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第六章 浮遊霊たちは気づいてしまう

80.圧巻

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 その姿は圧巻の一言だった。まるで物語の中へ迷い込んだかのように体育館全体が現実離れした空気に包まれている。昨日部長が演出をしている間も、緊張感というのか、なにか違う空気を感じたが、今日はそれとはまた異質である。

 体育館では先ほどから四つ葉女子演劇部の練習が行われている。昨日胡桃が言っていたように、今日からは部長の瀬戸愛奈が演技に入り、その同級である草野孝子が演出を担当している。

 胡桃の出番はまだだったが、他の生徒と部長の演技には大きな隔たりがあるように感じる。それを指摘する草野孝子の激がまた厳しく、数人の生徒は泣きそうな声で返事をしていた。

「えいにいちゃん、あのおねえちゃん怖いね……」

「う、うん、見る時には楽しい舞台も裏では大変なんだね」

 部長が演技に入ると場の空気が変わり、なんだかそこだけにスポットライトが当たっているような感覚すら覚える。これがカリスマ性というやつなのだろうか。

 同じ場面で演技をするほかの生徒は草野孝子からの激を飛ばされているが、それを部長が優しくフォローしている。演技をせずに待機している生徒達は部長に魅了されているかのごとく視線がその姿を追っていた。

 いよいよ胡桃の出番が回ってきたようだ。舞台で準備している胡桃に草野孝子が声をかけている。心なしか胡桃が緊張しているように見える。

「くるみおねえちゃんもあのこわいおねえちゃんにしかられてしまうのかしら?」

 千代が不安げな顔で心配しているがそれも無理はない。今まで激を飛ばされていないのは部長だけなのだから。

 胡桃が大きく深呼吸をしてから数歩歩いて椅子へ座った。確か役柄はイカレ帽子屋だったな。記憶があやふやだけれど、確か意味の分からないおかしな場面だったと思う。胡桃の他に二人の生徒が同じように椅子に座ったところで、どうやら場面の開始のようだ。

 草野孝子が手を打ち大きな音が響くと胡桃を含めた三人が歌を歌いだした。手の仕草を見ると急須でお茶を注ぐようなしぐさをしている。そうだ、この場面はおかしなお茶会をしているところだったことを思い出した。

 そこへ部長演ずるアリスが入ってきてお茶会が中断した。ウサギを探し追いかけているアリスが帽子屋達に所在を尋ねると、三人が三様でたらめな事を言う。そしてアリスを無理矢理に座らせてお茶を出している。

 胡桃の演技は部長のような圧倒的ななにかは無いのかもしれないが、それでもまるで別人格が乗り移ったように感じる。大げさな身振り手振りと何を言っているのか掴めない物言いを聞いていると、あれが本当に胡桃なのだろうかという疑問さえ感じてしまうほどだ。

 今のところ草野孝子による中断の合図は無い。ここまでは順調ということかもしれない。最後に部長のアリスがさようならと言って去っていったところでこの場面は終了した。

「あら? 草野さん、今の場面は問題なかったのかしら?」

 部長が舞台袖から戻ってきて確認している。

「まあまあね、おかしなところは無かったわ。でももう少しゼスチャーを大げさにしてほしいのと歌は少し音を外してもらいたいかしらね」

「音を外したほうがいい、ですか?」

 胡桃が草野孝子へ聞き返した。

「あんまり上手だときちんとした人物に感じないかしら?ここは私も悩んでいるところなのよね」

「なるほど、何度かやってみて決めていった方が良さそうね。それにしても百目木さんはさすがの演技力だわ」

「いえ、部長の足元にも及びませんし、自分なりに出来ていない部分もわかっています」

「そりゃ愛奈と比べても仕方ないわよ。別格過ぎて他の子が沈んでしまうのが悩みだわ」

「あらあら、みんなお世辞が上手ね。場面全体は演出視点ではどうだったかしら?」

「帽子屋、三月うさぎ、眠りネズミの狂ったお茶会は場面としては短いけれど、劇中では印象的なので演技力を問われると思うの。その点この三人はほぼ完ぺきに出来ていると思うわ」

