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三章閑話 ナターシャ、エセルター領へ行く
2.平民として
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翌日。
カーテンの隙間から差す光の鬱陶しさに嫌気がさし、ナターシャは嫌な夢でも見たかのように、飛び起きた。
眠たい眼を擦りながら、鏡面の前に座り、寝癖の付いたボサボサな髪を梳かす。
そして、クローゼットから衣類を取り出し、せっせと着替えた。鏡には平民の仕事着を着たナターシャの姿が写っており、しばらくするとそれは去っていった。
今日もまた彼女は農民の手伝いをするため、朝から屋敷を出た。
今回向かう先は昨日と同じ、アンドリーの家だ。昨日の続きの農作業をして、その後は彼の息子に手芸を教える。それが今日のスケジュールだ。
幸い手芸は得意だったし、何より子どもの成長する姿ほど喜ばしいものはない。
それが誰かのためであるなら尚更だ。
「おはようございます、アンドリーさん」
「おはようございます、ナターシャさん。今日も早いですね」
「ええ。大事な仕事を遅刻するわけにはいけませんから。それで今日は畑の耕作の続きですよね?」
ナターシャが畑に着き、アンドリーの姿を見つけると、彼女たちは多少の挨拶を交わした。
そして、今日の流れを確認しようと、彼女が問うと、アンドリーは顔を曇らせた。
「ああ、そのことなんですけどね...。今朝、息子と家内が両方体調を崩してしまいまして、看る人が居ないんですよ。今は安静に寝てはいますが、それがいつ悪化するか、分からないものでね。なので、ここは一つ頼まれてはくれませんか?」
「そう言うことなら構いませんよ!薬屋を呼べば良いんですよね?」
「助かります、ナターシャさん」
「いえいえ。人手は多いに越したことはありませんから。それでは、アンドリーさんは家に戻って看病を、私は薬屋に行ってきますね」
アンドリーが家に戻るのを見届けると、ナターシャは薬屋に向かった。
思えば、アンドリーは確かにいつもの農作業用の服ではなく、普段着のようだった。
いつもは元気なはずの挨拶も、少しばかり陰りがあったように聞こえたから、たぶん、家族が心配でたまらなかったのだろう。
ナターシャは彼の妻や子どもの状態を見たわけでは無かったが、彼らが薬を必要としている者であることは分かった。
「リリックさん!リリックさんはいませんか!」
「そんな慌てて何なんだよ。ったく、今日は定休日だっての...。·····って、ナターシャ様じゃないですか。どうしたんですか、そんなに慌てて」
ナターシャが薬屋の店主のリリックを呼ぶと、彼はたいそう、不貞腐れた顔で出てきた。
想像するに、今の今まで寝ていたのだろう。青い無精髭を生やし、髪はボサボサだ。
それでも、平民の服を身にまとった貴族のナターシャを見るや否や、彼は出来る限りその姿勢を正した。
「アンドリーさんの家に来て頂けませんか?彼の奥様と息子さんが、体調を崩していて...。薬を所望しているのです!」
「急患ということですか...。分かりました、急ぎましょう」
彼は大きな薬箱を手にし、彼女が案内するままの場所を目指した。
やがてアンドリーの家に着く。
小さく扉をノックし、小声で断りを入れながら中に入ると、確かに二人が薄ら寒そうに布団の中で顔を赤くして、唇を青くしていた。
そして、二人して苦しそうに咳を込む。
「それじゃあ、触るぞ」
リリックが手を伸ばし、病人の頬と首を順に触った。頬に触れた彼の手が若干、赤く彩られる。
「薬屋さん、二人の体調はどうなんですか!?」
「体温は異常なし。喉も特に腫れている様子は無いみたいだな。ただ、咳き込みばかりをしている」
「そうですか。これは治りそうですか」
「それは分からないな。やけに顔を赤くして、唇は青ざめさせて、咳だけをする風邪の症例は見たことがねぇ。新しい風邪なのか、あるいは...」
「最近、北の方から流行り病が伝染った、と聞きます。きっとその類いでしょう」
リリックが何かを言おうとすると、ナターシャはそれを遮るように、言葉を挟んだ。
「それは本当ですか?」
「ええ。それにその病は通常の薬でも効く、と聞きました」
「そうですか。それじゃあ常備薬で事足りますね」
「いえ、常備薬だけでは不安です。ここは新しい薬を処方してください。私が支払うので」
「·····そうですか」
リリックは不満げにナターシャを睨み、それでも薬屋としての仕事を全うするために、薬瓶を一つ取り出した。
「ありがとうございます、ナターシャさん」
「いえいえ、そちらこそお大事に」
アンドリーに別れを告げると、リリックとナターシャは彼が戸を閉める瞬間まで、見届けた。
そして、彼の姿が見えなくなると、リリックが言葉を漏らした。
「なぁ、このあとは暇ですか?」
「何ですか、その誘い文句は。·····まぁ、暇ですけど」
「そうですか、そしたら俺を手伝ってくれませんか?」
