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第六章 浮遊霊たちは気づいてしまう
76.揺動
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街灯が殆どない山道を黒塗りの高級車が滑るように走っている。車内は静寂そのもので、前席にある時計が時刻を刻む音が聞こえてくる程だ。
その静寂を突然破ったのは千代の歌声だった。
車に乗ってからしばらくは緊張して一言も言葉を発しなかったが、胡桃がメモ帳へ気楽にして大丈夫、お歌でもどうぞ、と書き込んだところアニメの主題歌をご機嫌で歌いだしたのだった。
胡桃はそれを聞きながら優しい表情で笑みを浮かべている。
「胡桃お嬢、今日はなんだかご機嫌ですね。なにかいいことでもあったんですかい?」
運転をしながらバックミラー越しに朝日が胡桃に話しかけた。
「そうかしら? 私はいつも機嫌いいわよ。何と言っても世界一運転の上手な方に毎日エスコートしてもらっているんですもの」
「こりゃ参った、そんなことおっしゃられたら恥ずかしいやら気が引き締まるやら、困っちまいますわ」
「うふふ、でも毎日快適なのは本当よ。若いうちから贅沢しすぎでなんだか申し訳ないくらい」
「いやぁ私はね、先代が亡くなった後、若旦那から運転手はもう必要ないって聞かされた時、そりゃもう寂しくって残念で仕方なかったんですわ。それがこうやってお嬢の運転手を頼まれた時はそりゃもうガキみたいに飛び上がって喜んだもんです」
「まあ、大げさね。そんなに車の運転って楽しいものなのかしら?」
「娯楽じゃねぇんで運転を楽しんでいるだけじゃないですがね。親父が先代の運転手させてもらってる時からずっとお仕えしてましたから、それが途切れた後に再度必要とされるなんて思ってもみない出来事でしたからそりゃ嬉しくって」
「パパはおじいさまと違って講演やパーティーへ出かけることもないものね。しかも自分ではあんな小さいトラックみたいな車に乗ってるし」
「山へ行くのには都合がいいんでしょうな。ご家族で出かける際はタクシーを使えば済みますしね」
「家族ねぇ、パパとは夏休み明けから一度も会ってないし、ママなんてお正月から会ってないから間もなく一年になってしまうわ。なんであの夫婦は揃って変わり者なのかしら」
「姫様はともかく、若旦那は猟師としてはごく普通だと思いますよ。もしあの若旦那が先代の後を継いだとしたらその方が驚きですぜ」
「また姫様って言ってる。あんなド近眼の研究バカをお姫様扱いしなくていいわよ」
「いやいや、結婚式の時の姫様はそりゃとんでもないベッピンさんだったんですから。あれ見たら一生忘れられませんぜ」
「私は写真でしか見ていないけれど、あの写真の二人ったら本当は別人なんじゃないかって疑ってるくらいよ」
そういって胡桃は口を押えながら笑った。メガネの奥に見えた細くなった目と強調された濃いまつげが僕の視線を釘付けにし心を惑わせる。
それにしても姫様か。胡桃の部屋にあった家族の写真に映っていた母親を見る限り、姫様と呼ばれるほどの美人ではなかった。だが胡桃ならメガネを取って化粧をしたらきっと見違えるような女性になるんじゃないだろうか。
そんな胡桃の姿を、見たいような見たくないような複雑な気持ちで想像していた。僕の頭の中を駆け巡る思考とは無関係に、朝日と胡桃の会話は途切れることは無いし、それを気にする様子もなく千代は歌い続けている。一体先ほどまでの静寂は何だったのだろう。
車が山からの道を出て海岸沿いの道まで来ると、ようやく街灯で周囲の景色が見えるようになった。かといって何か特別な物があるわけではなく、海面が光を反射して煌めいているのが見えるくらいだ。
しばらく進むとフロントガラス越しに街の明かりが見えてきた。車だとあっという間の道のりでなんだか悔しい気もするが、いくら疲れずに走り続けられると言っても人間の、いや幽霊の足では限界がある。さらに荒波海岸駅前を通り過ぎ胡桃のマンションへと帰りついた。
「お嬢、今日もお疲れ様でした。明朝またお迎えにあがります」
「朝日さん、ありがとう。また明日ね、おやすみなさい」
どうやら今日はそのまま帰るらしい。昨日みたいに部屋まで来るのは珍しいのかもしれない。マンションの玄関先で朝日が去るのを見送った胡桃が僕と千代へ声をかける。
「さ、行きましょう。今日は朝日さんが饒舌だったから道中退屈させてしまったわね」
「そんなことないよ、千代おうたうたってたのしかったもの」
「僕も退屈ではなかったです。話を聞いているのも楽しかったし」
「あら? それはどの話の事かしら。英介君が聞き耳たてているのだったらもう少し可愛くお話すれば良かったわ」
これだ。胡桃のこういう物言いが僕の気持ちを揺さぶるのだ。言葉の端々に感じられる印象的で好意的な台詞はもしかしたら僕に好意を持っているのかもと思わせる。
でも本当のところは演劇の影響で芝居じみた言い回しのような気もしている。早く慣れないと僕の気持ちは振り回され続けてしまう。しかもそれは僕が勝手に感じている一方的な気持ちなのだから。