 それを聞いた胡桃達三人が喜んで手を叩きあった。

「でもね、さっきも触れたけど、あまりにも綺麗すぎると味が出ないのよねぇ。どこかで外しのある演技を混ぜてほしいかな」

「わかりました、私達も考えておきます」

 そんなこんなで練習の時間は終わり、寮生たちは先に引き上げていった。残された胡桃達はいつものように掃除をしていうようだ。そして今日は昨日とは別の下級生がやってきて胡桃達へ差し入れを手渡した。またなにかおやつになるようなものに違いない。

 掃除が終わり最後に胡桃が体育館へ鍵をかけ、その鍵を職員室へ返却に行く。それを待って僕と千代は胡桃と合流した。

「くるみおねえちゃんすごかったね。ほんとうにあたまがへんになってしまったのかとおもって、千代しんぱいしちゃった」

「あらあら、そんなにおかしかったかしら?」

「あのひとはなんできかれていることとかんけいないことおへんじするのかしらね?それにたんじょうびじゃないひがおめでたいなんて、ぜったいおかしなひとだとおもう」

「僕も演技はすごく上手だったと思いました。その……たしかにイカレてるなと……すいません……」

「はっきり言ってもらっていいのよ。おかしな人に見えたのなら出来が良かったと言うことになるから嬉しいわ」

「もっといい役もあると思うんですけど、なぜ帽子屋をやることになったんですか?」

「うーん、やりごたえありそうだと思ったし、他の子がやるにはかわいそうな気がしたのよね。もちろん演技力も要求される役だからということもあるわ」

「なるほど、適任ということなのかもしれませんね」

「そうね、私はどんな役でもできるようになりたいのよ」

「すごいなぁくるみおねえちゃん。あのこわいおねえちゃんにもしかられなかったし」

「あぁ、草野先輩ね。確かにみんなに怖がられてはいるけど、とっても優秀で優しい先輩なのよ」

「そうなの?」

「演出というものは指揮者のようなものなのよ。それを行う人によって舞台全体が大きく変わるわ」

「確かに昨日までとはまた空気が違いましたね。部長が演技に入ったからというわけじゃなかったということですか」

「そうよ、草野先輩はその場の作り方が上手なの。まるで何もない空間に本物の場面を呼び出すような、そんな凄さね」

「代役をやっていた時の演技も素晴らしかったと思うんですけど、なんで出演しないんですか?」

「これは内緒だけど、草野先輩は極度のあがり症なのよ。もしあがり症じゃなかったら素晴らしい演者になっていたと思うわ」

「はぁ、そういう事情もあるんですね……」

 話に夢中になりながら歩いていたので歩みが遅かったらしく、校門の方から懐中電灯を持った朝日が歩いて来ていた。

「お嬢、今日も遅かったので心配になってしまいまして」

「朝日さんごめんなさい、そんなに遅かったかしら?」

「いや、いつもより十分ぐらいですけどね。ほら今日はうちで飯を食うって言っていたじゃねえですか」

「いけない、そうだったわね」

「早く連れて行かないと真子の野郎がまーたぐちぐち言いやがるんでさ。お嬢にたらふく召し上がっていただきたくて昼過ぎからあれこれやってますぜ」

「それはありがたいわね。では急ぎましょうか」

「なんだかせかして申し訳ありません」

「ううん、いつもありがとうね、朝日さん」

 どうやら今日はいつもと違い、まっすぐ帰宅するのではなさそうだ。朝日さんの家と言うことは「小料理屋 真」のことだろうけど今日は定休日なのか?

 そういえば午前中に絹原へ行った報告もしていなかったなと思い出しながら、今日も胡桃と一緒に車へ乗り込んだ。

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