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第九章 浮遊霊たちは袂を別つ

106.深淵

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 絶望とはなんだろう。読んで字のごとく望みが絶たれたことを表すのだろうが、反対の意味となる希望や有望が未来を指し示すのに対し、絶望は結果として現れたものと言う違いがあるかもしれない。

 紀夫にとって母がすべてだとかマザコンだとか、そういうつもりはなかったが、結果として義理の母であったこと、産みの母は紀夫と交代するように亡くなっていたこと、それを今まで知らなかったことは衝撃を通り越して絶望だと感じていた。さらには紀夫自身も命を落としている。

 もう何の望みもなく、生きているときならそれこそ自殺を考えてもおかしくなかった。しかし幽霊は自殺することなんてできない。もし伝聞が本当ならば、この世への未練が無くなるか、定められた場所から長期間離れるかのどちらかで消滅することができるだろう。

 紀夫は次の電車がやってくるというアナウンスが聞こえると立ち上がった。そしてもうどうにでもなれという気分で、ホームへ入って来た車両先頭へ向かって飛び込んだ。その結果、ホームの端から端まで引きずられた後、電車が止まった勢いで線路上を転がって行った。もちろん体には傷一つなく塵一つついていない。

 もうこのまま寝転がって漂って、消えてしまうまで待っていよう。そんな落ち込んで静かな気持ちとは裏腹に電車は発車し、紀夫は再び跳ね飛ばされた。何度か跳ね飛ばされているうちに隣の駅近くまで来てしまった紀夫は、そろそろはねられるのにも飽きてきた。そしてゆっくりと起き上がり駅のホームを目指し線路の上を歩きはじめる。

 当然次の電車がやってきてまたはねられたのだが、今度はそのままホームまで連れて行ってもらえるよう先頭車両の窓ガラスへ飛びついていた。もし運転手が幽霊を見ることができたなら相当驚いただろうに、なんの面白みもなく残念だと紀夫は感じていた。

 さっきまでいた駅の隣の駅は乗り換え路線もある大きな駅だ。それだけに利用客が多く居場所の確保も大変だ。紀夫はとりあえず先頭車両のもっと先、ホームの先端近くで人の流れを眺めていた。

 夜が更け乗客も、そして電車も来なくなり駅員もいなくなった深夜、それでも紀夫は動き出すことができなかった。これからどうしようかと考えているような、それとも全く考えていないような、どちらとも言えない気持ちのままでホームにただ座り続けていた。

 夜が明けて始発が走り始めるとまばらながら乗客がやってくる。段々と増えていく人の波は、真っ白でまともな人間には見えない。押しくらまんじゅうのように、他人のことなんて何も考えていない様子で次々に車両へ飲まれている真っ白な人たちは何のために生きているのだろう。

 すでに命を持たない紀夫にはわからないことであるし、逆に生きている人間からすると余計なお世話と言ったところか。

 そんな人の波を眺めているうちに通勤通学ラッシュが本格化してきた。自転車通学だった紀夫には全く未知の世界である。先ほどまででも十分に混雑していたのにさらに混んできており、ホームへ出る階段のところまで人があふれて真っ白になっている。

 その中にひときわ目立つ黒い影があった。正しくは影ではなく真っ黒い人間だった。そう言えばあの子の名はなんと言っただろう。紀夫が自身をバカにされているような雰囲気を感じて苦手だった女子生徒。

 あの女子生徒はきちんと色がついていて他の真っ白な人間たちとは違っていた。ではこの真黒な人間、スカートをはいているので女性のようだし、手に持っている鞄は学生カバンのように見える。

 力なくふらふらとしながらその黒い影はこちらへ近寄ってくる。いや厳密には紀夫へ向かってきているのではなく、人の波から押し出され車両の止まらない位置まで出て来てしまったのだ。

 頭のてっぺんから足の先まで、手に持っているものまですべて真っ黒なその人物像は、今到着したばかりの、おそらく乗らなければいけない電車が大量の白い人型を飲み込む様子を見ているだけだった。

 とは言っても顔の表面も真っ黒なので表情や視線はわからない。紀夫の存在にも気が付かないようなので、あの色のついた女子生徒とも違う存在のようだ。もしかしたら「こっち側」の存在なのかもしれないと考えるも、それならば紀夫に気がついてもいいだろう。

 大量の人型を飲み込んだ電車は、ホームに流れるアナウンスの後発車してしまった。一瞬空いたように見えたホームには、まるで次の餌をまいたようにまた白い波で埋まっていく。

 次の電車がやってきてホームの波を吸い込んでいくが、それでも紀夫から一番近い位置に立っている黒い人型は壁に張り付いて動かなかった。いったいあれはなんだろうと考えているうちに次の電車がまたやってくる。都会の電車は田舎と違って間隔が随分と短いのだ。