そんなことを考えながら胡桃の後ろについてエレベーターに乗り込んだ。
その静寂を突然破ったのは千代の歌声だった。
車に乗ってからしばらくは緊張して一言も言葉を発しなかったが、胡桃がメモ帳へ気楽にして大丈夫、お歌でもどうぞ、と書き込んだところアニメの主題歌をご機嫌で歌いだしたのだった。
胡桃はそれを聞きながら優しい表情で笑みを浮かべている。
「胡桃お嬢、今日はなんだかご機嫌ですね。なにかいいことでもあったんですかい?」
運転をしながらバックミラー越しに朝日が胡桃に話しかけた。
「そうかしら? 私はいつも機嫌いいわよ。何と言っても世界一運転の上手な方に毎日エスコートしてもらっているんですもの」
「こりゃ参った、そんなことおっしゃられたら恥ずかしいやら気が引き締まるやら、困っちまいますわ」
「うふふ、でも毎日快適なのは本当よ。若いうちから贅沢しすぎでなんだか申し訳ないくらい」
「いやぁ私はね、先代が亡くなった後、若旦那から運転手はもう必要ないって聞かされた時、そりゃもう寂しくって残念で仕方なかったんですわ。それがこうやってお嬢の運転手を頼まれた時はそりゃもうガキみたいに飛び上がって喜んだもんです」
「まあ、大げさね。そんなに車の運転って楽しいものなのかしら?」
「娯楽じゃねぇんで運転を楽しんでいるだけじゃないですがね。親父が先代の運転手させてもらってる時からずっとお仕えしてましたから、それが途切れた後に再度必要とされるなんて思ってもみない出来事でしたからそりゃ嬉しくって」
「パパはおじいさまと違って講演やパーティーへ出かけることもないものね。しかも自分ではあんな小さいトラックみたいな車に乗ってるし」
「山へ行くのには都合がいいんでしょうな。ご家族で出かける際はタクシーを使えば済みますしね」
「家族ねぇ、パパとは夏休み明けから一度も会ってないし、ママなんてお正月から会ってないから間もなく一年になってしまうわ。なんであの夫婦は揃って変わり者なのかしら」
「姫様はともかく、若旦那は猟師としてはごく普通だと思いますよ。もしあの若旦那が先代の後を継いだとしたらその方が驚きですぜ」
「また姫様って言ってる。あんなド近眼の研究バカをお姫様扱いしなくていいわよ」
「いやいや、結婚式の時の姫様はそりゃとんでもないベッピンさんだったんですから。あれ見たら一生忘れられませんぜ」
「私は写真でしか見ていないけれど、あの写真の二人ったら本当は別人なんじゃないかって疑ってるくらいよ」
そういって胡桃は口を押えながら笑った。メガネの奥に見えた細くなった目と強調された濃いまつげが僕の視線を釘付けにし心を惑わせる。
それにしても姫様か。胡桃の部屋にあった家族の写真に映っていた母親を見る限り、姫様と呼ばれるほどの美人ではなかった。だが胡桃ならメガネを取って化粧をしたらきっと見違えるような女性になるんじゃないだろうか。
そんな胡桃の姿を、見たいような見たくないような複雑な気持ちで想像していた。僕の頭の中を駆け巡る思考とは無関係に、朝日と胡桃の会話は途切れることは無いし、それを気にする様子もなく千代は歌い続けている。一体先ほどまでの静寂は何だったのだろう。
車が山からの道を出て海岸沿いの道まで来ると、ようやく街灯で周囲の景色が見えるようになった。かといって何か特別な物があるわけではなく、海面が光を反射して煌めいているのが見えるくらいだ。
しばらく進むとフロントガラス越しに街の明かりが見えてきた。車だとあっという間の道のりでなんだか悔しい気もするが、いくら疲れずに走り続けられると言っても人間の、いや幽霊の足では限界がある。さらに荒波海岸駅前を通り過ぎ胡桃のマンションへと帰りついた。
「お嬢、今日もお疲れ様でした。明朝またお迎えにあがります」
「朝日さん、ありがとう。また明日ね、おやすみなさい」
どうやら今日はそのまま帰るらしい。昨日みたいに部屋まで来るのは珍しいのかもしれない。マンションの玄関先で朝日が去るのを見送った胡桃が僕と千代へ声をかける。
「さ、行きましょう。今日は朝日さんが饒舌だったから道中退屈させてしまったわね」
「そんなことないよ、千代おうたうたってたのしかったもの」
「僕も退屈ではなかったです。話を聞いているのも楽しかったし」
「あら? それはどの話の事かしら。英介君が聞き耳たてているのだったらもう少し可愛くお話すれば良かったわ」
これだ。胡桃のこういう物言いが僕の気持ちを揺さぶるのだ。言葉の端々に感じられる印象的で好意的な台詞はもしかしたら僕に好意を持っているのかもと思わせる。
でも本当のところは演劇の影響で芝居じみた言い回しのような気もしている。早く慣れないと僕の気持ちは振り回され続けてしまう。しかもそれは僕が勝手に感じている一方的な気持ちなのだから。
そんなことを考えながら胡桃の後ろについてエレベーターに乗り込んだ。
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