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すぐ目の前の誘惑

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 その小学校低学年の取ったノートのようにひらがなばかりの文章を読み訂正をしていく。簡単な漢字は使っているが、九割がたがひらがなである。

 しかしそれと並んで書かれた英文、いやドイツ語と言っていたので独文か、は僕には全く読めないし、きれいに整列した丁寧な文字だった。

「そういえば教科書は読めてるの?」

 僕がそう聞くと咲が答える。

「一応半分くらいは自分で訳してあるわ、毎日少しずつ進めているのよ」
「でも意味が分からない言葉もあるからそこは調べるのに手間がかかるわね」

 そう言って広げて見せてくれた教科書にはびっしりとドイツ語が書き込んであった。それを見ると、毎日積み重ねていくことの重要性がわかるような気がする。咲は決して天才なのではなく日々努力しているのだろう。

「すごいね…… 勉強できる人って言うのはもともと頭がいいのかと思ってたよ」
「でも野球と同じように日々積み重ねているからこその結果なんだろうね」

「そうね、何もせずに楽をして結果だけ得られるのなら人は堕落してしまうわ」
「今後君はそれを知ることになる、そこで堕落するかどうかは自分次第よ」

 咲はやや抽象的な物言いをしたが僕にはよく理解できた。もちろん練習はきっちりやっているが、思った以上の結果がついてきた時に、そのすべてが自分の才能によるものだと驕るようでは堕落に向かっていくと言うことに違いない。

「堕落か…… 自分を見失わないようにしないといけないね」
「そのためにも練習はきちんとこなしていくつもりさ」

「そうね、でも野球の事だけじゃないわ、他にもキミには様々なことが起こるはずよ」
「起こった出来事を幸運と思うか不幸と思うか、受け入れるのか抗うのか、その度に選択を迫られるでしょうね」

「なんだか難しそうだね、それはきっと咲との約束に関係あることを言っているんだろうけど、僕は咲のことも自分のことも裏切らないことを心がけるさ」

「あまり考えすぎないことね」
「どちらにせよキミの選択に誤りはなく、全てが自分のための選択になるのよ」

「僕が咲のことを信じているように、咲にも僕を信じてもらいたいんだ」
「ずっと…… ずっと一緒にいたいからさ」

「うふふ、期待しているわ」
「でも一つだけ勘違いしていることがあるわよ」

「え、そうかな? どんなこと?」

「私はすでにキミのことを信じているし信頼しているということよ」

 そう言っていたずらっ子のように笑った咲は僕に顔を寄せてキスをした。ほんの少しの接触の後顔を離した咲は僕の顔を見て笑う。

「どうしたの? そんなに情けない顔をして」
「物足りなくておかわりをせがむ子供みたいよ」

「子供か…… そうかもしれないな、僕の頭はおかしくなってしまったのかもしれないよ」
「いつもいつも咲のことばかり考えているし、それに…… 抱きしめたくて仕方ないんだ」

「キミの想いはわかっているし十分伝わってきているわ」
「だけど焦らないでね、未熟なうちに本契約の契りを交わすことはとても危険ですべてを失う恐れがあるのだから」

 本契約の契り、それがどんなことなのか、咲は具体的に教えてくれるわけではなかったが、僕にはおおよその見当がついた。今はまだ未熟だから焦らないようにと言うのも理解できる。

 それでも僕は咲を求めてしまうのだ。そしてそれを我慢するための行為は、頭の中で咲を凌辱しているのではないかという気持ちになり、行為後には激しい罪悪感が僕に襲いかかる。

「もし我慢できないなら、私はすぐにでもキミを受け入れることができるわ」
「その結果どうなるかわからないけどね」

 僕は言葉を返すことができずにいる。今すぐにでも受け入れるって…… そんなこと…… そんなのはダメだ、僕達はまだ高校生なんだし自分の事すら自分一人で面倒見ることができない未熟な人間なんだ。

 それでも目の前の咲にすべてを投げ出して受け入れてほしい、咲のことも受け入れたいと思っている自分がいることも確かだ。それは大きく矛盾しているかもしれないが、正直な気持ちでもあった。

「あのさ、咲…… 僕はまだ一人の人間として、男として未熟だよ」
「でもこの先の人生すべての時間をキミとともに生きたいと思っているんだ」

 咲は優しい笑みを浮かべ僕の話を聞いてくれている。

「だから今すぐにでもその…… ち、契りを交わすことができるということには心を揺さぶられる」
「でもダメだよ、これは覚悟の問題じゃなくて責任の問題なんだ、咲のことを僕の本能の道具にするような真似はしたくないんだ」
「でも…… でも…… 頭ではわかってるんだけど……」

 僕が言えたのはそこまでだった。感情が揺らぎ涙が出そうになってくる。僕はどうしていいかわからずに咲を見つめていた。

「ねえキミ、こちらへいらっしゃい」

 咲がそう言って立ち上がり両手を広げた。僕は吸い込まれるようにその両手の間に自分の体を預ける。

 椅子から立ち上がった二人が抱きしめあい、体を寄せ合った後ゆっくりと座る。咲はそのまま僕の背中を床へ押し付けるように押し倒してきた。

「いいこと? このまま欲望に任せれば明日の調子は多分最悪なものになるわ」
「本当は週末まで我慢した方がいいと思ったのだけど、キミが望むならキミの全てを今この場で吸い取ってあげるけどどうする?」

 咲の言っている意味は分かるようなわからないような言葉だった。僕はゆっくりと頷きかけてからハッと我に返り首を横に振った。

「いや、ダメだ、僕は僕のために、そして咲のためにも自分をきちんとコントロールしなきゃならない」
「だから今日は我慢するよ……」

「うふふ、いい子だわ、愛しいキミ」

 そう言って咲は軽く唇を合わせてきた。僕は目を閉じて咲の柔らかな感触を受け入れ、されるがまま床に転がっていた。

 咲に圧し掛かられだらしなく床へ寝転んでいる僕は、その体の重みを受け止めているはずだったが、どちらかと言えば何かに包まれているような安心感を覚えていた。

 僕の胸板に押し付けられた二つの柔らかなふくらみは僕の体の固さとは正反対だ。その柔らかさと温かさを感じながら、僕はまるで海へ浮かんでいるような心地良さを感じていた。

 テーブルには広げられたままの教科書とノートが主を失ったまま放置されている。それはまるで混乱した僕の頭の中のような乱雑さだった。
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