 黒い人型がホームの中途半端な位置に立ち始めてから四本目の電車がホームに入ってくるとのアナウンスが流れたその時、黒い人型がもたれていた背中を浮かせたのが見えた。そしてそのまま早足で白い波の先頭のその先へ進んでいく。つまりはホームの向こうと言うことになる。

「まって! そんなことしたらダメだよ!」

 紀夫が大声を出しながら駆け寄ると、その黒い人型は足を止めて振り返った。その声の方向にはもちろん誰もいない。もし見えているなら紀夫はいるのだが、それならばもっと早く気が付いていただろう。

 しかし理由はわからないが声は届いたようだった。紀夫はもう一度叫ぶ。

「飛び込んだらダメだよ! 死んでしまったらもう終わりなんだ!」

 その黒い人型がきょろきょろと辺りを見回すが、その他の白い人型の波は誰一人として振り向いたりはしていない。やはり紀夫の声が全員に届いているわけではないようだ。

 すぐ隣まで駆け寄った紀夫が、その真っ黒い腕を掴んで線路から遠のくように引っ張ると、黒い人影は引いた方向へ後ずさりし、数歩進んだ後に尻餅をついた。

 駅員がその方向を一瞥したようにも見えたが近寄ってくる素振りもなく、この黒い人のような何かは本当に生きている人間なのか、真っ白で何のためにここに集まっているのかわからない人型達と同じ存在なのかわからなくなってくる。

 尻餅をついたままの黒い姿は、その場所へ黒いスカートを広げて動かないままだ。傍らには白くなった学生カバンが落ちているのが見えて、この目の前の黒いものがどうやら女子生徒なのだろうと類推させる。

 それよりも驚くべきことは、幽霊である紀夫が人の腕をつかむことができたこと、そして声が届いたことだった。そしてその答えが今明らかになろうとしている。

 たった今紀夫が掴んだ腕の一部分からは黒い影が引き、紺色の制服が見え始めていた。紀夫はその陰に包まれている女子生徒の前に膝をついて声をかけた。

「急に引っ張ってごめんよ。でも電車へ飛び込もうとしているように見えたんだ。もしかして僕の事が見えているかい?」

 目の前の黒い顔はどんな表情でどこを見ているのかわからないが、紀夫の声に反応するように二三度辺りを見回した。どうやら姿は見えていないらしい。

 しかし声が届いているのは間違いなく、その証拠に目の前の女子生徒は紀夫へ向かって言葉を発した。

「私、今死のうとしていたわ。今声をかけてくれたのは助けてくれた方?お礼を言いたいけれど、どこに誰がいるのかわからないの」

 その言葉を聞いた紀夫はここにいるよと一声かけてから、目の前で力なく垂れ下がっている女子生徒の両手を握った。

 するとそこにはきちんと温かさを感じる手のひらがあり、握った個所の黒い影はだんだんと薄くなりやがて消えていく。紀夫の握っている手は色白の小さな手だった。

「大丈夫かい?立ち上がる?立ち上がれる?まだ座っていた方がいいかもしれないけど・・・・・・」

 そう言うか言わないかのタイミングで、黒い影をまとった女子生徒へ向かって誰かが声をかけてきた。

「桃香、そんなとこでなにしてんの?これに乗らないと遅刻するよ」

 どうやらこの女子生徒は桃香と言うらしい。声をかけてきたのは同級生だろうか。どうせ見えてはいないのだろうが、紀夫は何となくいけないことをしているような気になり桃香の手を離した。

「手を離さないで握っていて。誰だかはわからないけど、なぜか安心するの。まだそこにいるんでしょう?」

「うん、目の前にいるよ。僕は大矢紀夫、高校一年生だったんだけど同い年くらいなのかな?一応僕からは見えているんだけど、えっと桃香さんからは全然見えないの?」

「私は奥野桃香です。高校三年生だから二つ上なのね。なんで目の前にいるはずなのに見えないのかしら?」

「うーん、見えなくても当たり前なんだ。実は僕、幽霊なんだよ」

「え? どういうこと?やっぱり私死んでしまったの!?」

 取り乱した桃香は突然立ち上がり紀夫の胸元へ突っ伏すようにぶつかり、それを受け止めた紀夫は思わず桃香を抱きしめるような体制になってしまった。

「あ、ごめんなさい。私ったら冗談を真に受けて動転してしまったみたい。紀夫君だっけ? ちゃんと目の前にいたのね」

 そう言った後、崩れるようにまたしゃがみ込み、もう一度紀夫を見上げてから気を失ってしまった。

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