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第七章 浮遊霊は考え込む

88.憎悪

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 河川敷沿いの道をしばらく進んだ僕達は例の場所へ着いた。そう、そこは僕がおぼれて引き揚げられた場所だ。すぐそばにある橋の下にはやはりマンガが積み上げれれていた。どうやらまた新しいものに交換されているようだ。

「英介君はここで亡くなったのね」

 胡桃がそう言ってから手を合わせ拝んでくれている。この場に僕が存在しているのに亡き人を忍ぶというのもおかしな話だが、はたから見れば何も変なことはしていない。おかしいのは死んでいるけど存在のある僕らのほうだろう。

 冬の休日なのでそれほどひと気はなく、犬の散歩をしている人が数名と土手の上を走っている部活動の部員たちがいるくらいか。

「このマンガ本は英介君のために誰かが置いているのかしら?」

「さあ? それは僕にもわかりませんが、気が付いた時には置いてありました。たまに新しいものに変わっているので誰かが置きに来ているのは間違いないんですが」

「きっと英介君のことを気にかけている人がいるのだわ」

「それならありがたいんですけどね」

 そんなことを話しているところへ、土手の上から近寄ってくる者がいることに僕達は気が付いていなかった。

「じゃあ次は神社へ行きましょうか。しかしさすがに川沿いは冷えるわね」

 その時、誰かが僕達の後ろから唐突に声をかけてきた。しかもこの声には聞き覚えがある。

「なあ、そこの彼女、こんなところで何してるんだ?ひと気のない寒空に女一人なんて危ないぜ」

 胡桃に気安く話しかけてきたその声を聞いた瞬間から、僕の表情がみるみる強張っていくのが自分でもよくわかる。

 なんといっても声の主は井出なのだ。一緒にいるのは井出の取り巻きの一人、山下昇だ。山下はあの時も井出達と一緒にいて僕が川に落ちるのを見ていた面子の一人である。

 不思議なことに二人ともサッカー部のユニフォームを着ていた。確かすでに退部して暇を持て余していたはずなのにどういうことなのだろう。

「どこの誰か存じませんが、気安く話しかけないでくださる?危ないと忠告してくださるくらいなら、ご自身がその危ない存在だということくらい理解できるでしょう?」

「なんだと、こいつ、随分生意気なこと言うじゃねーか。しかもなんだかお高くとまりやがってよ」

 井出は図星だったからなのか、ただ単に胡桃の言い方が気にいらなかったのかわからないが、かなりイライラしている様子だ。

「胡桃さん、こいつはたちの悪い奴なので係わりにならずに早く行きましょう」

 僕が胡桃に話しかけると胡桃がこちらをチラッと見た。そして僕の表情を見て少しだけ驚いたような顔をした。そして何かを察したように口を開いた。

「どうやらこのあたりに漂う邪悪な空気はあなた達に原因がありそうね。正直に生きることのできない、なにか後ろめたさのようなものを感じるわ」

「な、なんだと!?」

 胡桃の言った言葉を聞いて井出は一歩退いた。山下もじりじりと後ずさりをしている。

「まだ続けましょうか?私にはわかるわ、ここで何があったのか、そしてそれが事実を捻じ曲げて認識されていることもね」

「先輩、この女やばいですよ。自分は先に戻ります」

 そういって山下は振り向いて走り出した。すでに走り去っているランニング中の部員へ合流するのだろうか。

「まて、山下!この女、ふざけやがって、お前なんかに何がわかるんだ」

「さあ? 何かしらね。少なくともあなたの知らない何かを知っているのは確かよ。そしてそれはあなたが懺悔し反省する事柄であるように思えるわ」

 さすが演劇部の次期部長だ。胡桃はまるで本当の預言者や占い師のように大げさな身振りで井出を脅していく。しかしなんで井出を一目見ただけで僕の死と繋がっていることが分かったのかが不思議である。

 もし報道等で知っていたとしてもただの事故死であり、井出はおぼれている僕を助けようと川に飛び込んだ、通りがかりの先輩ということになっているはずだ。

「うるせえ、俺には反省することも懺悔することもなにもねえよ。ばからしい、この女、頭がおかしいんじゃねえのか」

「あなたはこのまま見えないものに怯え、後悔しながら生きていくのだわ。それを解決する方法がわかっていながら実行する勇気はないかわいそうな人」

「うるせえうるせえ、お前はいったい誰なんだ。本田の知り合いか何かなのか」

「本田? あなたを恨み憑りついているのは本田君というのね。私にはその彼が見えるわ」

「なっ……」

 井出はそれを聞いた瞬間返す言葉が無くなったらしく、おびえた様子で後ずさりを始めた。さすがに今の一言は効いたようだ。

「あとは自分で考えることね。これからでも間に合うことはあるのだから」

 胡桃が抽象的だが説得力のある言葉を言い、それを最後まで聞いたか聞かないかのうちに井出は振り返り走り去っていく。僕達三人はそれが見えなくなるまで姿を目で追っていた。

 井出の姿がすっかり見えなくなったとき、胡桃が大きな声で笑った。僕と千代もつられて笑ったが、千代は何のことかわかっていないだろう。

「どうだった? 私の演技力、なかなか悪くなかったでしょ?」

「はい、凄かったです。でもなんで僕が話をしていないことまでわかっていたんですか?」

「ああ、ごめんなさいね、驚かせてしまったかしら。私にもよくわからないんだけど、さっきの人が近づいてきたときに、英介君がすごい形相をしてたのよ」

「あれ? 顔に出てました?確かにあいつは僕にとって憎むべき存在ではありますけど……」

「そうしたらね、英介君が考えている恨みの感情が私の頭の中に勝手に入ってきたのよ。きっと英介君がおぼれた原因がさっきの人にあるのだなって悟ったわけ」

「そうだったんですか。もしかして僕の考えてることは胡桃さんに全部漏れているんですか?」

「いいえ、この場所と当事者がそろったからなのかしら。私がわかったのは、恨みの感情だけであとはアドリブよ」

「さすがですね、とてもアドリブの演技には思えませんでした」

「だから具体的なことは何も言わなかったでしょ?だってわからないから言えなかったんですもの」

 僕は改めて胡桃を尊敬するとともに、僕の考えていることが筒抜けなわけじゃないと聞いてホッとしていた。もし何もかも筒抜けだったとしたら、僕が胡桃に好意を持っているのもばれていると思うと恥ずかしくてたまらなかっただろう。

 そんな思いがけない出来事で胡桃の新たな能力を知ることになったと同時に、そういえばしばらく忘れていた井出達への恨みは、決して消えてしまったわけではなかったと再認識することにもなったのだった。

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