばいいさ」
「バッテリーの相棒もいるだろ」
「あいつは土曜日は店の手伝いがあって出かけられないので、他の誰かを誘ってみます」
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