「良いですけど、何を手伝えば良いんですか?言っておきますが、調合師の仕事は手伝えませんよ」
「少し、俺の話に付き合ってください」
カーテンの隙間から差す光の鬱陶しさに嫌気がさし、ナターシャは嫌な夢でも見たかのように、飛び起きた。
眠たい眼を擦りながら、鏡面の前に座り、寝癖の付いたボサボサな髪を梳かす。
そして、クローゼットから衣類を取り出し、せっせと着替えた。鏡には平民の仕事着を着たナターシャの姿が写っており、しばらくするとそれは去っていった。
今日もまた彼女は農民の手伝いをするため、朝から屋敷を出た。
今回向かう先は昨日と同じ、アンドリーの家だ。昨日の続きの農作業をして、その後は彼の息子に手芸を教える。それが今日のスケジュールだ。
幸い手芸は得意だったし、何より子どもの成長する姿ほど喜ばしいものはない。
それが誰かのためであるなら尚更だ。
「おはようございます、アンドリーさん」
「おはようございます、ナターシャさん。今日も早いですね」
「ええ。大事な仕事を遅刻するわけにはいけませんから。それで今日は畑の耕作の続きですよね?」
ナターシャが畑に着き、アンドリーの姿を見つけると、彼女たちは多少の挨拶を交わした。
そして、今日の流れを確認しようと、彼女が問うと、アンドリーは顔を曇らせた。
「ああ、そのことなんですけどね...。今朝、息子と家内が両方体調を崩してしまいまして、看る人が居ないんですよ。今は安静に寝てはいますが、それがいつ悪化するか、分からないものでね。なので、ここは一つ頼まれてはくれませんか?」
「そう言うことなら構いませんよ!薬屋を呼べば良いんですよね?」
「助かります、ナターシャさん」
「いえいえ。人手は多いに越したことはありませんから。それでは、アンドリーさんは家に戻って看病を、私は薬屋に行ってきますね」
アンドリーが家に戻るのを見届けると、ナターシャは薬屋に向かった。
思えば、アンドリーは確かにいつもの農作業用の服ではなく、普段着のようだった。
いつもは元気なはずの挨拶も、少しばかり陰りがあったように聞こえたから、たぶん、家族が心配でたまらなかったのだろう。
ナターシャは彼の妻や子どもの状態を見たわけでは無かったが、彼らが薬を必要としている者であることは分かった。
「リリックさん!リリックさんはいませんか!」
「そんな慌てて何なんだよ。ったく、今日は定休日だっての...。·····って、ナターシャ様じゃないですか。どうしたんですか、そんなに慌てて」
ナターシャが薬屋の店主のリリックを呼ぶと、彼はたいそう、不貞腐れた顔で出てきた。
想像するに、今の今まで寝ていたのだろう。青い無精髭を生やし、髪はボサボサだ。
それでも、平民の服を身にまとった貴族のナターシャを見るや否や、彼は出来る限りその姿勢を正した。
「アンドリーさんの家に来て頂けませんか?彼の奥様と息子さんが、体調を崩していて...。薬を所望しているのです!」
「急患ということですか...。分かりました、急ぎましょう」
彼は大きな薬箱を手にし、彼女が案内するままの場所を目指した。
やがてアンドリーの家に着く。
小さく扉をノックし、小声で断りを入れながら中に入ると、確かに二人が薄ら寒そうに布団の中で顔を赤くして、唇を青くしていた。
そして、二人して苦しそうに咳を込む。
「それじゃあ、触るぞ」
リリックが手を伸ばし、病人の頬と首を順に触った。頬に触れた彼の手が若干、赤く彩られる。
「薬屋さん、二人の体調はどうなんですか!?」
「体温は異常なし。喉も特に腫れている様子は無いみたいだな。ただ、咳き込みばかりをしている」
「そうですか。これは治りそうですか」
「それは分からないな。やけに顔を赤くして、唇は青ざめさせて、咳だけをする風邪の症例は見たことがねぇ。新しい風邪なのか、あるいは...」
「最近、北の方から流行り病が伝染った、と聞きます。きっとその類いでしょう」
リリックが何かを言おうとすると、ナターシャはそれを遮るように、言葉を挟んだ。
「それは本当ですか?」
「ええ。それにその病は通常の薬でも効く、と聞きました」
「そうですか。それじゃあ常備薬で事足りますね」
「いえ、常備薬だけでは不安です。ここは新しい薬を処方してください。私が支払うので」
「·····そうですか」
リリックは不満げにナターシャを睨み、それでも薬屋としての仕事を全うするために、薬瓶を一つ取り出した。
「ありがとうございます、ナターシャさん」
「いえいえ、そちらこそお大事に」
アンドリーに別れを告げると、リリックとナターシャは彼が戸を閉める瞬間まで、見届けた。
そして、彼の姿が見えなくなると、リリックが言葉を漏らした。
「なぁ、このあとは暇ですか?」
「何ですか、その誘い文句は。·····まぁ、暇ですけど」
「そうですか、そしたら俺を手伝ってくれませんか?」
「良いですけど、何を手伝えば良いんですか?言っておきますが、調合師の仕事は手伝えませんよ」
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